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誰がために風は吹く④

翌朝、大会本部を訪ねた志保は、開口一番三宅に言った。

「競技用車椅子で現場に行かせてください」

 三宅は目を見開いた。

「坂本さん。そんなこと頼んできた人、あなたが初めてですよ」

「できますか?」

「ちょっとお待ちください」

 三宅は黒崎の方を見た。

「今、貸出しできるもの、あります?」

「一台体験用があります」

 黒崎は坂本を見た。

「ただし、いきなり現場で乗るのは危険です。まずは競技場で操作を体験し、それから現場で車の邪魔にならない範囲で試乗する。それでいいですか?」

「お願いします」

 志保は小さく一礼した。


 三十分後。

 ジャージ姿の志保は、陸上競技場のトラックで、競技用車椅子に乗り込んだ。

「ここに足を固定して……そうです」

 黒崎の案内で乗り込む。

 少し戸惑いながらも、なんとか体を入れた。事前に試乗してよかったな、と思った。

「結構前傾姿勢ですね」

 こんなに低いのか――あらかじめ写真や動画を見てはいたが、予想以上の視線の低さに、志保は改めて驚いた。

「では、一度こいでみましょうか」

「はい」

「こんな感じで、ここを持って、前にこいでみてください」

 黒崎の手ぶりの真似をして、ゆっくりと車椅子の手すりをこぎ出した。

 スタートするのに、力がいる。うっ、と声を出した。重かった。

だが、次の瞬間、車体が前に滑り出した。

 その後、すぐに加速した。思っていたよりもスピード感がある。

(速い……)

 思わず息を呑んだ。

 顔に風が強く当たった。ジャージの襟が揺れる。

 すると、車体が急に左に曲がった。

「わっ」

 思わず声を出し、慌てて手で手すりをつかんだ。

 手がこすれた。

「うっ」

後ろから黒崎が車体をつかみ停めた。

「ね、危ないでしょ」

「そうですね……」

 志保は掌を見つめながら、さっき受けた風の感触を思い出した。

 自転車をこぐときとは違う。細い筒の中を風が通り抜け、身体だけを押してくるような感覚だった。

 風の意味が、少しだけ見えてきた。

「黒崎さん」

 志保は振り返って黒崎を見た。

「昨日の橋、連れて行ってください」


 一時間後。

 志保は、黒崎と一緒に橋に向かった。

 海の見える国道を走る。波があるものの、海面は穏やかだった。

 何かの建物の旗も、静かにはためいている。

 橋の渡り切った路肩に停車した。

 志保はベーン式風速計を取り出し、計測する、風速三メートルから四メートル。決して弱くはない。だが、通常のマラソンなら決定的な影響を与える値ではない。

「流石に、ここをこぐのは危険です。私が押します」

「わかりました」

 さっきの体験から、自分には公道を走るのはまだ早いのは理解でき、黒崎の提案に従った。

 車椅子をワゴンの後部座席から降ろし、車の後ろに置く。

 幸い、他の車は殆どなかった。

 さっきよりは、スムーズに車体に入った。

(なんだか、暑い……)

 気温は二十四度だから、そこまで暑くないはずだった。

だが、アスファルトの熱が、思った以上に近かった。

「では、いきますよ」

 黒崎が車椅子の後部に手を掛けた。

「はい」

 志保は前方を見た。

 車椅子はゆっくりと始動し、徐々に速くなった。

 正面から受ける風が、強い。

(さっきとも違う)

 そう思った時だった。

バランスを崩し、倒れそうになった。

「あっ」

 とっさのところで、黒崎が車体を停め、志保を抱えた。

「大丈夫ですか?」

 黒崎が志保の顔を覗き込んだ。

「はい」

 返事したものの、まだ心臓がどきどきとしていた。

風ではなかった。空気の塊が、横からぶつかったような感触だった。

(これが、『持っていかれる』か……)

 志保は橋を振り返った。

 深い谷底、両岸の山。

(ひょっとして……)

 志保は頷くと、黒崎を見た。

「すみません。もう一度、お願いします」

「いいですけど、無理しないでくださいね」

「はい」

 志保はその後、三回試乗した。

 やはり、同じ場所で空気抵抗を感じた。

「ありがとうございます。もういいです」

 志保は降車すると、スマホのアプリで、周囲の空気の流れを見た。

 ちょうど先程の場所で、空気の流れが濃くなっている。

(やはり、そうか……)

 志保はそのデータを保存すると、車椅子を片付けている黒崎を見た。

「黒崎さん」

「はい」

「ご相談があります。いったん、事務所に戻ってください」


「コースの変更、ですか?」

 事務所で三宅は驚いた表情を見せた。

「はい。元々、長い橋や湾岸エリアは、強い横風や向かい風が吹きやすく、軽量な競技用車椅子は横転の危険性があります」

「まあ、そうですね……」

「更に」

 志保は地形図を取り出し、机に広げた。先程の橋を指差す。

「この二十五キロ地点は、ちょうど深い谷で、風が吹きやすい場所です。車体の影響を受けやすいんです。恐らく、国際大会にするということであれば、認可を受けるためにも避けたほうがいいと思われます」

「うーん……」

「十五キロ地点も、海岸線を避けるのは難しいでしょうが、午後海からの風が入りやすくなります。せめて時間帯を午前にずらせないでしょうか?」

「うーん……」

 三宅は腕組みをして、地図を睨んだ。

「坂本さん」

 しばらくの沈黙の後、黒崎が小さく手を挙げた。

「おっしゃることはごもっともです。しかし、このコースを変更するとなると、かなりの迂回が必要になり、周囲の住民や警察の理解も必要です。もう少し、お時間をいただけますか」

「わかりました」

 仕方がない――そう思った時だった。

(生きるためです)

 桐谷のあの言葉が、耳の奥で蘇った。

 志保は、はっとして、顔を上げた。

「すみません。肝心なことを、忘れていました」

「肝心なこと、とは?」

 三宅が首を傾げた。

「選手の声です」

 志保はきっぱりと答えた。

「彼らのことを、彼らを抜きにして考えてはいけません」

「……わかりました」

 三宅は呆然とした表情のまま頷いた。

 志保は外を見た。

 競技場の旗が、風になびいていた。


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