誰がために風は吹く⑤
翌週。
『モーニング・ブリーズ』の取材という形で、再び志保は桐谷に会いに、取材班と一緒に体育館に向かった。
今度は室内ではなく、隣接している競技場で、実際に車椅子に乗って走る訓練だった。
競技場に入ると、既に桐谷はトラックで懸命に走っていた。鍛え抜かれた上腕二頭筋が汗で光って見えた。
「もっとここで加速して、そう!」
水島の力が入った声が競技場に響いた。
畠山がそっと水島に近づいた。
「お疲れ様です」
「ああ、畠山さん」
水島が笑顔で振り返った。
「すみません。トレーニング中に」
「いえ、お約束の時間ですから。こちらこそ、先にトレーニング初めてすみません」
「あの……カメラ回していいですか?」
「どうぞ。桐谷には、もう話していますし」
畠山もほっとした表情を浮かべ、ありがとうございます、と礼をした。
畠山がカメラ等機材の指示を手際よく出している間、志保は桐谷の走りを見ていた。
速い。
他に比較する選手がいない。それでも、その速さだけは本物だと分かった。
しかし。
(やはり、何か違う……)
理屈では説明できない。でも、タイム縮めるためというより、追っている何かから逃げ切ろう、としているように見えた。
やがて、ゴールしてゆっくりとスピードを落とし、停車した。
「よし。十秒短縮」
ストップウォッチを水島が見せるも、桐谷の表情は息を切らしたまま変化はない。黙って頷くのみだった。
「さあ、ラストワンセット。スタート!」
水島の声で、ラストランが始まった。
時々「くっ」という、歯を食いしばる桐谷の声が低く響く。
それは踏ん張るというより、志保には悲鳴に聞こえた。
「いやあ、いい映像が撮れました。ありがとうございます」
練習を終えた桐谷と水島に、畠山が笑顔で話し掛けた。
「よかったです。今日の桐谷、調子よかったですから」
水島が笑顔で桐谷を見た。桐谷は黙って、タオルで汗を拭いている。
「今日は、インタビューはないんですよね」
「はい。今日はこれで失礼します」
畠山が水島に頭を下げた時だった。
「あの、すみません。桐谷さん」
志保が後ろから手を挙げた。
桐谷がタオルを首にかけ、志保を見た。
「ああ、坂本さん」
「あの、私、先週現地に行ってきました。この前のマップの印、役立ちました。ありがとうございます」
「それはどうも」
「それで、今、コースを検討中なんです」
志保はマップを取り出し、屈んで桐谷の前に広げた。
「この、五キロ地点と三十五キロ地点は、ビルの谷間からの風で、率直に言ってコース変更は難しいと思います。しかし、二十五キロ地点は地形からいっても風が通りやすく、できれば避けたいんです」
指をさしながら志保は説明する。しかし、桐谷の表情には変化がない。
「……この、十五キロ地点は時間帯をずらせば、まだ持っていかれるほどの風は避けられそうなんです。でも、もしも変更した方がいいなら、その意見は委員会に上げます。桐谷さん、どう思われます?」
志保は桐谷の目をじっと見た。
しかし、桐谷は眉一つ動かさず、静かに答えた。
「……勝手にどうぞ」
「え?」
「我々は、与えられた条件で、自分の走りをするだけですから」
桐谷は興味なさそうに目を逸らすと、くるりと車椅子の向きを変えた。
「待ってください」
思わず、志保は呼び止めた。
しかし、桐谷は止まらない。
「桐谷さん。これはあなた一人の問題ではありません。他の選手にも話は聞きますが、あなたのようなトップ選手の意見は貴重なんです」
「そういうの、よくわかんないんで。お任せします」
「桐谷さん」
志保はいったん言葉を区切り、息を整えた。
「あなた、生きるため、って言いましたよね?」
桐谷が止まった。頭が少し下を向いている。
「生きるために、答えてください。どうなんですか?」
しばらく桐谷は黙り込んだ後、静かに言った。
「……お願いします」
絞り出すような声と共に、桐谷は再び車椅子をこぎ出した。
志保はその背中が、遠く見えた。
「あなた、相当踏み込んだわね」
アトモス気象研究所で報告を受けた玲奈は、驚きと呆れが混じったような、複雑な声で息を吐いた。
