第15話「美しさの呪い」
第十五話「美しさの呪い」
一 醜いと言われた少女
「ねえ、あの子ってブスじゃない?」
その言葉を、白石麗奈は何度聞いただろう。
小学校の教室。
休み時間、女子たちが集まって笑っている。
麗奈が近づくと、会話が止まった。
そして、誰かが小さく笑った。
「別に、何でもないよ」
そう言われるたび、麗奈は自分の顔を触った。
何がいけないのだろう。
目だろうか。
鼻だろうか。
口元だろうか。
家に帰ると、洗面所の鏡をじっと見つめた。
鏡の中には、いつもと変わらない自分がいた。
けれど、学校で聞いた言葉が頭から離れなかった。
「自分の顔、ちゃんと見たことある?」
ある日、同級生の一人が、そう言って笑った。
周囲の子たちも笑った。
麗奈は何も言い返せなかった。
ただ、顔が熱くなるのを感じていた。
その日の帰り道、麗奈は下を向いて歩いた。
すれ違う人と目が合うと、何か言われるのではないかと思った。
誰も自分のことなど見ていない。
頭では分かっていた。
それでも、人の視線が怖かった。
家に帰ると、母親が夕食を作っていた。
「おかえり、麗奈」
「……ただいま」
母親は、いつものように笑った。
「今日はどうだった?」
「普通」
麗奈は、それだけ答えて部屋へ入った。
夕食のあと、母親が髪をとかしてくれた。
「麗奈は可愛いねえ」
鏡越しに、母親の顔が見えた。
「……本当に?」
「本当よ。お母さんの大事な娘なんだから」
母親は、麗奈を抱きしめた。
その腕は温かかった。
麗奈も、その言葉を信じたかった。
けれど、翌日、学校へ行けば、また笑い声が聞こえる。
母親は可愛いと言ってくれる。
でも、みんなは違う。
どちらを信じればいいのか、幼い麗奈には分からなかった。
本当は、友達が欲しかった。
一緒に帰って、くだらない話をして、誕生日には手紙を交換する。
そんな、ごく普通の毎日を送りたかった。
誰かに特別な存在だと思われなくてもよかった。
ただ、顔を理由に嫌われたくなかった。
ある夜、麗奈は布団の中で母親に尋ねた。
「お母さん」
「なあに?」
「私、大きくなったら可愛くなれるかな」
母親は、少し驚いた顔をした。
「どうして、そんなことを聞くの?」
麗奈は答えなかった。
母親は、しばらくしてから言った。
「麗奈は、今のままでも可愛いよ」
優しい声だった。
けれど、麗奈はその言葉を胸の奥まで届けることができなかった。
翌朝、鏡の前に立った麗奈は、自分の顔を見つめた。
そして、心の中でつぶやいた。
――いつか、絶対に綺麗になってやる。
――誰も私を笑えないくらいに。
その願いは、幼い少女の小さな決意だった。
そのときの麗奈は、まだ知らなかった。
その決意が、やがて自分を支える力にも、苦しめる鎖にもなっていくことを。
二 美しくなった日
大人になった麗奈は、美容整形について調べ始めた。
最初は、長年気になっていた部分を変えることだった。
鏡を見る。
以前とは少し違う自分がいた。
まだ腫れも残っていたが、麗奈の胸には、確かな期待があった。
変われる。
自分は変われるのだ。
その思いが、長い間、彼女を苦しめてきた記憶を少しだけ遠ざけた。
麗奈は仕事をし、お金を貯め、少しずつ自分の理想に近づいていった。
一つ変わると、今度は別の部分が気になった。
もう少し、こうだったら。
あと少し、ここが変われば。
その願いを、一つずつ形にしていった。
やがて、麗奈は自分の顔を好きだと思える日が増えていった。
気に入った服を着る。
髪を整える。
鏡の前で笑ってみる。
以前なら、すぐに目をそらしていた自分の顔を、今はじっくりと眺められる。
それが嬉しかった。
美しくなりたいと願ったことは、間違いではなかった。
少なくとも、麗奈にとっては。
ある日、友人に勧められ、麗奈は自分の写真をSNSに投稿した。
何気ない一枚だった。
お気に入りの服を着て、街のカフェで微笑んでいる写真。
