第14話「嘘の真実」
第14話「嘘の真実」
人は嘘をつく。
正直者と呼ばれる人間も、一生、一度も嘘をつかずに生きることは難しい。
相手を傷つけないための嘘。
自分を守るための嘘。
嫌われたくなくてつく嘘。
そして、相手を騙すために、最初から用意された嘘。
しかし、理由があることと、許されることは同じではない。
誰かを守るためについた嘘が、別の誰かを深く傷つけることもある。
そして、何度も嘘を重ねた人間は、いつしか自分でも、どこまでが本当だったのか分からなくなる。
では、最後に残った真実を知れば、人は救われるのだろうか。
*
中古レコード店「レコード堂」。
店主の真壁亮は、閉店時間を過ぎた店内で、壁際の高い棚を見上げていた。
五十二歳。
古いレコードを仕入れ、磨き、値札をつけ、客に渡す。
そんな毎日を何十年も続けてきた。
棚の上には、長い間売れずに残っているレコードが並んでいた。中には、売り物にするつもりのないものもある。
亮は、奥にしまい込まれた一枚を見つけた。
「ああ、まだあったのか」
ジャケットの表面を指でなぞる。
懐かしいものを見るような目だった。
そのレコードを棚から取り出そうとしたが、手が届かない。
亮は店の隅から古い椅子を持ってきた。
椅子を棚の前に置き、慎重に上がる。
もう少し。
あと少しで届く。
そのときだった。
ミシッ。
椅子の脚から、嫌な音がした。
「……おいおい」
体重を移す間もなかった。
椅子が崩れ、亮の体が傾いた。
とっさに棚へ手を伸ばしたが、指先は何もつかめなかった。
鈍い音が、店内に響いた。
床に散らばるレコード。
横倒しになった椅子。
そして、動かなくなった亮。
プレーヤーには、まだレコードが載っていた。
針が盤面を回り、かすかなノイズを刻んでいる。
店の外を通り過ぎる人々は、何も知らない。
亮がどんな人間だったのか。
誰を愛していたのか。
何を隠していたのか。
そして、最後まで誰にも話せなかったことが何だったのか。
誰も知らなかった。
机の上には、途中まで記入された帳簿が残っていた。
その隣には、娘の千尋が書いたメモがあった。
『今度、一緒にご飯食べようね』
亮は、その約束を忘れていたわけではない。
ただ、まだ時間があると思っていた。
人間は、明日が来ることを当たり前のように考える。
だからこそ、言えないことを後回しにする。
謝ることも。
本当のことを話すことも。
大切な人に、ありがとうと伝えることも。
亮もまた、その一人だった。
*
千尋は、父親と二人で暮らしていた。
二十歳になった今も、実家を出るつもりはなかった。
父親の仕事場であるレコード堂は、千尋にとっても馴染み深い場所だった。
幼い頃から、レコードの音が聞こえる家で育った。
父親が針を落とすと、知らない歌が流れ始める。
歌詞の意味が分からなくても、千尋は音楽に合わせて体を揺らしていた。
亮は、そんな娘を見てよく笑っていた。
「その曲、好きなのか?」
「うん!」
「まだ何も分からないだろ」
「好きなのに、分かるとか関係あるの?」
亮は、そのたびに負けたような顔をした。
千尋は、そんな父親が好きだった。
けれど、最近の亮は変わっていた。
夕食の時間になっても、帳簿を広げたまま動かない。
電話が鳴れば、食事を中断して仕事の話をする。
夜中まで店に残る日も増えた。
ある晩、千尋はテーブルに料理を並べながら声をかけた。
「お父さん、ご飯できたよ」
「ああ、先に食べててくれ」
「また?」
「もう少しで終わるから」
千尋は、父親の手元を見た。
帳簿の横には、支払いの督促状が置かれていた。
「……お店、大丈夫なの?」
亮の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、千尋は見逃さなかった。
「大丈夫だよ」
亮は帳簿を閉じ、笑顔を見せた。
「ちょっと整理してるだけだ」
「本当に?」
「本当だよ。心配するな」
千尋は、うなずいた。
それ以上は聞かなかった。
本当は、もっと聞きたかった。
店のことだけではない。
