第33話 【虚構少女かく語りき】
「…………」
誰もいなくなった館長室を、輝夜はゆっくりと見回した。そして、おもむろに懐へ手を入れる。
取り出したのは、ARコンタクトレンズ。それと──一枚の紙。
輝夜はレンズの封を開けると、鏡も使わず、慣れた手つきで目に装着した。それから紙を開き、そこに書かれた内容を確認する。そして操作盤の前へ立つと、紙に記された文字列を静かに入力し始めた。
「…………」
入力を終え、エンターキーを押す。すると──
「──!!」
輝夜の視界に、雪が降り始めた。思わず手を伸ばす。だが、触れようとした指先を、白い雪片は当然のようにすり抜けていった。
雪は、館長室の外にも降り続いている。輝夜はゆっくりと部屋を出た。足元には白い雪が積もって見える。一歩踏み出すたび、その雪面に足跡が浮かび上がっていった。
「はぁ……はぁ……」
輝夜は歩く。ただ、ひたすらに。目的地など、あるはずもない。それでも──足を止めることはなかった。
「……!」
しばらく歩くと、一脚のベンチが視界に入った。そして、そのベンチには──死んだはずの音無 雫が座っていた。
「…………」
輝夜はゆっくりと、そこへ向かっていく。そんなはずはないのに、足元の雪に足を取られそうな感覚さえあった。やがてベンチの前まで辿り着くと、何も言わず音無の隣へ腰を下ろした。
「──ごめんね。無茶なお願いしちゃって」
音無が口を開いた。雪さえ溶かしてしまいそうな、優しい声だった。申し訳なさそうに、輝夜の方を見ている。
「……別にいいよ。なんか捕まらないっぽいし、私」
輝夜はベンチに両手をつき、空を見上げる。見上げた空は真っ暗で、星一つ見えなかった。
左手が、音無の右手と重なる。けれど──触れない。輝夜の手は、彼女の手を静かにすり抜けていた。
「雪は嫌いだったんだ。雪の日になると、あいつにベランダへ連れ出されて、雪の積もった床に無理矢理押しつけられてた」
「……ふーん」
「そのままベランダに放置されて、朝まで震えて過ごしたりして。あのまま死んじゃってもおかしくなかったよ」
「…………」
「でも──あの日から、雪が好きになったんだよ。だから、降らせてみたんだ」
「そっか」
雪が二人の頭へ、静かに積もっていく。音無が右手を伸ばし、輝夜の頭をぱっと払う。その動きに合わせるように、積もっていた雪がパラパラと散った。そして、その手を再び輝夜の左手へ重ねる。
「はぁ……いい人生だったな。本当に幸せだった」
「そりゃよかった」
「豪おじさんと悟くんが出てきたら、謝っておいて。特に悟くんは、私が瑞稀さんの件を利用するみたいな形になっちゃったから」
「……!」
輝夜は虚を突かれ、目を丸くした。まるで、豪と悟が捕まることを、最初から知っていたかのような口ぶりだった。
「……輝夜」
「ん? 何?」
「ありがとう……大好き」
音無はそう言って、輝夜に抱きついた。錯覚かもしれない。それでも確かに──温かかった。本当にそこに音無がいると、そう思い込んでしまうほどに。
「うん……私も」
輝夜も、音無の身体に腕を回した。わずかにその腕が背中と交わる。
しばらくして、二人はゆっくりと身体を離した。そして、見つめ合い、優しく微笑み合った。
「……じゃあね。また会えるかな?」
音無が立ち上がり、ベンチに座ったままの輝夜を見下ろした。輝夜はいたずらっぽく片眉を上げる。
「さあ? 私は死後の世界とか信じてないけど」
「あははっ!」
音無はまるで輝夜の言葉に応えたかのように、楽しそうに笑った。
「……ばいばい」
そして、手を振りながら、ゆっくりと雪の向こうへ遠ざかっていく。
「…………」
輝夜もベンチに座ったまま、小さく手を振り返した。いつまでも手を振り続ける音無は、次第に遠ざかっていく。やがて豆粒ほどの大きさになり──雪の中へと溶けていった。
「…………」
輝夜はもう一度、空を仰いだ。雪が顔に落ちる。その雪は一筋の雫となって、頬をすーっと流れていった。
輝夜は視線を戻し、ゆっくりと立ち上がる。そして、音無が消えていったのとは反対の方向へ歩き出した。
一度だけ──後ろを振り返る。だが、そこにはもう誰もいない。輝夜はすぐに前を向いた。両手をポケットに入れ、そのままミュージアムの出口へ向かって歩いていく。
しばらく歩いて、ミュージアムの出口へ辿り着いた。当然、外に雪は降っていない。輝夜はARコンタクトレンズを外すと、そのまま無造作に放り捨てる。
そして最後に──ぽつりと呟いた。
「……降らないかなぁ、雪」
虚構から生まれた少女、音無 雫。彼女は“氷室 輝夜”という虚構を纏ったまま、再び虚構の中へ消えていった。
そして、氷室 輝夜。彼女は“音無 雫”という虚構を纏い、どこかへと消えてしまった。彼女は、どこにも存在しない。故に──その行き先を知る者もまた、どこにもいないのだ。




