誰がために風は吹く②
翌週。
志保は、『モーニング・ブリーズ』の取材班と共に、市民体育館を訪ねていた。
今回行くのは、特集で組む予定で、日本代表の車椅子ランナー・桐谷一馬。三十四歳。
「今日は車椅子ではなく、ウェイトトレーニングなんです。絵には今一つならないけど……」
畠山が残念そうに言う。
「構いません」
志保は淡々と答えた。競技者にとって、トレーニングそのものが本番前の顔だと知っていた。
志保は靴を用意した上履きに履き替え、トレーニングルームに入った。
桐谷は無言のまま、車椅子に座って黙々とラットプルダウンをしていた。そばにはトレーナーらしきジャージの男性が立っている。
「すみません。日本エアウェーブの畠山です」
「あ、聞いております。どうぞどうぞ」
トレーナーは愛想よく手を差し出したが、桐谷は無言でそのままトレーニングを続けていた。
「すみません。今、トレーニングに集中していて、余裕ないんです。そのままカメラ回していただいていいですよ」
「ありがとうございます」
スタッフが撮影の準備をしている時だった。
「……眩しい」
桐谷が低く呟いた。視線は前を見たまま動かなかった。
「え?」
畠山が振り向いた。
「眩しい」
低く、無愛想な声で再び桐谷が呟いた。
「ああ、照明が眩しかったですかね。失礼しました」
畠山はスタッフに指示を出し、照明の位置を変えさせた。
「はい、これでいいですか?」
ちょうど整ったか、というタイミングで畠山が声を掛けた。
桐谷は畠山を全く見ないまま、
「次」
そう言って、別の機具に移動を始めた。
「え?あの……」
畠山が後を追った。
「あの……私たち、何かご無礼なことを……」
畠山がトレーナーに話し掛けた。
「すみません。彼、いつもああなんです。どうぞ気にしないでください」
「はあ……」
呆然とした畠山の後ろから、「すみません」と志保が小さく手を挙げた。
「初めまして。私、アトモス気象研究所の坂本志保と申します」
丁重に名刺を渡し、お辞儀をした。
「ああ、坂本さん。聞いています。私、トレーナーの水島と申します。すみません。今、名刺ありませんが」
「ええ。構いません」
志保は次にバーベルを持ち、黙々とトレーニングをする桐谷の背中を見た。Tシャツは汗で背中に張り付き、腕には太い血管が浮き出ていた。
「あの……彼、いつもああなんですか?」
志保は小声で水島に聞いた。
「ええ、どうも、取材が苦手みたいで……」
「いえ、そうではなく」
志保は手を振った。
「何だか、鬼気迫る、っていう感じがするんですけど……」
「え?」
「私、ラグビーや陸上競技など、様々なスポーツ選手を見てきました。けど、桐谷さんは、何か……焦っているように見えるんです」
「焦る?」
「何かに追いかけられているような……」
そこまで志保が話したところで、桐谷が振り返った。
「撮影なら、早く静かに終えてください」
「あ、すみません。では、よろしくお願いします」
畠山が素早く指示を出し、撮影にかかった。
志保は黙って桐谷の背中を見た。
広背筋が震えている。
志保には、その震えが緊張より怯えに見えた。
トレーニング後、マシンの前に座った状態で、インタビューが始まった。
まずは質問内容の確認が行われた。
桐谷は「どうぞ」と特に注文もなかった。
カメラ、照明を確かめながら、リハーサルが始まった。
「今回、国内における国際大会に参加する意気込みをお願いします」
「優勝しかないでしょう」
淡々とした口調だが、よどみなく答えていた。
畠山がインタビュアーに細かい指示を出し、質問のスクリプトを微修正した。
本番。
「今回、海外の選手も多数参加する中、何か対策はありますか?」
「特にありません。いつもの走りをするだけです」
「今回のコースについての印象は?」
「平坦ですね。所々、風はありますが」
答えに迷いはなかった。同じ質問を、何度も受けてきたのだろう。
「最後に、視聴者の皆さんへメッセージをお願いします」
「私に限らず、全てのランナーの力走を見てください。応援よろしくお願いします」
桐谷がぺこりと頭を下げ、インタビューが終わった。
「ありがとうございました」
スタッフが機材を片付ける中、畠山が笑顔で桐谷と水島にお辞儀をした。
「いえ、どうもありがとうございます」
水島も丁寧に頭を下げた。桐谷も薄笑いを浮かべ、小さく頭を下げた。
その笑みに、志保は小石を踏んだような違和感を覚えた。
(あれは、安堵の笑みじゃない)
畠山が離れた後、志保は二人に駆け寄った。
「桐谷さん」
桐谷が顔を上げた。
「はい」
「初めまして。私、アトモス気象研究所の坂本と申します。今回、大会の気象アドバイザーを務めさせていただいています」
「ああ、そうですか。どうも」
丁寧だったが、さほど興味はなさそうだった。
「今のインタビューで気になったんですが……所々、風を感じるところって、どの辺ですか?」
「うーん……」
桐谷は少し視線を上にあげた後、志保を見た。
「あとで、マップに印付けます」
「ありがとうございます」
志保が一礼をすると、桐谷は去ろうとした。
思わず、志保は呼び止めた。
「桐谷さん」
「はい?」
桐谷は振り返った。
「一つだけ教えてください」
志保は生唾を一回のみ込むと、はっきりとした口調で言った。
「あなたは、何に向かって走っているんですか?」
「え?」
「それとも、何かを振り切ろうとしているんですか?」
桐谷の顔が凍った。それは谷底を覗き込むような、彫刻のように固まった表情だった。
しばらくの沈黙の後、桐谷が少し下を向いて呟いた。
「……生きるためです」
「……生きる、ため?」
「生きるためです」
そう言うと、桐谷は再び車椅子をこいでドアに向かった。
「すみません。次の予定がありますので、失礼します」
水島が小さく礼をすると、後について行った。
志保は、初めて桐谷の本当の顔を見た気がした。