特別なことは何もしていない。
ただ、自分の好きな自分を、誰かに見てもらいたかった。
翌朝、スマートフォンを開いた麗奈は、目を疑った。
通知が、次々と届いていた。
写真が拡散されていた。
「この人、誰?」
「綺麗すぎる」
「本当に実在するの?」
「女神みたい」
コメントは増え続けた。
数千。
数万。
さらにその先へ。
麗奈の写真は、さまざまなアカウントで紹介され、いつの間にか大勢の人に知られるようになっていた。
美容に関する仕事の依頼が届いた。
雑誌の取材を受けた。
動画に出演すると、再生回数は瞬く間に伸びた。
「美しすぎる女性」
「誰もが憧れる完璧な美貌」
そんな言葉とともに、麗奈の名前が広がっていった。
かつて、顔を理由に笑われていた少女。
その少女が今、顔を理由に称賛されていた。
麗奈は、画面に映る自分を見つめた。
コメント欄には、褒め言葉が並んでいる。
「綺麗」
「憧れる」
「こんな顔に生まれたかった」
麗奈は、思わず笑った。
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
かつて自分が欲しかった言葉が、画面いっぱいに並んでいた。
誰も自分を笑わない。
誰も自分を醜いとは言わない。
むしろ、自分のようになりたいと願う人までいる。
麗奈は、初めて自分の人生を誇らしく思った。
綺麗になったこと。
努力してきたこと。
自分の望む姿を手に入れたこと。
そのすべてが、報われたように感じられた。
「……やっとだ」
麗奈は、小さくつぶやいた。
「やっと、ここまで来た」
その目には、喜びの涙が浮かんでいた。
その涙は、決して偽物ではなかった。
麗奈は確かに、幸せを感じていたのだ。
三 画面の向こう側
麗奈が有名になるにつれ、生活は大きく変わった。
街を歩けば、声をかけられる。
店に入れば、店員が気づく。
SNSには、毎日のようにメッセージが届いた。
麗奈の容姿を褒める言葉。
自分も綺麗になりたいという相談。
人生が変わったという報告。
「麗奈さんを見て、私も自分を変えてみようと思いました」
そんなメッセージを読んだとき、麗奈は嬉しかった。
自分の姿が、誰かの希望になる。
それは、幼い頃には想像もしなかったことだった。
美容整形を受けることに不安を抱える女性から、相談を受けることもあった。
麗奈は、自分の経験を話した。
変わりたいと思うことは悪いことではない。
自分が納得できる選択をすればいい。
誰かに言われたからではなく、自分自身がどうしたいのかを大切にしてほしい。
そうした言葉は、麗奈の本心だった。
彼女は、自分が手に入れた美しさを否定していなかった。
それどころか、その美しさによって広がった世界を、心から喜んでいた。
けれど、人気が高まるにつれて、別の感情も芽生え始めた。
自分より綺麗だと話題になる女性。
自分より若い女性。
自分と似た雰囲気を持ちながら、急速に人気を集める女性。
そんな存在が目に入るたび、麗奈の心は落ち着かなくなった。
以前なら、ただの嫉妬で済んだのかもしれない。
けれど、今の麗奈にとって、人気と美しさは自分の価値を証明するものになっていた。
自分が一番でなければ、また何かを失ってしまう。
そんな不安が、少しずつ膨らんでいった。
SNSのコメントを何度も確認する。
自分を褒める言葉が減っていないか。
誰かと比較されていないか。
自分より美しいと評される人が現れていないか。
麗奈は、以前より頻繁に鏡を見るようになった。
褒められることが嬉しい。
だからこそ、褒められなくなることが怖い。
美しくなったことは、彼女に喜びを与えた。
しかし、その美しさが多くの人の評価と結びついたとき、麗奈はその評価を失うことにも怯えるようになっていた。
それでも、彼女は笑った。
カメラの前では、いつも綺麗な笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