父親が、何かを隠しているような気がしていた。
ときどき母親の話題になると、亮は不自然に会話を終わらせる。
昔の写真を見つけても、すぐに片づけてしまう。
千尋が離婚の理由を尋ねると、決まって同じ答えが返ってきた。
「大人同士の問題だよ」
千尋は、子どもではない。
もう二十歳だ。
それでも父親は、何も話してくれなかった。
「お父さんってさ、私に隠してることある?」
ある日、千尋は冗談めかして尋ねた。
亮は、レコードのジャケットを拭いていた手を止めた。
「何だ、急に」
「いや、何となく」
「ないよ」
返事は早かった。
早すぎるくらいだった。
「そう?」
「親が子どもに、何でも話す必要はないだろ」
亮は笑った。
「知らないほうが幸せなこともあるんだよ」
千尋も笑った。
しかし、その言葉は、いつまでも心に引っかかっていた。
知らないほうが幸せなこと。
父親は、いったい何を知っているのだろう。
そして、自分は何を知らされていないのだろう。
*
千尋には、母親がいた。
両親は離婚していたが、母親とは今も連絡を取っている。
母親は別の場所で暮らしていた。
会うこともあれば、電話で話すこともあった。
ある日、千尋は母親に尋ねた。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「私が小さい頃、お父さんと何があったの?」
電話の向こうが静かになった。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「前から気になってたから」
「……夫婦には、いろいろあるのよ」
「それは分かるよ。でも、どうして離婚したのか、ちゃんと聞いたことがない」
母親は、しばらく黙っていた。
「お互いに、うまくやっていけなくなったの」
「お父さんが悪かったの?」
「そういうことじゃないわ」
「じゃあ、お母さん?」
「千尋」
母親の声が、少しだけ強くなった。
「誰か一人が悪かった、という話ではないの」
千尋は、それ以上聞かなかった。
母親を困らせたくなかったからだ。
けれど、電話を切ったあとも疑問は消えなかった。
両親は、なぜ離婚したのか。
なぜ母親は、自分を連れて行かなかったのか。
そして、なぜ自分は父親と暮らすことになったのか。
それについて、亮は一度も詳しく話したことがなかった。
千尋の記憶にある母親は、優しい人だった。
自分を嫌っていたようには思えない。
それなのに、どうして。
千尋は、考えるたびに分からなくなった。
*
亮と妻が離婚した理由は、単純なものではなかった。
レコード堂の経営は、何年も前から傾き始めていた。
売上が落ちても、亮は店を手放そうとしなかった。
店には、妻の父親から譲り受けたレコードがあった。
妻にとって、それは亡き父親の思い出だった。
亮も、その価値を知っていた。
それでも、店の借金を返すために、その一部を妻に黙って売った。
娘の学費を確保したいという思いもあった。
店を守りたいという気持ちもあった。
だが、妻がそれを知ったとき、二人の関係は大きく変わった。
「どうして相談してくれなかったの?」
妻は尋ねた。
亮は答えた。
「家族を守りたかったんだ」
「私も家族でしょう?」
その言葉に、亮は何も返せなかった。
妻が怒っていたのは、レコードを売られたことだけではなかった。
夫が一人で決断し、自分には何も知らせなかったこと。
自分を信頼してくれなかったこと。
そして、その後も亮が本当の事情をすべて話さなかったことだった。
妻は、何度も話し合おうとした。
亮も、やり直したいと思っていた。
しかし、亮は自分の弱さを認められなかった。
店を守れなかった自分。
妻を悲しませた自分。
家族を幸せにできなかった自分。
それらを認めることが、どうしてもできなかった。
そして、二人は離婚した。
ただし、千尋が知らないことが、もう一つあった。
離婚のとき、妻は千尋を連れて行くつもりだった。
娘と離れることなど、望んでいなかった。
生活が変わっても、二人で暮らす道を考えていた。
