雲の上の特等席
高度10,000メートル。
人間どもがひしめき合う遥か上空、雲の上の楽園に私はいた。
楕円形の窓の外には、西日に照らされて黄金色に輝く、見渡す限りの白い雲海が広がっている。
地上の喧騒や格差社会の泥濘から完全に切り離されたこの空間は、まさに選ばれた者だけに許された至高の特等席だった。
本革仕様のリクライニングシートに深く身体を預け、私はこの「最後の旅」の時間を、人生で最も贅沢に堪能していた。
ほどなくして、微塵の乱れもないユニフォームに身を包んだアテンダントが、静穏な所作で近づいてきた。
彼女のトレイには、美しく盛り付けられた料理が載っている。
「メインディッシュでございます。最高級牛フィレ肉のロッシーニ風、ペリグーソースを添えて」
アテンダントは至高の笑みを浮かべ、恭しく私を仰ぎ見た。
「ありがとう。」
銀のナイフで肉を切り分け、そっと口に運ぶ。
歯を必要としないほど柔らかい牛フィレ肉の香ばしさと、フォアグラの濃厚でとろけるようなくちどけが、トリュフの芳醇な香りと共に舌の上で完璧なハーモニーを奏でた。
私は喉を鳴らし、クリスタルグラスに注がれた1980年代ヴィンテージの赤ワインでそれを追う。
重厚な渋みと果実味が、鼻腔を心地よく突き抜けた。
私は視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚――そのすべての五感を使って、金で買える限りの贅沢を貪り尽くしていた。
全財産を国に支払い、身辺整理を終えた者だけが搭乗を許される、最高のワンウェイ・フライト。
これほどの特別扱いを受けられるのなら、生涯をかけて築き上げた資産のすべてを捧げた甲斐があったというものだ。
その時、機内に優雅なバッハの旋律が流れ、心地よいチャイムの音が響いた。
『ピンポンパンポン――。乗客の皆様、お時間の3分前となりました』
私はそっと目を瞑り、背もたれに頭を預けた。
不思議と、この世への名残惜しさや未練は微塵もなかった。
十分に味わった。十分に、持てる者としての特権を謳歌した。
薄暗い公営医療施設のベッドで、安価な麻酔薬を打たれて家畜のように眠らされる地上の貧困層とは違うのだ。
自分は今、人生最高のラグジュアリーを噛み締めながら、世界で一番派手に、ドラマチックに死んでいく。
そう、これこそが国が制定した合法的な人生の幕引き――通称「贅沢死」制度の真髄なのだから。
『これより、足元のハッチが開きます。心の準備をお済ませください』
ガガガ、と重々しい油圧式の機械音が足元から響き、シートがゆっくりと後ろ向きにスライドを始める。
次の瞬間、客室の後方から、すべてを吹き飛ばさんばかりの猛烈な突風が室内に吹き荒れた。
髪が激しく乱れ、赤ワインのグラスが床に落ちて砕け散る。
「贅沢死航空をご利用いただき、誠にありがとうございました。お客様の旅路に、永遠の祝福を」
アテンダントが風に負けない声で、胸に手を当てて深く深く頭を下げる。
私は満足げな笑みを浮かべたまま、後ろ向きの姿勢のまま、高度10,000メートルの機外へと、虚空に向かって真っ逆さまに落下した。
轟々と耳を圧する風の風切り音と共に、私の身体は重力に従って落ちていく。
突き抜けた雲海の向こうから、眼下に広がる広大な緑の草原が、猛烈な勢いで視界全体に迫ってきた。
肌を激しく打ち据える圧倒的な突風に顔を歪めながらも、私は心の底から歓喜の声を上げて笑っていた。
地面が、地球が目の前に迫る。
世界が圧倒的な純白の光に染まると同時に――私の意識は、深い、深い闇へと弾け飛んだ。
◇
ピー――――。
冷徹で無機質な電子音が、窓一つない狭いコンクリートの室内に鳴り響いた。
「被験者04号、完全に心停止。バイタル消失しました。これより処理槽へ搬送します」
「お疲れ様。いやあ、それにしてもいつ見ても見事なシステムですね、長官。一分の無駄もない」
白衣を着た若い研究員が、直径二メートルほどの金属製の円筒――『安楽死カプセル』の重厚なハッチを開けた。
中から現れたのは、高級フライトのファーストクラスにいたはずの優雅な乗客ではない。
肋骨が浮き出るほどガリガリに痩せ細り、頭部には電極の繋がった厳重なVRゴーグルを装着され、両腕に無数の点滴用の針を刺された、一人の老人の無惨な遺体だった。
老人が人生の最後に味わっていたのは、脳の味覚野に直接送り込まれたパルスデータと、喉のチューブへ機械的に流し込まれた最低限のゼリー状栄養剤に過ぎない。
「そうだろう」
長官と呼ばれた男は、手元のタブレット端末を冷ややかに操作していた。
画面にポップアップした【資産回収:100%(国庫納付完了/総額24億6000万円)】という事務的な通知を確認すると、満足げに口元を歪めた。
「本当に飛行機を飛ばして一人ずつ高度1万メートルから落としていたら、燃料代も機体のメンテナンス代もかかって仕方がないからな。VRの味覚データのアップデート代なんて、本物のフォアグラやワインの数千分の一だ。この老人の遺産だけで、次世代プログラムの開発費と我々のボーナスが何年分賄えると思う?」
長官が手元のタッチパネルを雑にタップすると、カプセルの足元で唸りを上げていた大型送風マシンのプロペラが、ヒュンヒュンと音を立ててゆっくりと停止した。
ただそれだけの演出で、老人の脳は時速数百キロの自由落下を本物だと誤認したのだ。
白衣の男が、老人の頭部から手慣れた動作でVRゴーグルを引き抜く。
血の気の引いた老人の頬には、カプセルの人工的な風に乾かされかけた、一筋の、満足げな涙が光っていた。
長官は老人の遺体には目もくれず、背を向けて歩き出す。
「さあ、処理を急げ。次の『特等席』の客がロビーで待っている。まだまだ国民から、最後の最期まで搾り取るぞ」