「嬉しいです」
「これからも頑張ります」
言葉も表情も、間違いではなかった。
ただ、カメラが止まると、麗奈は自分の顔を確かめた。
まだ大丈夫。
まだ綺麗。
まだ、みんなが見てくれている。
彼女は、その言葉を自分に言い聞かせていた。
四 心の奥で鳴った音
ある日、麗奈は美容関係のイベントに出席した。
会場には多くの人が集まり、彼女を見つけると、次々に声をかけてきた。
「麗奈さん、本当に綺麗ですね」
「いつもSNSを見ています」
「ずっと憧れていました」
麗奈は、笑顔で応じた。
写真を撮り、サインを求められれば応じた。
その日の麗奈は、機嫌がよかった。
イベントが終わり、会場の出口へ向かっていたときだった。
壁際に、一人の若い女性が立っていた。
二十歳そこそこだろうか。
少し大きめの服を着て、うつむいていた。
女性の目元は赤かった。
友人らしい女性が、隣で何かを話しかけている。
「気にしなくていいって」
「でも……」
「そんなこと言う人のほうがおかしいよ」
麗奈は、通り過ぎようとした。
そのとき、若い女性が顔を上げた。
麗奈は、足を止めた。
その顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
小さな目。
自信なさげな表情。
人と目が合うと、すぐに視線をそらす仕草。
まるで、昔の自分自身を見ているようで怖くなった。
それは、麗奈が幼い頃の自分を思い出すには十分だった。
女性は、友人に小さな声で言った。
「私、やっぱり変なのかな……」
「そんなことないよ」
「でも、写真を撮られたとき、みんな笑ってた」
麗奈は、その言葉を聞いていた。
聞きたくないのに、耳に入ってきた。
昔の自分と、そっくりだった。
あの頃の自分。
鏡を見るたびに、どこが悪いのかを探していた自分。
人の笑い声を聞くだけで、自分のことではないかと不安になった自分。
誰かに「可愛い」と言われても、信じられなかった自分。
麗奈の胸の奥で、何かが揺れた。
女性が、ふと麗奈に気づいた。
「あ……」
驚いた顔をした。
「白石麗奈さん、ですか?」
麗奈は、微笑んだ。
「そうよ」
女性は、少しだけ顔を明るくした。
「私、ずっと見ています。麗奈さんみたいに綺麗になれたらって……」
その言葉に、麗奈の胸が締めつけられた。
昔の自分と同じ顔をした女性が、自分を見上げている。
かつての自分が、今の自分に憧れている。
麗奈は、何か優しい言葉をかけようとした。
大丈夫。
あなたにも、あなたの良さがある。
自分の価値を、顔だけで決めなくていい。
そう言えばよかったのかもしれない。
けれど、そのとき。
近くにいた別の女性が、二人を見て笑った。
「え、何? あの子、麗奈さんみたいになりたいの?」
その女性は、若い女性の顔を見た。
そして、悪気もなさそうに言った。
「無理でしょ。だって、ブスじゃん」
周囲で、小さな笑い声が起きた。
若い女性の表情が凍りついた。
彼女は何も言わず、うつむいた。
その姿を見た瞬間。
麗奈の心の奥で、何かが鳴った。
カチリ。
小さな音だった。
本当に音がしたのかどうかも、分からない。
けれど、麗奈には聞こえた気がした。
何かが、はまった音。
あるいは、何かが壊れた音。
麗奈は、自分でも気づかないうちに口を開いていた。
「……そうね」
若い女性が、顔を上げた。
麗奈は、彼女を見た。
そして、言った。
「自分の顔が嫌なら、努力すればいいじゃない」
女性の目が揺れた。
麗奈は、続けた。
「いつまでもそんなことで傷ついていたら、この先やっていけないわよ」
その言葉は、静かだった。
怒鳴ったわけではない。
笑ったわけでもない。
ただ、冷たかった。
麗奈は、その言葉を口にした瞬間、自分が何を言ったのかを理解した。
それは、かつて自分が聞きたかった言葉ではなかった。