そのことを、亮は知っていた。
そして、恐れていた。
千尋が母親を選ぶことを。
娘が自分のもとを去ることを。
自分が一人になることを。
亮は妻に言った。
「千尋は、俺と暮らしたいと言っている」
それは、嘘だった。
千尋は、そんなことを言っていなかった。
まだ何も知らされていなかった。
亮は、娘の気持ちを勝手に決めつけた。
いや、正確には、娘の気持ちを自分に都合よく作り替えた。
妻は、その言葉を信じた。
夫がそこまで言うのなら、娘は父親のそばにいたいのだろう。
そう思おうとした。
けれど、妻には迷いがあった。
亮は店の経営で追い詰められていた。
娘まで失えば、彼は本当に一人になってしまうかもしれない。
妻は、娘を愛していた。
亮のことも、完全に嫌いになったわけではなかった。
だから、最後には身を引いた。
千尋には、何も話さなかった。
一方、亮は娘に別の嘘をついた。
「お母さんは、自分の人生をやり直したいんだ」
千尋が尋ねたとき、亮はそう答えた。
「私と一緒にいたくなかったの?」
「そんなことはないよ。ただ、大人にはいろいろあるんだ」
千尋は、母親が自分を選ばなかったのだと思った。
母親には、母親の人生がある。
自分が邪魔だったのかもしれない。
そう考えるようになった。
亮は、娘がそう思っていることに気づいていた。
それでも、真実を話せなかった。
一度ついた嘘を認めれば、娘に嫌われるかもしれない。
妻を傷つけたことも、自分が娘の気持ちを勝手に決めたことも、すべて知られてしまう。
亮は、恐れた。
そして、沈黙を選んだ。
その沈黙は、二十年近く続いた。
*
千尋は、父親が亡くなった日のことを、何度も思い返した。
あの日、亮はいつもと同じように店に出かけた。
「夕飯、何がいい?」
千尋が尋ねると、亮は玄関で靴を履きながら答えた。
「何でもいいよ」
「それ、いちばん困るやつ」
「じゃあ、任せる」
「あとで文句言わないでよ」
「言わない、言わない」
いつもの会話だった。
特別な言葉はなかった。
何かを予感させる様子もなかった。
亮は、笑って出かけた。
それが、最後だった。
翌日、店の中で倒れている父親を見つけたとき、千尋は現実を理解できなかった。
散らばったレコード。
倒れた椅子。
床に横たわる父親。
何度呼んでも、返事はなかった。
「お父さん……?」
手を握った。
冷たかった。
「ねえ、起きてよ」
声が震えた。
「まだ、話してないことがあるじゃん……」
千尋は、父親の手を握ったまま泣いた。
本当は、聞きたいことがたくさんあった。
母親とのこと。
店のこと。
自分の知らない昔のこと。
けれど、もう聞けない。
亮は、何も答えてくれない。
どんなに問いかけても、返事はなかった。
*
葬儀を終えたあと、千尋はレコード堂の整理を始めた。
店をどうするかは、まだ決められなかった。
父親の残した帳簿を調べ、支払いの状況を確認しなければならない。
そう思って机の引き出しを開けたとき、古い封筒が出てきた。
表には、母親の名前が書かれていた。
千尋は、封筒を開いた。
中には、何枚かの書類と、手紙が入っていた。
日付は、両親が離婚した頃だった。
千尋は、書類に目を通した。
そこには、離婚後の生活についての話し合いが記録されていた。
そして、ある一文が目に留まった。
『千尋と暮らすことを希望する』
母親の署名があった。
千尋は、息を止めた。
母親は、自分と暮らしたいと思っていた。
自分を置いていったわけではなかった。
では、なぜ。
書類の隅には、亮の手書きのメモが残されていた。
『本人は父親と暮らすことを希望している』
千尋は、その文字を見つめた。
本人。
それは、自分のことだった。
しかし、千尋には、そんな希望を伝えた記憶がなかった。
そもそも、当時はまだ幼かった。
何が起きているのかも、よく分かっていなかった。
千尋は、書類を何度も読み返した。
父親は、母親に何を伝えたのだろう。
そして、母親は、何を信じていたのだろう。
千尋は、母親に電話をかけた。
「お母さん……聞きたいことがあるの」
