鵺、都に墜つ
黒雲。
都の空を覆うそれは、まるで夜そのものが地上へ落ちてきたようだった。
風が止まる。鳥が鳴かない。人の声だけが不自然に遠ざかる。
ヒョーヒョー。
細く鋭い鳴き声が、空間そのものを震わせた。
それは耳で聞く音ではない。骨の内側に直接響いてくる“嫌な予感”だった。
◆
「……あれを全部、氷漬けにすればいいのね」
雪桃は静かに一歩踏み出した。
掌にはすでに白い冷気が集まり、空気が軋むように震えている。
彼女の目は真っ直ぐ黒雲を見ていた。
「一気に終わらせる」
その声は静かだったが、迷いはない。
◆
だがその瞬間、世界がずれた。
雪桃の視界に、新右衛門が映る。
その隣に見知らぬ女が立ち、さらに別の娘が笑いかける。
また別の女が彼の袖を引く。
「……え?」
それは戦場ではない。未来でもない。
しかし“感情だけが現実として流れ込む幻”だった。
新右衛門が、自分ではない誰かと笑っている。
守るべき言葉を、他の誰かに向けている。
「嘘……」
胸が締め付けられる。冷気が揺らぎ、形を崩しかける。
◆
一方、新右衛門。
ヒョーヒョーという鳴き声を聞いた瞬間、視界が黒く沈んだ。
(これは……ただの妖ではない)
(精神に入り込んでいる)
メディアの笑み、西方の戦場、崩れる都、倒れる自分。
さらに深く、幼い日の記憶。母の死。静まり返った家。誰の声も届かない夜。
(またか……)
心の奥の孤独が引きずり出され、身体が動かない。
◆
「捕縛陣!」
安倍泰親の声が響く。
式符が空に舞い黒雲へ絡みつくが、雲が揺れ術が空を掴む。
「位置が定まらぬ……!」
「雲そのものが移動しておるのか!」
ヒョーヒョー。
鳴き声のたびに都の空気が重くなる。
◆
その時だった。
「まったく、これだから最近の奴らはダメなんだ」
赤い前掛け、巨大な斧。金太郎だった。
「何か策はあるのか?」
泰親が問う。
「俺もかつての英雄だ。黙ってみてろ!」
「おい、ここは帝のお屋敷だぞ、変なことするなよ!」
「細けぇことはいいんだよ!」
◆
金太郎は壺を開けると、中からくさやを取り出す。
鼻を洗濯ばさみで挟み、七輪に火を起こす。
空気が一瞬で“壊れる”。
「……っ!!」
新右衛門が目を見開く。
ヒョーヒョーの音が乱れ、黒雲が揺れた。
「効いてるぞ」
金太郎が笑う。
「臭いってのはな、生き物の集中力をぶっ壊すんだよ」
◆
黒雲が地へ落ちる。
「今だ!!」
「ハチマン、噛みつけ!!」
「ん……!!」
ハチマンは白目で倒れている。
「おいら鼻が効きすぎるんで、この臭いは死ぬ!!」
◆
「くっさ!!」
その一言で雪桃が正気に戻る。
「……やっぱり、嫌な予感は的中したわ」
冷気が戻り、空間が凍結する。
黒雲の動きが止まる。
◆
「今だ」
新右衛門が刀を抜く。
鬼切丸。
一閃。
氷ごと黒雲を断ち切る。
◆
静寂。
ヒョーヒョーという音は消えた。
黒雲も消えた。
◆
「……終わったのか?」
泰親が呟く。
金太郎は腕を組む。
「まぁこんなもんだな」
「いや、あなたがいてくれて本当に助かった」
◆
夜。泰親の屋敷。
「おい、桃太郎の娘っ子、俺がいてよかったろ?」
「ええ、まあ……」
雪桃はぐったりしながら、面倒くさそうに返事する。
新右衛門は茶を飲み、ハチマンはまだ鼻を押さえている。
「今日おいら何もしてないんですけど!!」
「今回は金太郎さんのおかげだな」
新右衛門は雪桃とハチマンを見て微笑んだ。
「なんか、スッキリしない!!」
雪桃はぷいと新右衛門から顔を背ける。
◆
新右衛門は静かに空を見た。
鵺は倒れた。
だが都の奥では――次の影が、すでに動き始めていた。