自分が、言われたくなかった言葉だった。
若い女性は、小さく頭を下げた。
「……すみません」
その声は、ほとんど聞こえなかった。
女性は、友人に促され、会場を出ていった。
麗奈は、その背中を見送った。
心の奥で、先ほどの音がもう一度鳴った気がした。
カチリ。
麗奈は、唇を結んだ。
なぜ、あんなことを言ったのだろう。
彼女は、昔の自分とそっくりだった。
自分が、あの子だったら。
あんな言葉をかけられたら、どれほど傷ついただろう。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
それなのに。
麗奈は、スマートフォンを取り出した。
画面には、イベントの写真が並んでいた。
「今日も綺麗すぎる!」
「やっぱり麗奈さんが一番!」
「本当に憧れます!」
麗奈は、そのコメントを見つめた。
いつもなら嬉しくなる言葉だった。
今は、何も感じなかった。
彼女は画面を閉じた。
心の奥に残った音は、消えなかった。
五 美しさを失う恐怖
それから、麗奈は以前よりも人に厳しくなった。
自分の容姿を気にする女性に、冷たい言葉をかけることが増えた。
自分より若い女性が注目されると、必要以上に欠点を探した。
仕事相手が自分の意見に反対すると、相手を見下すような言葉を口にした。
「あなた、もう少し考えてから話したら?」
「その程度のことで落ち込むの?」
「努力が足りないんじゃない?」
言葉は鋭くなった。
かつて麗奈が傷つけられた言葉と、よく似ていた。
そのたび、麗奈の心の奥で、何かが小さく鳴った。
カチリ。
けれど、彼女はその音を聞かないふりをした。
自分は、昔とは違う。
今の自分は、努力してここまで来た。
美しくなるために、どれだけの時間とお金を費やしたのか。
どれほど苦労したのか。
誰にも分からない。
だから、簡単に自分を批判してほしくなかった。
そう思う一方で、麗奈は他人の苦しみを簡単に切り捨てていた。
自分は努力した。
だから、あなたも努力すればいい。
そう言い聞かせることで、かつての自分が抱えていた痛みを、無理に小さくしようとしていたのかもしれない。
けれど、過去の自分を否定しても、過去が消えるわけではなかった。
夜、部屋に帰ると、麗奈は鏡の前に立った。
美しい顔が映っている。
SNSには、今日も褒め言葉が並んでいる。
仕事の依頼もある。
多くの人が、自分に憧れている。
それなのに、心は落ち着かなかった。
若い女性の顔が、何度も思い浮かんだ。
うつむいた目。
小さな声。
「……すみません」
その言葉が、頭から離れなかった。
麗奈は、鏡から目をそらした。
「私は……間違ってない」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
「私は、自分で努力したんだから」
それは、嘘ではなかった。
麗奈は努力してきた。
自分の望む姿を手に入れるために、たくさんのことを乗り越えてきた。
整形によって、自分を好きになれた瞬間もあった。
美しくなったことで、世界が広がったこともあった。
その喜びを、誰かに否定される必要はない。
けれど。
自分が努力したことと、他人の痛みを軽く扱っていいことは、別だった。
麗奈は、そのことを分かっていた。
分かっていたからこそ、苦しかった。
自分は、あの頃の人たちと同じことをしているのではないか。
自分を笑った人たちと、何が違うのだろう。
その問いに、答えられなかった。
やがて、麗奈は人と会うことを避けるようになった。
SNSには、変わらず美しい姿を投稿した。
写真を撮り、光の角度を確かめ、気に入った一枚を選んだ。
投稿すれば、たくさんの反応が返ってくる。
「綺麗」
「憧れます」
「ずっと応援しています」
その言葉を見ると、少しだけ安心できた。
けれど、安心は長く続かなかった。
スマートフォンを閉じれば、静かな部屋が待っていた。