母親は、娘の声を聞いて、すぐに何かを察したようだった。
「何があったの?」
「お父さんの店で、昔の書類を見つけた」
千尋は、書類の内容を伝えた。
電話の向こうが静かになった。
「……そう」
母親は、長い沈黙のあとに言った。
「見つけてしまったのね」
「お母さんは、私と暮らしたかったの?」
「そうよ」
「じゃあ、どうして……」
千尋の声が震えた。
「どうして、私を連れて行かなかったの?」
母親は、すぐには答えなかった。
「お父さんから、あなたは自分と暮らしたいと言っている、と聞かされたの」
「私、そんなこと言ってない」
「ええ。今なら分かるわ」
「今ならって……」
千尋は、言葉を失った。
母親は、静かに話し始めた。
「最初は信じていたの。あなたがお父さんのそばにいたいのなら、それが一番いいのだと思った。でも、後になって、あなたが本当にそう言ったのか、分からなくなった」
「それなのに、何も聞かなかったの?」
「聞くべきだったわ」
母親の声がかすれた。
「でも、あの頃のお父さんは、店のことで追い詰められていた。私も、あなたを巻き込んで、これ以上争うことが怖かった」
「……それで、黙ってたの?」
「そうよ」
母親は、否定しなかった。
「あなたを守っているつもりだった。でも、本当は私も、これ以上傷つきたくなかったのかもしれない」
千尋は、何も言えなかった。
父親が嘘をついた。
母親は、その嘘を確かめなかった。
そして、自分は何も知らないまま、母親が自分を選ばなかったのだと信じてきた。
二十年近く。
その年月は、もう戻らない。
「お母さん……私、お母さんに嫌われてたんだと思ってた」
母親は、泣き出しそうな声で答えた。
「ごめんなさい」
「ずっと、そう思ってたんだよ」
「ごめんなさい……」
母親は、それ以上言えなかった。
千尋も、すぐには許せなかった。
母親が娘を愛していたことは分かった。
しかし、愛していたのなら、なぜ真実を伝えなかったのか。
なぜ、自分に選ぶ機会を与えてくれなかったのか。
守るという言葉は、ときに相手から選択する権利を奪ってしまう。
千尋は、そのことを初めて知った。
*
電話を切ったあと、千尋は再び封筒の中身を調べた。
書類の下に、古い手紙があった。
それは、亮が妻に宛てて書いたものだった。
『千尋には、まだ話せない』
その一文から始まっていた。
『あの子が大きくなったら、いつか話そうと思っている。でも、今は話せない。私がしたことを知れば、あの子は私を許さないかもしれない』
千尋は、手紙を握りしめた。
父親は、自分が何をしたのかを分かっていた。
自分の嘘が、娘にどんな思いをさせるのかも、分かっていたのだ。
それでも、話さなかった。
手紙には、さらに続きがあった。
『お前が大切にしていたレコードを売ったことは、今でも後悔している。店を守りたかった。千尋の学費を残したかった。それは本当だ。でも、それだけじゃなかった。店を失った自分を、お前に見られたくなかった。何もできない男だと思われたくなかった。私は家族を守りたかったと言いながら、自分の弱さを隠したかったんだと思う』
千尋は、読み進めた。
『千尋がお前と暮らしたいと言っている、と伝えたことも嘘だった。あの子は何も言っていなかった。私は、あの子を失うのが怖かった。お前に連れて行かれたら、二度と戻ってこないような気がした。だから、あの子の気持ちを勝手に決めた』
千尋の目から涙が落ちた。
父親は、分かっていたのだ。
自分が何をしたのか。
何を奪ったのか。
何を壊したのか。
『お前が悪いわけじゃない。千尋が悪いわけでもない。全部、私が決めたことだ。それでも私は、あの子に真実を話す勇気がない。いつか話せると思っている。けれど、いつかという言葉に逃げているだけなのかもしれない』
手紙は、そこで終わっていた。
千尋は、長い間、動けなかった。
父親は、娘を愛していた。
それは間違いない。
しかし、その愛情は、娘の気持ちを尊重することよりも、自分が娘を失わないことを優先してしまった。
