忘れられない人
私には、忘れられない人がいた。
その人は本当にお金がなくて、デートといえばいつも決まった公園のベンチだった。
自動販売機で一本の缶コーヒーを買い、二人で分け合って飲む。
冬の寒い日には、一つの缶を交互に握りしめて暖を取った。
食事の時の割り勘すらおぼつかない彼だったけれど、私を楽しませようと、いつも一生懸命に笑顔をくれた。
お金はなくても、彼の語る未来はいつも前向きで、きらきらと輝いていた。
その話を聞いているだけで、私は世界一幸せな女の子になれた。
彼には、どうしても叶えたい大きな夢があった。
それは、児童養護施設を卒業した子どもたちの「居場所」を作ること。
施設は高校を卒業すると同時に出なければならないルールがある。
けれど、頼れる親も身元保証人もいない彼らは、賃貸契約を結ぶことも、まともな職に就くことも難しく、すぐに困窮して社会から孤立してしまうケースが多いのだという。
「そういう、どこからも支援の手が届かない奴らのための居場所を作りたいんだ。ちゃんと働けて、ちゃんと明日を生きられる場所をさ」
ベンチで冷たい手をこすり合わせながら、彼はいつも熱く語っていた。
彼自身もまた、児童養護施設の出身だった。
幼い頃に家族を亡くした天涯孤独の身で、施設を出たばかり。
なんとか借りられたアパートは、お風呂もないボロボロの六畳一間だった。
壁は薄く、隣の部屋の話し声が筒抜けになるような場所。
仕事も最低賃金ぎりぎりの、居酒屋の深夜アルバイトだった。
「自分と同じような境遇で、行く宛がなくて泣く子を、これ以上出したくないんだ」
そんな過酷な境遇にありながらも、必死で前を向く彼が、私はどうしようもなく大好きだった。
世間の言う「安定」や「財力」なんて関係ない。
そのひたむきな生き方に、私は惹かれていた。
どんなに貧しくても、彼とならどんな苦労も乗り越えられると信じていた。
――けれど、私たちのそんな関係は、ある日突然、終わりを迎えた。
あの頃の、お金がなくて、頼りなくて、でも誰よりも熱かった『彼』は、もう、どこにもいない。
◇
「……ん、」
耳に届く微かなエンジン音で、私はそっと目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、飛行機のゆったりとしたファーストクラスのシート。
私はどうやら、懐かしいあの頃の夢を見ていたようだった。
「おはよう。よく眠っていたね。もうすぐ着陸するみたいだよ」
隣の席から、聞き覚えのある優しい声が降ってくる。
仕立ての良い上質なスーツを完璧に着こなし、端正な笑みを浮かべる彼。
シートのポケットに差し込まれたビジネス誌の表紙には、『全国100店舗展開、異例のスピードで急成長を遂げる飲食チェーン経営者』として、彼の写真が大きく掲載されている。
昨日、盛大な結婚式を挙げたばかりの私たちは、今日から新婚旅行でハワイへ向かうところだった。
窓の外には、抜けるような青い空と、エメラルドグリーンの海が広がっている。
私の左手薬指には、機内の照明を浴びてまばゆい輝きを放つダイヤの指輪が光っていた。
夕方、ワイキキビーチを見下ろす最高級ホテルの、海が一望できる大パノラマのレストランへと足を運んだ。
波の音をBGMに、豪華なディナーとワインに舌鼓を打ちながら、彼が愛おしそうに私の手を取った。
「君と出会えて、本当によかった」
彼は少し照れくさそうに、でも真剣な目で見つめてくる。
「あの最も苦しかった時期、僕の夢を笑わずに、見捨てずに支えてくれたのは、ずっと君が隣にいてくれたからだ。……実はね、来月からうちの自立支援プログラムで、最初の『卒園生』たちを正社員として迎え入れることが決まったんだ。やっと、あの頃の夢を形にできた。これからは、僕が君を世界一幸せにする番だ」
胸がいっぱいになって、涙がこぼれそうになるのを堪えながら、私は微笑んで彼の温かい手を強く握り返した。
そう、あの頃の、お金がなくて頼りなかった「彼」はもういない。
今、私の目の前にいるのは――約束通り夢をすべて叶えて、最高の景色の中へ私を連れてきてくれた、世界一カッコいい、私の旦那さまだ。