誰もいない。
誰にも何も言われない。
それなのに、麗奈は自分の顔を確かめずにはいられなかった。
目元に変化はないか。
肌は疲れて見えないか。
以前より、魅力がなくなっていないか。
鏡を見るたび、気になるところが増えていった。
美しさを手に入れたはずだった。
それなのに、失うことばかり考えていた。
六 鏡の前
三十八歳の誕生日が過ぎた頃、麗奈は仕事をいくつか断った。
疲れていた。
誰かに会うことも、笑顔を作ることも、以前より難しくなっていた。
SNSには、相変わらず多くの人が集まっていた。
投稿すれば反応がある。
新しい写真を待っている人もいる。
麗奈を綺麗だと言う人も、憧れていると言う人もいた。
けれど、麗奈はその言葉を見ても、以前のようには喜べなかった。
スマートフォンを置き、部屋を見回した。
整った家具。
丁寧に並べられた化粧品。
クローゼットには、気に入って買った服が並んでいる。
鏡の前には、いつも使う化粧道具が置かれていた。
何もかも、自分で選んだものだった。
自分が欲しかった生活。
自分が手に入れた美しさ。
そのどれもが、嘘ではなかった。
麗奈は、鏡の前に立った。
顔を見つめる。
いつものように、細かなところまで確認しようとした。
けれど、その日は途中でやめた。
ただ、鏡の中の自分を見つめた。
長い時間。
「……綺麗になったよね」
小さく、声に出した。
返事はなかった。
「本当に、綺麗になった」
麗奈は、ゆっくりと顔を傾けた。
どの角度から見ても、そこには自分が望んだ姿があった。
長い間、欲しくてたまらなかったもの。
かつて、手に入れればすべてが変わると思っていたもの。
その美しさは、今も確かにそこにあった。
麗奈は、微笑もうとした。
うまく笑えなかった。
「……なのに、どうして」
声がかすれた。
「どうして、まだ怖いんだろう」
目の奥が熱くなった。
麗奈は、瞬きをした。
すると、頬に一滴、涙がこぼれた。
あふれ出したわけではなかった。
声を上げて泣いたわけでもなかった。
ただ、自然に。
頬を伝う涙が、一滴、落ちた。
麗奈は、その涙を拭かなかった。
鏡の中の自分を見つめたまま、立っていた。
「私……何が欲しかったんだろう」
幼い頃の記憶が、よみがえった。
教室の隅。
笑い声。
自分の顔を触りながら、何がいけないのかと考えていた時間。
母親の声。
――麗奈は可愛いねえ。
その言葉を信じたかった。
本当は、ただそれだけだったのかもしれない。
誰かに綺麗だと言ってほしかった。
誰かに愛してほしかった。
そして、自分自身を嫌いにならずに生きたかった。
麗奈は、目を伏せた。
「……お母さん」
かすかな声だった。
もう、何年も前に聞いた母親の声が、心の中に残っていた。
母親は、きっと嘘をついていたわけではない。
娘だから、無理に褒めていたわけでもない。
母親にとって、麗奈は大切な娘だった。
それでも、幼い麗奈には信じられなかった。
他人の言葉が、母親の言葉よりも強く心に残ってしまった。
そのことを、今になって思い出していた。
麗奈は、鏡に手を伸ばした。
冷たいガラスに、指先が触れた。
「私、綺麗になりたかったんだよ」
誰に伝えるでもなく、つぶやいた。
「本当に、綺麗になりたかった……」
涙が、もう一滴、頬を伝った。
「それなのに……」
言葉が途切れた。
彼女は、何かを言おうとしていた。
自分が何を求めていたのか。
何を失ったのか。
何を取り戻したかったのか。
その答えを探していたのかもしれない。
けれど、言葉にはならなかった。
鏡の中には、美しい女性が立っていた。
その顔は、麗奈が長い時間をかけて手に入れたものだった。
努力の結果であり、喜びの証でもあった。
それは決して、間違いではなかった。
ただ、その顔だけでは、彼女の心のすべてを救うことはできなかった。
麗奈は、鏡の前に置かれた小さな刃物に目を向けた。