父親は、家族を守るために嘘をついたと言っていた。
けれど、本当は、自分自身を守るためでもあった。
娘に嫌われたくない。
妻に見放されたくない。
自分が間違っていたと認めたくない。
それらすべてが混ざり合い、亮は一つの嘘をついた。
そして、その嘘を隠すために、別の嘘を重ねた。
千尋は、手紙を胸に抱いた。
「……どうして、言ってくれなかったの」
答える人は、もういなかった。
*
数日後、千尋は母親と会った。
二人は、静かな喫茶店の隅に座っていた。
テーブルの上には、冷めかけたコーヒーが二つ並んでいる。
千尋は、父親の手紙を母親に見せた。
母親は、読み終えると、目を伏せた。
「……そうだったのね」
「お母さんは、知ってたの?」
「あなたがお父さんと暮らしたいと言った、という話は聞いていた。でも、あなたが本当にそう言ったのか、確かめなかった」
「どうして?」
母親は、カップに視線を落とした。
「あなたを連れて行きたい気持ちはあった。でも、お父さんがあなたを手放したくないことも分かっていた。あの人は、店も家族も、全部失いそうになっていたから」
「だから、私を置いていったの?」
「……そうね」
母親は、目を閉じた。
「私は、あなたのためだと思った。でも、あなたの気持ちを直接聞こうとはしなかった。あの人の言葉を信じることで、自分が決断しなくて済むと思っていたのかもしれない」
千尋は、母親を見つめた。
「お母さんも、嘘をついてたんだね」
「ええ」
母親は、静かに答えた。
「お父さんだけじゃない。私も嘘をついた。あなたを守りたいと思っていたのは本当。でも、あなたに本当のことを話して、嫌われるのが怖かった。あなたに、私たち夫婦の失敗を背負わせたくなかった。でも、それは私の都合でもあったのよ」
千尋は、すぐには返事をしなかった。
父親だけが悪いのだと思えば、少しは楽だったのかもしれない。
母親だけが悪いのだと思えば、答えを出せたのかもしれない。
しかし、真実は、そんなに簡単ではなかった。
父親は嘘をついた。
母親は、その嘘を確かめずに受け入れた。
そして、母親も父親も、娘のためだと言いながら、自分たちの弱さを隠していた。
「……私、何を信じればよかったんだろう」
千尋がつぶやいた。
母親は、答えられなかった。
「ずっと、お父さんと暮らしてきた。お父さんは優しかった。私を大切にしてくれた。でも、その一方で、私が知らないところで、私の人生を決めてたんだね」
「……そうね」
「お母さんも、本当は一緒に暮らしたかったのに、何も言わなかった」
「そうね」
千尋は、うつむいた。
「二人とも、私のことを大切にしてくれてたんだよね?」
母親は、涙をこらえながら答えた。
「大切だった。本当に、大切だったの」
「でも、どうして……」
千尋は、言葉を続けられなかった。
大切に思うことと、正しいことをすることは、同じではない。
誰かを愛していても、傷つけてしまうことがある。
守ろうとして、相手の人生を勝手に決めてしまうことがある。
そして、間違いを認めることが怖くて、嘘を重ねてしまうこともある。
千尋は、ようやくそのことを理解し始めていた。
理解したからといって、すぐに許せるわけではなかった。
父親がいなくなった寂しさも、母親との間に残った距離も、簡単には消えない。
それでも、千尋は母親に言った。
「……もう、隠さないでほしい」
母親は、ゆっくりとうなずいた。
「分かったわ」
「私も、ちゃんと聞くから」
その約束は、すべてを元に戻すものではなかった。
けれど、二人がこれから築いていく関係の、最初の一歩だった。
*
白い空間。
亮は、二枚の紙の前に立っていた。
周囲には何もない。
天国もない。
地獄もない。
死んだ人間が行く場所について、亮には何も分からなかった。
ただ、目の前に二枚の紙があった。
「……これを選ぶんですか」
亮が尋ねた。
「そうです」
コンビニ袋を提げた男が答えた。
「どーも。42紙です。えぇ、死神です」
亮は、42紙の顔を見た。
「あなたは、死んだ人間がそのあとどうなるのか、知っているんですか?」
