インスタントコーヒーの熱量
私の一日の始まりは、焼き立てのホットサンドと、火傷しそうなほど熱いコーヒーから始まる。
ジュー、と小気味いい音を立てる小さな鉄板。
その上に食パンを滑り込ませ、ハム、たまご、みずみずしいキュウリをリズミカルに乗せていく。
仕上げに塗るのは、たっぷりの特製からしマヨネーズだ。
もう一枚のパンで蓋をして鉄板をギチリと挟み込み、コンロの強火にかける。
片面三分、ひっくり返して二分。
タイマーの電子音が鳴る前に火を止めれば、あっという間に黄金色のホットサンドの完成だ。
コーヒーには、並々ならぬこだわりがある。
それは「絶対に熱々であること」だ。
シュンシュンと激しく湯気を上げる薬缶からお湯を注ぎ、マグカップに入れたインスタントの粉を一気に溶かす。
世間では丁寧なハンドドリップが流行っているが、ちんたらと湯滴が落ちるのを待つ時間など、私の忙しい朝には存在しない。
あのスピード感でなければ、今日という日を戦う熱量は生み出せないのだ。
手早く取り出したホットサンドに、豪快にかぶりつく。
サクッとした小気味いい歯ごたえのあと、からしマヨネーズのツンとした辛みと爽やかな酸味が鼻に抜けた。
すかさず熱々のコーヒーを流し込む。
胃の腑から熱が広がり、冬の冷気で強張っていた体が一気に温まっていくのが分かった。
春が近づいているがまだまだ寒い。
鏡の前に立ち、お気に入りの真っ赤な口紅を唇にきゅっと引く。
心なしか、いつもより顔色が明るく見える。
よし、今日もばっちり。
「……いってきます。おじいちゃん」
寝室の奥、すっかり寝たきりになってしまった人の寝顔に、そっと声をかける。
今年で100歳になる彼は、かつて我が家の絶対的な大黒柱だった人だ。
「最期は住み慣れた家で」という彼の願いを叶えるため、平日はヘルパーさんの手を借りながら、今はこうして自宅で看取っている。
穏やかに上下する胸を愛おしく眺めながら、ふと思う。
あとどれくらい、この愛おしい時間が続くだろうか、と。
いつもの通勤電車に揺られ、職場に着く。
デスクに座り、慣れ親しんだPCの電源を立ち上げる。
今日が、私の最後の出社日だ。
数ヶ月前から進めていた後輩への業務引き継ぎは、昨日ですべて完了している。
今日中に片付けなければならない仕事は、もうほとんど残っていない。
けれど、長年コツコツと勤め上げてきた大切な場所だ。
最終日だからといってダラけることなく、最後まできっちり全うしなければ。
「やあ、お疲れ様でした。今夜の送別会、主役なんだから遅れないでよ?」
パーテーション越しに、部長がにこやかに声を掛けてくれる。
数年前に赴任してきた年下の彼にも、ずいぶんお世話になったものだ。
「はい!よろしくお願いします!」
背筋を伸ばし、元気よく返事をする。
元来、フットワークの軽さと底抜けの明るさだけが取り柄の私だ。
感傷に浸るにはまだ早い。
今日も最後まで、私らしくハキハキと働こう。
しかし、いざ業務が始まると、色々な部署の人が代わる代わる「お疲れ様」と言い残してはデスクにやってくる。
懐かしい昔話に花が咲き、結局あまり仕事が手につかないまま、あっという間に終業を告げるチャイムが鳴ってしまった。
愛着のあるPCをシャットダウンする。画面がぷつんと黒くなった瞬間、胸の奥が少しだけツンと痛んだ。
オフィスを見渡すと、ほかのみんなも次々と支度を終えてこちらを見ている。
総勢三十人。みんなが私のために、ぞろぞろと夜の街へ連れ立って歩いてくれた。
着いたのは、路地裏にあるこぢんまりとしたお洒落なイタリアンのお店だった。
私たちの部署がちょうど収まるサイズのお店を、わざわざ貸し切りにしてくれたみたいだ。
「これまでの輝かしい功績に、お疲れさまでした!乾杯!」
部長の威勢のいい音頭に合わせて、一斉にグラスが掲げられる。
あちこちの席からひっきりなしに「あの時のプロジェクトは凄かった」「あのトラブルを救ってくれた」と、思い出話が飛んでくる。
それがたまらなく誇らしく、嬉しかった。
体力的にはまだまだ現役で働きたい気持ちもあるが、こればかりは仕方のないことだ。
「今まで本当にありがとうございました!これ、みんなからの餞別です」
宴もたけなわとなった頃、大きなリボンがかかった箱を差し出された。
ワクワクしながら包みを開けると、中から現れたのは、最新式の高級コーヒーメーカーだった。
私が大のコーヒー好きであることは、部署の誰もが知っている。
「明日からは、お湯が落ちるのをゆっくり眺めながら、流れる時間を楽しんでくださいね」という寄せ書きのメッセージを読み、なんだか可笑しくてクスリと笑ってしまった。
確かに、明日からはもう、朝のお湯を急いで沸かす必要もないのだ。
心地よいアルコールの余韻に浸りながら、少し頼りない足取りで夜道を歩き、家路に着く。
「ただいま!」
玄関の重い扉を開け、いつものように目一杯の声を張り上げた。
「おかえりなさい!おばあちゃん!」
バタバタと賑やかな足音を響かせて廊下を走って、今年10歳になったばかりの孫が飛び出してきた。
そう。私が「定年退職」という長年の勤めを終え、自由な時間の手形を手に入れたのは、人生で今日が初めてのことだった。