しばらく、動かなかった。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
鏡の中の自分を見つめたまま、刃物を顔に当てた。
その瞬間、麗奈の表情がわずかに揺れた。
鏡の中の女性も、同じように揺れていた。
部屋は静かだった。
時計の音だけが、聞こえていた。
――その先に何が起きたのか。
鏡は、何も語らなかった。
◇
翌朝。
仕事の連絡がつかないことを心配した関係者が、麗奈の自宅を訪ねた。
何度呼びかけても、返事はなかった。
やがて室内で、彼女は発見された。
そこにあったのは、昨日まで多くの人が憧れていた女性の姿だった。
けれど、その顔には、深く刻まれた無数の傷が残されていた。
整った顔立ちも、丁寧に手入れされた肌も、彼女が長い年月をかけて手に入れた美しさも、もう以前のままではなかった。
発見した人は、言葉を失った。
化粧台には、化粧品がきれいに並んでいた。
その前には、大きな鏡があった。
鏡は、何も語らなかった。
ただ、そこに映るはずだった美しい顔を、静かに見つめていた。
スマートフォンの画面には、昨日投稿された写真が残っていた。
笑顔の麗奈。
『綺麗です』
『憧れます』
『大好きです』
画面の中の彼女は、誰よりも幸せそうに見えた。
けれど、その笑顔と、目の前にある現実とのあまりの違いに、誰もが言葉を失った。
彼女は、何のために美しくなろうとしたのだろう。
誰にも笑われないために。
誰にも嫌われないために。
誰かに認めてもらうために。
そして最後には、自分自身を、どこまで追い詰めてしまったのだろう。
その答えを知る人は、もういなかった。
麗奈が最後に何を思ったのか。
なぜ、そこまで自分の顔を傷つけることになったのか。
その理由を、残された人たちが知ることはなかった。
ただ、彼女が生涯をかけて手に入れようとした美しさが、最期には深い悲しみの中にあった。
その事実だけが、静かに残された。
◇
七 二枚の紙
「……ここは?」
麗奈が目を開けると、どこまでも白い空間が広がっていた。
「死にました」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
「……誰?」
「42紙です」
麗奈は男を見つめた。
「……死神?」
「はい」
麗奈は、自分が死んだという言葉を理解できず、しばらく黙っていた。
「……私、死んだの?」
「はい」
42紙は静かに麗奈を見つめた。
やがて、二枚の紙を差し出した。
麗奈は、差し出された紙を見た。
どちらも真っ白だった。
「……何なの、これ?」
「選んでください」
42紙は、静かに答えた。
「一枚は4。もう一枚は2です」
「……4と、2?」
「4は幸福な死。2は不幸な死です」
麗奈は、二枚の紙を交互に見た。
「……どっちが4なの?」
「分かりません」
42紙は淡々と答えた。
「俺にも、分かりません」
麗奈は、しばらく紙を見つめていた。
どちらを選べばいいのか。
何を基準に選べばいいのか。
考えても、答えは出なかった。
やがて麗奈は、一枚の紙に手を伸ばした。
そして――。
紙を開いた。
そこに記されていた数字は、2だった。
「……2」
麗奈は、小さく呟いた。
42紙は、彼女の手元にある紙を見つめた。
「2ですね」
「……2って、どういう意味なの?」
42紙は静かに答えた。
「不幸な死です」
麗奈は、顔を上げた。
「……不幸な死?」
「はい」
「それって……死んだあとも、不幸だってこと?」
「分かりません」
42紙は、淡々と続けた。
「俺が説明できるのは、そこまでです」
麗奈は、2と書かれた紙を見つめた。
「……じゃあ、4を選んでいたら?」
「幸福な死です」
「何が違うの?」
42紙は、少しの間、黙っていた。
「死ぬ瞬間の経験が違います」
麗奈は、すぐには言葉を返さなかった。
「……死ぬ瞬間?」