「知りません」
42紙は、あっさり答えた。
「神様は?」
「いません」
「天国も、地獄も?」
「ありません」
「生まれ変わりも?」
「ありません」
亮は、しばらく黙っていた。
「……それじゃあ、死んだら、何が残るんでしょうね」
42紙は、すぐには答えなかった。
「残るものもあれば、残らないものもあるんじゃないですかね」
「曖昧ですね」
「私も、何でも知ってるわけじゃないので」
亮は、二枚の紙を見た。
「この紙は、何を決めるんです?」
「4と2です。4は幸福な死、2は不幸な死。選んだ紙によって、最後の瞬間の経験が決まります」
「選ぶ前に、どちらが4か分かるんですか?」
「分かりません」
「あなたにも?」
「私にも」
亮は、小さく息を吐いた。
「……そうですか」
しばらく考えたあと、亮は尋ねた。
「嘘をついた人間は、どうなるんです?」
42紙は、亮を見た。
「どうなる、とは?」
「人を傷つけた人間です。家族を守るためだと言いながら、嘘をついた。相手の人生まで、自分の都合で決めてしまった。そういう人間は、どうなるんですか」
42紙は、少しだけ首を傾けた。
「それは、私が決めることではありません」
「……そうですよね」
亮は、うつむいた。
「私は、あの子を守りたかったんです」
「そうですか」
「でも、本当は、自分が捨てられるのが怖かった。娘に嫌われるのも怖かった。自分が間違っていたと認めるのも怖かった」
亮は、初めて、自分の言葉でそれを認めた。
「家族のためだと言えば、何でも許されるような気がしていたんです」
42紙は、何も言わなかった。
亮は、二枚の紙を見つめた。
「……あの子に、謝りたかったな」
その声は、小さかった。
「本当のことを話して、謝って、それから、あの子がどうしたいのか聞きたかった」
亮は、目を閉じた。
「でも、もう遅いんですね」
「えぇ」
42紙は、静かに答えた。
「もう、直接伝えることはできません」
亮は、うなずいた。
そこには、やり直す機会も、人生をもう一度与えてくれる存在もなかった。
神が現れて、罪を許してくれることもない。
死んだあとに、すべてが帳消しになる世界もない。
亮は、自分の人生を終えた。
そして、残された人間は、残された人生を生きていく。
亮は、二枚の紙のうち、一枚を選んだ。
それが4なのか、2なのか。
選ぶ瞬間まで、亮には分からなかった。
彼が選んだのは、4だった。
そのとき、亮の最後の瞬間に、千尋との思い出がよみがえった。
幼い千尋が、レコードに合わせて踊っていた姿。
夕食の席で、くだらない話をして笑った夜。
「今度、一緒にご飯食べようね」と書かれたメモ。
娘が笑う顔。
娘の声。
一緒に過ごした、何でもない日々。
それらが、亮の最後の経験を満たしていった。
そこに、天国はなかった。
亡くなった家族と再会する世界もなかった。
ただ、亮が生きていた間に経験した幸福が、最後の瞬間に鮮やかによみがえった。
それは、嘘を許すためのものではなかった。
妻を傷つけた事実が消えたわけでもない。
娘の人生を勝手に決めたことが、正しい行いに変わったわけでもない。
亮の最後の経験が幸福だったことと、彼が人を傷つけたことは、同時に存在していた。
亮は、そのことを知ることも、もう誰かに説明することもできなかった。
ただ、最後の瞬間に、娘と過ごした時間を思い出していた。
そして、その時間を幸福だと感じていた。
*
レコード堂のシャッターは、しばらく閉じたままだった。
千尋は、店をどうするか決められずにいた。
父親が残した帳簿には、厳しい数字が並んでいる。
店を続けるのは簡単ではない。
それでも、すぐに閉めることもできなかった。
千尋は、棚に残されたレコードを一枚ずつ整理した。
売るもの。
残すもの。
誰かに譲るもの。
父親が大切にしていたものを見つめながら、少しずつ考えていった。
ある日、棚の奥から古いレコードが出てきた。
父親が、最後の日に取ろうとしていた一枚だった。
ジャケットには、長い年月の跡が残っている。
