ラスト・オーダー
その店は、マスターが一人で切り盛りする小さな酒場だった。
表通りから一本入った路地は、いつも暗い。
そこかしこにガラクタが散乱しており、足元を照らさなければまともに進めないほど荒れていた。
二つ目の角を右へ、さらに三つ目の角を左へ。
ひっそりと佇む三階建ての建物の、入口横にある地下階段を下りる。
看板すら出ていないそこは、知らなければ誰も酒場だとは気づけない場所だった。
重い扉を「ぎぃ」と開ける。
店内は静まり返っており、耳をすますと、どこか遠くでかすかな低音がハミングしているのが聞こえるだけだった。
カウンターの奥から、マスターが声をかけてくれた。
「いらっしゃい」
「今日は暑いね。とりあえず、ビール頂戴」
「かしこまりました」
マスターは、どこかぎこちない、硬さの残る所作で冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、グラスになみなみと注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう。最近はどう?」
「相変わらず、よくは、ないですよ。直に……この店も、畳まないと、いけないかも、しれません」
「そんなこと言わないでよ。まだまだやれるでしょ」
そう言いながら、グラスの冷たい液体をあおった。
この店を見つけてから半年ほどになるが、俺はここをひどく気に入っていた。
ほかに誰もいないカウンターに座り、マスターと他愛のない世間話をして、日々の疲れを癒やす。
荒れ果てたこの街で、ここだけが俺の唯一のオアシスだった。
そのマスターが、少し前から店じまいを考えているという。
理由は「体にガタが来ているから」らしく、もう長くは保たないとのことだった。
最後まで店を続けたいが、いつまで動けるか分からない、と。
「この場所を見つけられたのは奇跡だったよ。なんでまた、こんな人目のつかない場所に店を出したんだ?」
「昔は、この路地裏にも、たくさんの……人が、いたんですよ。そういった、方々の、憩いの場に、なればと、思いましてね」
「今じゃ想像もつかないな」
自分でグラスにビールを注ぎ、また一気に飲み干す。
「なあ、マスター。俺、これからどうしたらいいかな。もう、生きていく自信がないよ」
「そう、ですね。それでも……あなたは、まだまだ、お若い、のですから。顔を上げて、歩き続けるしか、ないですよ」
「そうだよなあ……」
分かっている。立ち止まったところで、何も始まらない。けれど、こんな世界で、どうやって……。
「そろそろ……時間の、よう、です」
「そうか……。今まで、ありがとう」
「こちら、こそ。ありがとう、ござい、まし、た――」
マスターの言葉が途切れると同時に、それまで店を包んでいた微かな駆動音が、ぷつりと途絶えた。
途端に、マスターの身体からすべての力が抜け、不自然な角度で動きを止める。
とうとう、最後の充電が切れたらしい。
俺はグラスを置き、静まり返った店を後にした。
また新しいオアシスを探しに、俺は一人、冷たい闇の中へ歩き始めた。




