誰がために風は吹く⑥
数か月後。
幾度の打ち合わせを経て、大会前日を迎えた。
選手の様子を取材するため、畠山をはじめとする『モーニング・ブリーズ』の取材班も現地入りした。
選手はスタート地点となる競技場で試走し、最終チェックに入る。桐谷も群れから外れ、片隅で黙々と走ったり、ストレッチをしたり軽めの調整をしていた。
選手一人一人に、心境を語ってもらう。
「やはり、国際大会になっただけあって、海外の選手も多数いますね。興奮します」
「明日の天気、いいようなので、頑張ります」
明るい表情で言う選手が多かった。
最後に、桐谷を訪ねた。
「どんな状況でも、自分の走りをして、勝つだけです」
桐谷は変わらず無表情だった。
「坂本さん、明日の天気は大丈夫ですよね?」
ホテルでスタッフの皆と夕食のバイキングを食べながら、畠山が志保に聞いた。
「降水確率は問題ありません。湿度もまずまずです。部分的に風があるかもしれませんが、開催には影響ないでしょう」
志保が淀みなく答えた。
「そうですか。楽しみですね」
ええ、とだけ答え、志保は外を見た。
黄昏の中、競技場が照明に照らされぼんやりと見える。
旗が時々、動いていた。
(あとで、また寄ってみようかな)
なぜか、ふとそんなことを思った。
中継の最終確認を行う撮影班と別れ、志保は一人競技場に向かった。
外はもう暗く、星がいくつも出ていた。
街路灯に虫が集まっていた。風は殆どない。
競技場はまだ照明がついていた。
中に入ると、誰の姿も見えなかった。
(あれ……?)
なぜ照明がついているのだろう、と思った時だった。
出口付近に、桐谷を見つけた。
「桐谷さん」
志保の声に、桐谷が振り返った。少し固まった顔をしている。
「こんな時間まで、おひとりでトレーニングだったんですか?」
「いえ。気持ちを整えたくて……」
「そうでしたか」
桐谷は頷くと、そのまま去ろうとした。
その背中が、また遠く見えた。
たまらず、志保は声を掛けた。
「桐谷さん」
桐谷が止まった。振り返りはしない。
「……どうして、そこまで走るんですか?」
桐谷はしばらく止まったまま、何も話さなかった。
肩が少し震えていた。
やがて、絞り出すような声を出した。
「……止まると、思い出すんです」
「何をですか?」
「病室の音や、抗がん剤の匂いです」
志保は息を呑んだ。桐谷が骨肉腫で足を切断したのは知っていたが、それは過去のことで、それを乗り越えて走っていると勝手に思い込んでいた。
「検査のたびに思うんです。今度こそ終わりかもしれないって……」
桐谷は、そこでようやく振り返り、志保を見た。
「若い選手を見ると、怖くなるんです……また、動けなくなる気がするんです……」
志保はその目を逸らさず、じっと見つめた。
悲しみ、恐怖、焦り。
それだけでは言い表せない、命の叫びを見る気がした。
志保は生唾を飲み込むと、力を込めて言った。
「止まるのが、怖かったんですね」
桐谷の表情が崩れた。安堵とも違う、心の鎧が脱がされるような顔だった。
「風については、コースや時間帯など、できる限りの対応はしました。だから……」
志保は大きく頷いた。
「ちゃんと、走れるようにします」
桐谷は静かに俯いた。
「……はい」
桐谷は再び出口に向かい、車椅子をこいだ。
志保は、黙ったまま、その後ろ姿を見送った。
翌朝。
大会会場の競技場は、多くの観客でごった返していた。
競技場の外には出店が出て、キッチンカーや大会グッズ売り場には、多くの人だかりができていた。
「坂本さん、今日の天気は問題なさそうですか?」
大会本部のテントで、三宅が聞いてきた。
「はい」
志保は手元のノートパソコンで、最新の気象情報を確認した。
天気は快晴。湿度五十五パーセント。最低気温十度。予想最高気温二十一度。十一月中旬の気温としては、例年通りだった。
スタート地点の風速は、現在三メートル。
(ということは……)
五キロと三十五キロ地点、十五キロ地点の風は、予想通り避けられない。
「風だけですね」
「やはりそうですか」
「はい。でも、できる限りのことはしましたから」
例年なら午後二時にスタートするのだが、今回は午前十時スタートに切り替えた。風の向きを考慮してのことだった。
気になるポイントには、人も多く来てもらうようにした。五キロ地点と三十五キロ地点は、元々大通りで人も多いが、交差点にも横断幕や車を配置してもらった。気になる海岸線の二十五キロ地点は、シャトルバスで人を集め、やはりこちらが用意した横断幕や協賛企業のフラッグなどを風よけにする。企業には事情を説明すると、「当社の宣伝にもなりますね」と、協力を快諾してもらえ助かった。
「あとは、選手の頑張りに期待です」
志保が力強く言うと、三宅も大きく頷いた。
志保はいったん大会本部を離れ、日本エアウェーブの放送用車に向かった。
国際大会になって初の開催ということもあり、各局の取材班も多く来ていた。
その中に、日本エアウェーブ『モーニング・ブリーズ』の取材班もいた。
「いよいよですね。わくわくします」
車の中で、畠山がモニターを見ながら、にこにこと笑う。
「そうですね……」
志保は横で画面を見ながら、静かに答えた。
画面には外国人選手も含め、様々な選手が映っている。
その中に、桐谷の姿も見えた。ボトルで水分補給をしている。
(……止まると、思い出すんです)
(病室の音や、抗がん剤の匂いです)
(検査のたびに思うんです。今度こそ終わりかもしれないって……)(若い選手を見ると、怖くなるんです……また、動けなくなる気がするんです……)
昨日の桐谷の声が、耳の奥で蘇る。
しかし、桐谷だけではない。
笑顔の選手、緊張した面持ちの選手。
(みんな、色々なものを背負って走っているんだな……)
志保は、モニターから目を離し、畠山を見た。
「あの……畠山さん」
「はい?」
「前、撮影していただいたインタビューですけど……」
「はい」
「あとでもう一度、撮り直してもらっていいですか?」
「え?」
「どうしても言いたいことがあるんです。すみません、お願いします」
志保はぺこりと頭を下げた。
「ええ、構いませんけど」
きょとんとした表情のまま、畠山は答えた。
「ありがとうございます」
志保はもう一度、頭を下げた。
「じゃあ、私、大会本部に戻りますので、のちほど」
志保はバッグを抱えると、足早に立ち去った。