千尋は、レコードをプレーヤーに載せた。
針を落とす。
小さなノイズのあと、音楽が流れ始めた。
幼い頃、父親と一緒に聴いた曲だった。
千尋は、目を閉じた。
父親は嘘をついた。
自分を守るために。
娘を失いたくなかったから。
家族を守りたいと思っていたから。
そのどれもが、きっと本当だった。
けれど、父親は娘の気持ちを聞かなかった。
母親が何を望んでいるのかも、最後まで正面から受け止められなかった。
自分の恐れを、家族への愛情という言葉で覆い隠した。
千尋は、父親をすべて許せたわけではない。
今でも、もっと早く話してほしかったと思う。
もっと自分を信じてほしかったと思う。
母親と暮らすか、父親と暮らすか。
本当は、自分にも考える権利があったはずだ。
その機会を奪われたことは、なかったことにはできない。
それでも、父親が自分を愛していなかったとは思えなかった。
父親が笑っていた時間も。
一緒に食事をした時間も。
レコードの音に合わせて踊った時間も。
すべてが嘘だったわけではない。
嘘をついた人間の中にも、本当の気持ちは存在する。
そして、本当の気持ちがあったからといって、嘘による傷がなくなるわけでもない。
千尋は、音楽を聴きながら涙を流した。
「……お父さん」
返事はなかった。
「私、どうしたらいいのか、まだ分からないよ」
レコードは回り続けていた。
「でも、もう、勝手に決めないでほしかった」
その言葉は、届かなかった。
それでも千尋は、最後まで口にした。
父親がいなくなったあとも、言えなかったことを言葉にすることはできる。
それが、過去を変えるわけではない。
亡くなった人間が戻ってくるわけでもない。
ただ、残された人間は、自分の人生を生きていく。
何を信じるか。
誰と向き合うか。
何を許し、何を許さないのか。
それを決めるのは、千尋自身だった。
*
「……嘘って、厄介ですね」
42紙は、コンビニ袋を提げて歩いていた。
袋の中には、サンドイッチとカフェオレが入っている。
「優しさからついた嘘でも、相手を傷つけることがある。自分を守るためについた嘘が、結果的に誰かを苦しめることもある」
42紙は、少し考えてから続けた。
「理由が分かったからって、傷が消えるわけじゃないですしね」
そこに、透がいた。
透は、42紙の話を黙って聞いていた。
「……じゃあ、嘘をついた人間は、どうすればいいんだろうな」
42紙は、透を見た。
「本当のことを話すしかないんじゃないですかね」
「話せば、許してもらえるのか?」
「それは、分かりません」
42紙は、あっさり答えた。
「許すかどうかは、相手が決めることですから」
透は、うつむいた。
「……正直に話しても、取り返しがつかないこともある」
「ありますね」
「謝っても、戻らないものもある」
「えぇ」
42紙は、コンビニ袋を持ち直した。
「だから、嘘をつく前に考えたほうがいいんでしょうね。自分が何を守ろうとしているのか。それと引き換えに、何を奪ってしまうのか」
透は、窓の外を見た。
人々が歩いている。
誰かが電話で笑い、誰かが急ぎ足で通り過ぎていく。
その中に、どんな嘘があるのかは分からない。
誰が本当のことを話し、誰が何かを隠しているのか。
他人の心を、すべて知ることはできない。
「神様がいたら、正しい答えを教えてくれるのかな」
透がつぶやいた。
42紙は、首を横に振った。
「神様はいませんよ」
「……そうだったな」
「天国も地獄も、生まれ変わりもありません。死んだあとに、誰かが全部を判定してくれるわけでもない」
42紙は、淡々と言った。
「だからって、何も考えなくていいという話にはならないでしょう」
透は、42紙を見た。
「人間は、自分で考えるしかないってことか」
「そういうことです」
42紙は、少しだけ笑った。
「大変ですけどね」
透も、かすかに笑った。
そのとき、壁の時計に目が留まった。
針は、2時22分を指していた。
まるで、心を動かすようにゆっくりと。
また、何かを時動かすようにゆっくりと。
―第十四話・完―