「ええ。つい……」
「でも、了承は得た、ということよね?」
「はい。それは問題ないと思います」
「だとしたら」
玲奈はファイルを机の引き出しに入れた。
「ほかの選手の声を聴くことね。今、何かしている?」
「はい。ただ、そちらはまだ……」
「あては?」
「大会本部に聞いてみる予定ですが、個人情報ですので、私個人では難しくて……」
志保の声が徐々に小さくなった。
玲奈が小さく笑った。
「Googleフォームは?」
「え?」
志保が顔を上げた。
「過去の大会に参加した人たちに、大会本部から他の項目も含めたアンケートを一斉メールで流してもらうといいわ。そうしたら、こちらから個人情報を侵害することなく、アンケート結果を収集して、今後に活かすことができるじゃない」
「そうですね!やってみます」
志保は元気に返事をすると、席に戻ろうとした。
「志保、他のアンケート項目も、大会本部の人たちとよく考えてね」
玲奈が後ろから声を掛けた。
「はい!」
再び大きな声を出すと、机に向かった。
二週間後。
アンケート結果が、大会本部から志保にメールで届いた。
「コースの中で、走りにくいと思った箇所はありますか?(坂がある、路面に抵抗がある、カーブしにくい、風が強いなど)」という項目が、必須項目でなくかつ自由記述ながら、ほぼすべての人が書き込んでくれていた。
「橋区間で風が強く、転倒の恐怖を感じた」
「急に体を持っていかれた」
「橋に入った瞬間、空気が変わる感じがした」
「あの路面の熱さと風、多分健常者には理解されにくい」
ほとんどが風に関する記述だった。
「坂本さん、あなたの言う通りでした」
電話口で黒崎が感嘆の声を出した。
「選手の皆さん、風に敏感なんですね。それにしても、ここまでとは……」
「私も驚きました」
志保がパソコンで項目を見ながら言う。
「それで、コース変更の件ですが……」
「はい」
志保の背筋が伸びた。
「この結果を受け、大会本部でも検討しました。その結果、橋を通るルートは回避し、街中のルートを増やすことにしました」
「そうですか」
志保の声が明るくなった。
「ただ、どうしても通行規制の関係上、十五キロ地点の海岸線はコースから外せませんでした。あと、若干ですが、距離の関係上、どうしても海岸線を走るルートも一部増やさざるを得ないんです」
「そうですか……」
やむを得ない、と思った。ただ、付近に高速道路がある関係上、この海岸線では高架下の風を受ける可能性もある。
しかし、この条件で、できる限りの策を考えるしかない。
「わかりました。改めて、コースの地図を送ってください。その上で、私の方でも対策を考えます」
「お願い致します」
黒崎の丁重な声に、思わず志保は電話口で頭を下げた。
「ゆーちゃん、どう思う?」
志保は隣の席の優花に聞いてみた。
「うーん……」
優花はしばらく腕を組み、天井を見た。
「他の大会では、どうされているんです?」
「広い幹線道路や、周囲に遮断物があって選手に直接風が当たらないようにしているみたい」
「じゃあ、コースとしては、問題個所には限界がありますね」
「そう」
志保は机に広げた地図の、十五キロ地点を指差した。
「この辺って、何もないんだよね」
「選手は、どういう工夫をされているんですか?」
「私がマラソンするときもだけど、結構ほかの選手を風よけにしているみたいね」
「風よけにされた選手が大変ですよね」
「そうだよね。私、よくされる」
志保が少し笑った。
その時。
「あっ」
志保の表情が変わった。
「どうしました?」
優花が志保の顔を覗き込んだ。
「……人を使おう」
「人?」
「沿道に人に立たせよう。応援の人に、風よけになってもらおう」
「それ、いいですね。シャトルバス出せば、結構人も配置しやすくなりそうですね」
「うん!」
志保は優花の手を取った。
「ゆーちゃん、ありがとう!」
「いえ、私は何も……」
「よし、アイディアが湧いてきた!」
志保は再び自分のパソコンに向かうと、一気に書類を作成しだした。
優花は呆然と、その姿を見ていた。