「はい」
「4なら、幸せな気持ちで死ねるの?」
「そうです」
「じゃあ、2なら……?」
「不幸な気持ちで死ぬことになります」
麗奈は、手の中の紙を握りしめた。
「……どうして、こんなものがあるの?」
「分かりません」
42紙の答えは変わらなかった。
「俺にも、分からないことはあります」
麗奈は、しばらく黙っていた。
やがて、42紙に視線を向けた。
「……私が、悪い人間だったから?」
42紙は、すぐには答えなかった。
「だから、2なの?」
その声には、怒りも、責めるような響きもなかった。
ただ、確かめたかったのだ。
自分がしてきたこと。
誰かを傷つけたこと。
自分の過去から逃げるように、他人に冷たい言葉を投げつけたこと。
それらのせいで、不幸な死を選ばされたのだろうか。
42紙は静かに答えた。
「そういうわけではありません」
「……どういうこと?」
「紙は、あなたの善悪を決めるものではありません」
麗奈は、2と書かれた紙を見つめた。
「……じゃあ、どうして私は2なの?」
「分かりません」
42紙は、いつものように淡々と答えた。
「俺にも、分からないことはあります」
麗奈は何も言わなかった。
しばらくして、唇を動かした。
「……私、本当は……」
そこまで言って、言葉が止まった。
42紙は、続きを尋ねなかった。
彼女が何を言おうとしていたのか。
本当は何を望んでいたのか。
最後に、どんな気持ちで鏡を見ていたのか。
42紙には分からなかった。
麗奈は、2と書かれた紙を握りしめた。
その表情から、何かを読み取ることはできなかった。
やがて、白い空間が静かに消えていった。
◇
八 見えなかった美しさ
神谷透は、ニュースの画面を見つめていた。
白石麗奈。
美容の世界で知られ、多くの人に憧れられていた女性。
画面には、彼女の笑顔が映っていた。
整った顔立ち。
柔らかな笑み。
誰が見ても、綺麗だと思うのかもしれない。
透は、その写真から目を離せなかった。
「……亡くなったのか」
小さく呟いた。
彼女が、どんな人生を送ってきたのか。
どんな思いを抱えていたのか。
ニュースで伝えられることには限りがある。
画面に映る笑顔だけでは、何も分からなかった。
透は、しばらく考えていた。
美しくなりたい。
そう願うことは、いけないことなのだろうか。
自分の顔を好きになりたい。
人から綺麗だと言われたい。
誰かに認めてもらいたい。
そう願うことは、間違いなのだろうか。
「……違うよな」
透は呟いた。
美しくなりたいと願うことは、悪いことではない。
自分が望む姿に近づくために努力することも、美容整形を選ぶことも、その人自身の大切な選択だ。
麗奈にとって、美しくなれたことは本当に嬉しかったのだろう。
それは、誰にも否定できない。
けれど。
美しさを手に入れたことと、心の中に残った痛みが消えることは、同じではなかったのかもしれない。
昔、彼女を傷つけた言葉。
彼女が、自分自身に向け続けてきた否定の言葉。
そして、彼女が他人に向けてしまった言葉。
それらが、透の頭の中で重なった。
「……難しいな」
綺麗になりたいと思ったことは、間違いではない。
苦しんできたことも、なかったことにはできない。
けれど、自分が傷ついたからといって、誰かを傷つけていいわけではない。
麗奈は、傷つけられた人だった。
そして、誰かを傷つけた人でもあった。
どちらか一方だけを見て、彼女の人生を語ることはできない。
透は、画面の中の彼女を見つめた。
もし、あのとき。
麗奈が、あの若い女性に違う言葉をかけていたら。
もし、笑われた女性の隣に立ち、そんなことを言う必要はないと伝えていたら。
何かが変わったのだろうか。
麗奈自身の苦しみが消えたわけではないかもしれない。
彼女が自分の顔を好きになれるようになったわけでもないかもしれない。
それでも、少なくとも、その女性を一人で傷ついたままにすることはなかった。
