誰がために風は吹く③
志保が現地のスタッフの打ち合わせとコースの検証をする為、九州に飛んだのは、その十日後のことだった。
空港に降り立つと、「歓迎 アトモス気象研究所様」と書かれたA3程の紙を持った男性が立っていた。志保が近づくと、男性は紙を降ろした。
「はじめまして。アトモス気象研究所の坂本です」
「坂本さんですね。お待ちしておりました。私、西日本国際車椅子ロードレース大会実行委員会の黒崎です」
「ああ、メールで資料を送付して下さった。その節はどうも」
「はい。今回は宜しくお願いします。車はこちらです」
黒崎は志保の荷物が載った台車を押し、車に案内した。
車は空港を出て、すぐに国道に入った。海岸線が良く見える道になった。信号もあまりなく、平坦な道をスムーズに走る。
交差点で信号待ちしている時に、「ここからがコースの一部です」と黒崎が前方を指差した。
志保はバッグから地図を取り出し、コースを確認した。確かに、この先の陸上競技場がスタート地点で、この交差点から先は十五キロ地点近くになる。
「あまり遮るものがないですね」
「はい。この風景も、見せ場の一つなんですよ」
黒崎は自慢そうな声を出したが、志保は付近の地形が気になった。
「ちょっと、そこの路肩に停めてもらっていいですか」
「え?あ、はい」
少し広めの路肩で、黒崎は車を停めた。
即座に志保は降りると、左手を挙げて風を探った。
海岸から、少し風が吹く。
(うーん……)
志保は再び、ポケットから紙を取り出した。
今度は、先日ファックスで受け取った、桐谷の書いた風の強いポイントだった。
桐谷はこのコースを、過去三回走っている。その上で、風が強いと感じたポイントを記してもらった。だが、今の風は穏やかだった。
「坂本さん、どうしました?」
車から黒崎が声を掛けた。
「あ、いえ。すみません。戻ります」
志保は車に戻ると、黒崎に地図を見せた。
「すみません。次に、この場所に寄っていただいてもいいですか?」
およそ十キロ先の橋を指した。
「はい。いいですよ」
黒崎はよくわからなそうな表情をしながらも、車を走らせた。
十五分ほどでその場所に着いた。
「すみません。ちょっと待っていただいていいですか?」
「はい」
黒崎が川沿いに停車すると、志保はまたすぐ降りて、橋の中に歩いた。
陸橋は川底からかなりの高さがあった。川の両岸には山がある。
しかし、少し髪が揺れる程度で、思っていたほどの風ではない。
(時間帯の問題なのか……)
とはいえ、事前の観測記録を見ても、そんなに差はなかった。
(桐谷さんだけじゃない。他の選手の記録を見ても、似た場所で失速している……となると、何が要因なのか……)
志保は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
橋の上から見える海は、光りながら凪いでいた。
その後、五キロ地点と三十五キロ地点に該当する、街中のビルの谷間にも立ち寄ってみた。
黒崎に最寄りのコンビニで駐車してもらい、一人横断歩道を渡ってみる。
横断歩道の中央に立った瞬間、頬を横から風が撫でた。
(恐らく、ビル間の収束風……)
この辺は、一般ランナーも失速する箇所なので、それほど意外性はなかった。
(じゃあ、さっきの十五キロ地点と二十五キロ地点の風の正体は、一体なんだろう?)
志保は空を見上げた。
ビルの隙間を、薄い雲がゆっくり流れていた。
大会本部は、スタート地点に該当する陸上競技場の隣にある体育館の中にあった。
黒崎の案内で、奥の部屋に入った。
奥の机にいた、白髪頭の男性が立ち上がった。六十代ぐらいだろうか。
「アトモス気象研究所の坂本様ですね。私、大会本部長の三宅です」
三宅は丁重にお辞儀をした。
「坂本です。宜しくお願いします。すみません、少し遅くなりまして」
「いえ。さあ、どうぞおかけください」
隣に会った応接用のソファに案内され、座った。三宅と黒崎も並んで座る。
「コースの下見されたんですよね。来て早々、ありがとうございます」
「いえ。気になったもので」
「で、コースの感想はどうでしょう?」
「はい」
志保は机に地図を広げた。
「国際大会になる前の記録を拝見したのですが、過去五キロと三十五キロ地点、十五キロ地点、二十五キロ地点で失速する傾向にあります。日本代表の桐谷選手にも話を伺ったのですが、これらの地点では風で体が持っていかれるとのことなんです」
「ほう」
三宅は少し驚いた表情を見せた。
「意外ですね。少なくとも、今までそんなに風速があった日もないですし、一般ランナーからもそんな話は聞いたことがありません」
「五キロと三十五キロ地点については、ビル間の収束風かと思われます。ただ、この十五キロ地点と二十五キロ地点については、私にもまだ分からないんです。何か心当たりはありませんか?」
「うーん……」
三宅は腕組みをした。
「ちょっと思い浮かばないですね……」
「そうですか……」
志保はもう一度地図を見た。
「そういえば」
黒崎が顔を上げた。
「どうしました?」
「二年前、一人の選手が、この二十五キロ地点でバランスを崩して転倒しそうになったことがありました」
「そうなんですか?」
志保の語気に力が入った。
「はい。急に、持っていかれたそうです」
黒崎の言葉に、志保は顔を上げた。
「ああ、そういえばそんなことありましたね。海外の選手でした」
三宅も頷いた。
「それって、具体的にどの辺ですか?」
「この辺ですね」
三宅が指したのは、さっき渡った橋の辺りだった。
その日の夜、志保は改めて二年前の気象条件を見た。
当日の風速は、概ね二メートル程度で、最高で四、五メートル程度。大きな影響を及ぼすものとは思えない。天気図も確認したが、等圧線も狭くなかった。
(だとすると、地形?)
かもしれない。
しかし、現場ではさほど感じるものはなかった。
(なんだろう……数字と感覚が噛み合わない……)
腕組みをしながら、パソコンの画面を眺める。
「気分変えようかな……」
志保は一度息を吐くと、リモコンに手を伸ばし、テレビをつけた。
ちょうどニュースの時間だった。
その日の特集は、子供の受ける排気ガスの話題で、喘息に悩む子供が病院に通う映像が映し出されていた。
医者がインタビューに答えていた。
「お子さんは身長が違う分、車から排出されるガスを直接吸い込むことになります。歩道を歩く際も端を歩くなど、注意が必要です」
実際に歩道を歩く子供やベビーカーの姿が、モザイクにかかって映っていた。
ぼんやりと見ていると、母親がベビーカーの赤ちゃんにハンディファンを当てている場面が見えた。
その時、志保は勢いよく顔を上げた。
「これ!」
志保はメモ帳を掴むと、勢いよく書き込んだ。
『競技用車椅子、借りる。試乗』




