山女の誘惑と要石の心
山。
霧の奥に、ひとつの屋敷があった。
人里から離れたその場所は、異様なまでに整っている。
花。
湯。
食事の香り。
すべてが“人間の理想のもてなし”の形をしていた。
◆
「ようこそ」
山女は微笑んだ。
白い肌。
柔らかな声。
だがその目だけは、獲物を測る狩人のそれだった。
「ずっと待っていましたよ」
「山は退屈でしてね」
「久しぶりの“男の人”です」
◆
新右衛門は静かに一礼する。
「手紙の件で参りました」
「ええ、もちろん」
山女はすぐに答える。
そして自然な動作で距離を詰めた。
「まずは温まってくださいな」
「旅の疲れもあるでしょう?」
◆
湯。
酒。
食事。
すべてが過剰なほど用意される。
そしてそのすべてが、“逃げ場のないもてなし”だった。
「どうかしら?」
山女は笑う。
「少し休まれたら?」
「夜も、ゆっくりできますよ」
その声には明確な誘惑が混じっていた。
◆
だが――
新右衛門は一切揺れなかった。
「申し訳ないが」
「目的を果たす必要がある」
「魔女メディアの討伐」
「そして、雪桃との約束だ」
淡々とした声。
感情の揺れがない。
◆
山女は少し目を細める。
「……ふぅん」
「真面目ですねぇ」
そして距離をさらに詰める。
「でもね」
「男の人って、疲れているときほど――」
◆
「触るでない!」
即答。
山女の言葉を途中で切る。
◆
沈黙。
山女の動きが止まる。
◆
再び仕掛ける。
夜。
香り。
静寂。
そして“孤独”。
「ひとりでは、寂しくないですか?」
「誰もいませんよ?」
「ここは山ですから」
◆
「要らぬ!」
新右衛門は即答した。
「これしきの誘惑に負けるようでは、メディアには勝てぬ」
「幼き頃より、孤独には慣れているしな」
「……それに」
少しだけ間を置く。
「待っている者がいる」
◆
山女の目が細くなる。
「……ふぅん」
◆
何度誘っても、揺れない。
甘言にも、距離にも、沈黙にも。
新右衛門はまるで――
鹿島神宮の“要石”のように動かない。
◆
(……何、この男)
山女の中に、初めて“違和感”が生まれる。
◆
そして気づく。
腰に下げられた刀。
「それ……」
山女の声が変わる。
「鬼切丸」
空気が一瞬で冷える。
◆
山女は一歩下がった。
「……なるほど」
「源頼光の名刀」
「それを持っているのね」
その瞬間、理解する。
(この男、ただの人間じゃない)
(“切れる側”の人間だ)
◆
新右衛門は静かに言う。
「この刀は」
「人ではなく、理を断つためのものだと聞いている」
「無駄に振るうつもりはない」
◆
山女は沈黙する。
そして――
ふっと笑った。
「……降参ね」
◆
「合格です」
「え?」
新右衛門が眉を動かす。
◆
山女は肩をすくめた。
「最初から殺すつもりなんてありませんよ」
「雪女様の手紙に、ちゃんと書いてありましたから」
「“試せ”って」
◆
そして続ける。
「ただね」
「もしあなたが軽い男だったら」
「精力を使い果たさせてから食べようと思ってました」
「正直に言うとね」
◆
あまりにも淡々とした物騒な告白。
新右衛門は一瞬黙る。
「……そういう試練だったのか」
「ええ」
「でも残念」
山女は笑った。
「あなた、まったく揺れないんだもの」
◆
◆
数日後。
遠野へ戻る道。
新右衛門は無事に帰還する。
◆
雪女の里。
母雪女は静かに結果を聞いた。
「……山女を退けたか」
「はい」
「一切乱れず?」
「はい」
沈黙。
◆
「……そうか」
そして小さく息を吐く。
「ならば認めよう」
◆
雪桃の目が見開かれる。
「ほんと……?」
「ただし」
母雪女は続ける。
「娘を連れて行く以上、覚悟は持て」
「娘に何かあったら……」
「氷漬けじゃ」
◆
そして雪桃を見た。
「雪桃」
「はい……」
「お前も雪女ならば」
「好きになった男は絶対に落とせ」
「いいか?」
「え?」
「特に、あの三人の娘たちになど取られるでないぞ」
「絶対じゃ!」
◆
雪桃の顔が一気に真っ赤になる。
「ママ~! もう~~!!」
雪玉を投げそうな勢いで叫ぶ。
だがその頬は、明らかに熱かった。
◆
新右衛門はその様子を見て、わずかに目を細める。
(母親とはよいものだな……)
そして静かに空を見上げた。
その先には――
次の戦いの気配が、確かに漂っていた。




