誰がために風は吹く⑦
「用意」
パーン
三宅の号砲で、選手は一斉にスタートした。
陸上競技場の地点で、風速三メートル。ほぼ予想通り。
選手は特に影響を受ける様子もなく、力強く疾走している。鍛え抜かれた上腕二頭筋に、太い血管が浮き出ていた。
(ここまでは、よし)
モニターを見ながら、志保は頷く。
志保は即に大会本部の車で、五キロ地点に先回りしていた。ここの風速も三メートルだが、時々ぶん、という音と共に強い風を感じる。
やがて、選手が見えてきた。先頭集団の中に、桐谷もいる。
「頑張れー!」
「走れー!」
沿道の観客が、大きな声で応援する。
選手がどんどん近づいてくる。
志保は観客を見た。横断幕は帆のように膨らんでいた。
(お願い……)
思わず、胸の前で手を組んだ。
選手が、五キロ地点を通過。
ここは、特に波乱もなく、風のように通り過ぎて行った。
その後の選手も、特に問題なさそうだった。
(まだだ)
第二集団が通過したあたりで、志保は急いで十五キロ地点に移動した。
十五キロ地点は、既に横断幕を持った人や一般の観客で埋め尽くされていた。
海は少し波がある。
(これは……)
志保は車を降りると、すぐにブーン式風速計を取り出した。
風速は約三メートル。だが、時折、五メートルを記録する。
(やはり)
観客には、帽子を押さえる人、スカートの裾を押さえる人もいた。
志保はその場で屈んでみた。
地熱はさほど感じないが、やはり風の影響を感じる。
(あとは、選手を信じるのみ)
志保は喉が渇いた。水筒の水を飲んだが、潤った感触がしなかった。
海は変わらず、穏やかな波が漂っていた。遠くで鳥が飛んでいる。
横断幕は、さっき以上に膨らんでいた。
そして。
「おーっ」
観客の声と拍手と共に、先頭集団が見えてきた。
「頑張れー!」
沢山の旗が振られ、拍手と歓声に包まれる。
桐谷が先頭で、必死に走っている。
「ファイト!」
志保も思わず声を出した。
ちょうどそのタイミングで、風が吹いた。
二位、三位の選手が、少し流される。
(あっ)
志保が声を出しそうになった。
しかし、選手は持ちこたえ、そのまま疾走した。
横断幕ははためき、人々は声を出す。
「負けるな!」
「行け!」
その声に応えるように、選手は苦しそうな表情を浮かべつつも、懸命に前へ進んでいく。
第一集団は、無事通過した。
(このまま、行けるか)
少し安堵していると、第二集団がやってきた。
志保の目の前を通過しようとした時だった。
再び、強めの風が吹いた。
先頭の選手が、大きく右に曲がった。
「あっ!」
志保と観客が同時に大きな声を出した。
しかし、その選手はすぐにバランスを整え、再び前へ進んでいった。
ふう、という安堵の声が、あちこちで聞こえてきた。
(よかった……)
志保も額の汗をぬぐった。
その後の選手も、少しバランスに苦慮するように見えもしたが、特に事故もなく通過することができた。
再び、三十五キロ地点に戻る。
車を降りると、風が志保の髪を揺らした。
(え……)
早速風速を測る。
一瞬、五メートルを記録した。予想よりも風がある。
(まずい)
一時的だろうが、選手に影響を与えかねない。
その後も断続的に強めの風が吹く。十五キロ地点を無事通過したからといって、一安心できなかった。
(最後まで、油断できない……)
選手を待つ間、短い間隔で、風速を測る。微風もあれば、一瞬強くもなる。
科学者としてどうなの、と思いつつも、落ち着かない。
(こんなことしても、意味ないのに……)
歓声が聞こえてきた。
桐谷が先頭で、独走状態だった。
「頑張れー!」
再び周囲が熱気に包まれる。
(お願い……)
志保は再び、手を組んだ。
一瞬、サングラスの桐谷と目があった気がした。
きらり、と光った。
(え……)
次の瞬間には、力強く走り抜けた。
(今のは……)
その後の選手が来る直前、ぶん、と強い風が吹いた。
一瞬、ぐらり、と車椅子の前輪が曲がる。
「ふん!」
志保にも聞こえる声で、選手は体制を立て直し、走り抜けた。
その後の選手も、バランスを崩したり、風を感じるのか顔を歪める選手もいたが、無事に走り抜けた。
翌週。
『モーニング・ブリーズ』で、スポーツコーナーの特別枠として、『西日本国際車椅子マラソン』の特集が組まれた。
桐谷を中心に、色々な選手や各関係者の姿が映し出された。
トレーニングに励み、意気込みを話す桐谷。
スポーツと共生社会の重要性を訴える三宅。
その中に、気象アドバイザーとして、志保も映し出された。
気象観測をし、横断幕や人の配置を提案する。そしてレースで選手を見守る。
そして、その姿と共に、志保のインタビューの声が流れた。
「私は、風速や湿度の予測をします。それを伝えるのが仕事と思っていました。でも、同じ風でも、選手によって受け方は違います。人生も同じです。同じ風の中を走っているように見えても、一人一人違うものを抱えています。だから、私たちにできることは、風をなくすことではなく、少しでも走りやすい環境を作っていくことと思います」
風速計を眺める映像を最後に、志保のインタビューが終わった。
映像は最後に、桐谷の表彰式の映像が映し出された。
そして、同様に桐谷の言葉が流れる。
「今まで、レースは孤独な戦いで、自分ひとりで自分と向き合うものと思っていました。しかし、今回国際大会になり、様々な方々に支えられているんだな、と思うことができました。これからも、少しでも長く、前に進んでいきたいです」
最後には、桐谷がメダルを片手に笑顔を見せていた。
志保はアトモス気象研究所でテレビを見終わると、リモコンのスイッチを消した。
「前に進んでいきたいです、か……」
志保は思わず笑った。
初めて見る桐谷の笑顔だった。
「本当にお疲れ様」
後ろから、玲奈が話しかけてきた。
「お疲れ様です」
「大会本部から、お礼のメールが来たわ。来年もよろしくお願いします、って」
「そうですか。ありがとうございます」
「多分、来年もあなたに頼むわ。いい?」
「はい!」
「宜しくね。ただ」
玲奈の声が少し低くなった。
「はい」
志保の顔に緊張が走る。
「あなた、テレビ出るのに、殆どジャージ姿ってどうなの?」
「えっ……いやあ、フィールドに出ることが多かったもので……」
ごくり、という生唾を飲み込む音が、志保の耳に響いた。
「まさか、大会本部の方々と挨拶する時も、あの姿?」
「いえ、まさか……」
「ならいいけど。少しは身だしなみも考えなさい」
志保はパーカーにGパン姿の自分を見て、照れ笑いをした。
「はい」
頭を掻きながら、頭を下げた。
外に吹く風が音を立て、冬が近づいているのを知らせていた。
(了)