「……俺なら、何て言えたんだろう」
透は、自分に問いかけた。
答えは、すぐには出なかった。
人の痛みを完全に理解することは難しい。
誰かを傷つけないように生きることも、簡単ではない。
自分が正しいと思って口にした言葉が、相手を傷つけることだってある。
それでも。
相手が傷ついているとき、笑わないこと。
自分が言われたくなかった言葉を、誰かに簡単に投げつけないこと。
相手にも、自分には見えない事情や痛みがあるのかもしれないと考えること。
そんな小さなことなら、できるのかもしれない。
もちろん、それだけで誰も傷つかなくなるわけではない。
優しい心を持っていれば、必ず幸せになれるわけでもない。
見た目が美しい人も、そうでない人も。
優しい人も、不器用な人も。
それぞれに違う人生があり、違う苦しみがある。
外見だけで、その人の価値を決めることはできない。
心の美しさだけで、人の人生を簡単に説明することもできない。
透は、ゆっくりと息を吐いた。
「……美しさって、何なんだろうな」
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、自分の中に残った問いだった。
◇
九 止まらない時計
部屋の壁には、いつもの時計が掛かっていた。
時刻は、2時22分。
秒針が動いている。
一秒。
また一秒。
時計は、何もなかったかのように時を刻んでいた。
透は、その針を見つめた。
麗奈のことを考えても、答えは出なかった。
美しくなりたいと願うこと。
自分を好きになりたいと願うこと。
人に認められたいと願うこと。
どれも、人として不思議なことではない。
けれど、その願いが強くなるほど、自分を追い詰めてしまうこともあるのだろうか。
それとも、彼女を追い詰めていたものは、もっと別のところにあったのだろうか。
透には分からなかった。
麗奈が最後に何を思っていたのか。
どんな言葉を、本当は誰かに伝えたかったのか。
その答えを知ることはできない。
ただ、彼女が美しくなりたかったことも。
美しくなれたことを喜んでいたことも。
それでも、苦しみを抱えていたことも。
そして、自分と同じように傷ついている人を、傷つけてしまったことも。
そのすべてが、彼女の人生だった。
透は時計から目を離した。
「……人は、どうしたら自分を好きになれるんだろうな」
隣にいた42紙は、すぐには答えなかった。
「さあ」
短い返事だった。
「俺にも分かりません」
透は、少しだけ笑った。
「……そうか」
答えが出ないことには、もう慣れていた。
けれど、分からないからといって、考えるのをやめていいわけではない。
誰かが自分の顔を嫌いだと言ったとき。
誰かが人に笑われて傷ついているとき。
誰かが自分の価値を見失いそうになっているとき。
その人に、どんな言葉をかけられるだろう。
何をすれば、少しでもその人の痛みを増やさずにいられるだろう。
透は、まだ答えを持っていなかった。
2時22分。
その時刻は、変わらない。
秒針だけが、静かに動いていた。
透は、もう一度、麗奈の笑顔を思い浮かべた。
綺麗になりたかった少女。
自分の望む姿を手に入れ、喜んだ女性。
そして、最後まで何かを抱えたまま、亡くなった人。
彼女が本当に欲しかったものは、何だったのだろう。
美しさだったのか。
誰かに認められることだったのか。
それとも、自分自身を否定せずに生きられることだったのか。
その答えは、もう聞くことができない。
透は、静かに目を伏せた。
人は、誰かの痛みを完全に知ることはできない。
それでも、自分が受けた痛みを、次の誰かに渡さずに済むことはあるのかもしれない。
そのために、何ができるのか。
考え続けることに、意味はあるのだろうか。
秒針が、また一つ進んだ。
時計は、何も答えなかった。
美しさとは、何なのだろう。
―第十五話・完―




