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とても短い物語  作者: 芹野凪


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9/11

インスタントコーヒーの熱量

私の一日の始まりは、焼き立てのホットサンドと、火傷しそうなほど熱いコーヒーから始まる。


ジュー、と小気味いい音を立てる小さな鉄板。

その上に食パンを滑り込ませ、ハム、たまご、みずみずしいキュウリをリズミカルに乗せていく。

仕上げに塗るのは、たっぷりの特製からしマヨネーズだ。

もう一枚のパンで蓋をして鉄板をギチリと挟み込み、コンロの強火にかける。

片面三分、ひっくり返して二分。

タイマーの電子音が鳴る前に火を止めれば、あっという間に黄金色のホットサンドの完成だ。


コーヒーには、並々ならぬこだわりがある。

それは「絶対に熱々であること」だ。

シュンシュンと激しく湯気を上げる薬缶からお湯を注ぎ、マグカップに入れたインスタントの粉を一気に溶かす。

世間では丁寧なハンドドリップが流行っているが、ちんたらと湯滴が落ちるのを待つ時間など、私の忙しい朝には存在しない。

あのスピード感でなければ、今日という日を戦う熱量は生み出せないのだ。


手早く取り出したホットサンドに、豪快にかぶりつく。

サクッとした小気味いい歯ごたえのあと、からしマヨネーズのツンとした辛みと爽やかな酸味が鼻に抜けた。

すかさず熱々のコーヒーを流し込む。

胃の腑から熱が広がり、冬の冷気で強張っていた体が一気に温まっていくのが分かった。


春が近づいているがまだまだ寒い。

鏡の前に立ち、お気に入りの真っ赤な口紅を唇にきゅっと引く。

心なしか、いつもより顔色が明るく見える。

よし、今日もばっちり。


「……いってきます。おじいちゃん」


寝室の奥、すっかり寝たきりになってしまった人の寝顔に、そっと声をかける。

今年で100歳になる彼は、かつて我が家の絶対的な大黒柱だった人だ。

「最期は住み慣れた家で」という彼の願いを叶えるため、平日はヘルパーさんの手を借りながら、今はこうして自宅で看取っている。

穏やかに上下する胸を愛おしく眺めながら、ふと思う。

あとどれくらい、この愛おしい時間が続くだろうか、と。


いつもの通勤電車に揺られ、職場に着く。

デスクに座り、慣れ親しんだPCの電源を立ち上げる。

今日が、私の最後の出社日だ。

数ヶ月前から進めていた後輩への業務引き継ぎは、昨日ですべて完了している。

今日中に片付けなければならない仕事は、もうほとんど残っていない。

けれど、長年コツコツと勤め上げてきた大切な場所だ。

最終日だからといってダラけることなく、最後まできっちり全うしなければ。


「やあ、お疲れ様でした。今夜の送別会、主役なんだから遅れないでよ?」


パーテーション越しに、部長がにこやかに声を掛けてくれる。

数年前に赴任してきた年下の彼にも、ずいぶんお世話になったものだ。


「はい!よろしくお願いします!」


背筋を伸ばし、元気よく返事をする。

元来、フットワークの軽さと底抜けの明るさだけが取り柄の私だ。

感傷に浸るにはまだ早い。

今日も最後まで、私らしくハキハキと働こう。


しかし、いざ業務が始まると、色々な部署の人が代わる代わる「お疲れ様」と言い残してはデスクにやってくる。

懐かしい昔話に花が咲き、結局あまり仕事が手につかないまま、あっという間に終業を告げるチャイムが鳴ってしまった。

愛着のあるPCをシャットダウンする。画面がぷつんと黒くなった瞬間、胸の奥が少しだけツンと痛んだ。

オフィスを見渡すと、ほかのみんなも次々と支度を終えてこちらを見ている。

総勢三十人。みんなが私のために、ぞろぞろと夜の街へ連れ立って歩いてくれた。


着いたのは、路地裏にあるこぢんまりとしたお洒落なイタリアンのお店だった。

私たちの部署がちょうど収まるサイズのお店を、わざわざ貸し切りにしてくれたみたいだ。


「これまでの輝かしい功績に、お疲れさまでした!乾杯!」


部長の威勢のいい音頭に合わせて、一斉にグラスが掲げられる。

あちこちの席からひっきりなしに「あの時のプロジェクトは凄かった」「あのトラブルを救ってくれた」と、思い出話が飛んでくる。

それがたまらなく誇らしく、嬉しかった。

体力的にはまだまだ現役で働きたい気持ちもあるが、こればかりは仕方のないことだ。


「今まで本当にありがとうございました!これ、みんなからの餞別です」


宴もたけなわとなった頃、大きなリボンがかかった箱を差し出された。

ワクワクしながら包みを開けると、中から現れたのは、最新式の高級コーヒーメーカーだった。

私が大のコーヒー好きであることは、部署の誰もが知っている。

「明日からは、お湯が落ちるのをゆっくり眺めながら、流れる時間を楽しんでくださいね」という寄せ書きのメッセージを読み、なんだか可笑しくてクスリと笑ってしまった。

確かに、明日からはもう、朝のお湯を急いで沸かす必要もないのだ。


心地よいアルコールの余韻に浸りながら、少し頼りない足取りで夜道を歩き、家路に着く。


「ただいま!」


玄関の重い扉を開け、いつものように目一杯の声を張り上げた。


「おかえりなさい!おばあちゃん!」


バタバタと賑やかな足音を響かせて廊下を走って、今年10歳になったばかりの孫が飛び出してきた。


そう。私が「定年退職」という長年の勤めを終え、自由な時間の手形を手に入れたのは、人生で今日が初めてのことだった。


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