遠野の雪女と山女の試練
遠野。
その地に足を踏み入れた瞬間、新右衛門は空気の違いを感じ取った。
冷気というより、“静寂そのもの”が形を持っているような土地だった。
音が遠い。
風さえも慎重に吹いている。
◆
雪に覆われた集落が見えてくる。
その瞬間だった。
「おかえりなさい、雪桃ちゃん!」
「まぁまぁ大きくなって!」
「相変わらず可愛いわねぇ!」
あちこちから声が飛ぶ。
十人の姉たち。
そして遠野の雪女の里の女たちが、一斉に雪桃へ駆け寄った。
「ちょ、ちょっと……押さないで!」
雪桃はあっという間に人だかりに埋もれる。
「ずっと帰ってこないから心配してたのよ!」
「人間の男と旅してるって聞いたけど?」
「元気そうでよかったわぁ~」
ハチマンがぽつりと呟く。
「完全に実家ですね、これ」
◆
一方その少し離れた場所。
新右衛門は奇妙な視線を感じていた。
雪女の里の女たちが、明らかにこちらを観察している。
「……あれが?」
「あら、いい男!!」
「なんか気品があって田舎の男とは違うわね」
「都武士って感じがするわ」
「雪桃ちゃん、目が高いわねぇ」
「違います!!」
雪桃の声が埋もれる。
◆
その空気を断ち切るように、気温が一段落ちた。
「……雪桃」
声と共に現れたのは、一人の雪女。
他とは明らかに格が違う。
その場にいるだけで、空気が凍る。
雪桃の母だった。
◆
「ママ……」
雪桃が小さく呟く。
母雪女の視線が新右衛門に向く。
「そなたが、新右衛門か」
「はい」
即答。
迷いのない声だった。
それが逆に、静かな圧を呼ぶ。
◆
「魔女討伐の旅じゃと?」
「そのような危険に、娘を連れ回しておるのか」
声は静かだが、確実に冷えていく。
「場合によっては――」
「氷漬けにしてもよいのう」
「ママ、やめてぇぇ!!」
雪桃が飛び出す。
新右衛門の前に立ち塞がる。
◆
「これはこの人のせいじゃない!」
「私が勝手についていってるだけだから!」
「守られてるとか、そういうのじゃないから!」
「勘違いしないで!」
勢いのある言葉。
だがその声は、わずかに震えていた。
◆
新右衛門はその背中を見つめる。
「雪桃……」
「黙ってて!」
即座に返される。
拒絶の言葉。
だが、彼女は一歩も退かない。
むしろ、庇うように立っていた。
◆
母雪女はその様子をしばらく見つめていた。
そして、ふっと息を吐く。
「……そこまで言うならば」
空気が変わる。
「試練じゃ」
◆
差し出されたのは一通の手紙だった。
「これを、山女へ届けよ」
「山女……?」
ハチマンが小声で呟く。
「あれ、嫌な予感……」
◆
母雪女は続ける。
「ただし」
「雪桃とその犬は同行を許さぬ」
「そなた一人で行くのじゃ」
「そして無事に戻ってこい」
「それができたならば」
「娘との旅を認めてやろう」
◆
一瞬、空気が止まる。
新右衛門の視線が揺れる。
(危険だ)
(雪桃を巻き込む必要はない)
◆
「……ふざけないで」
雪桃が再び声を上げた。
「私が勝手についていってるって言ってるでしょ!」
「この人のためとか、そういうのじゃないから!」
「勘違いしないでって言ってるの!」
いつもの強がり。
だが、その声は確かに震えていた。
◆
新右衛門は静かに雪桃を見る。
「雪桃」
「……なに」
「行く」
「は?」
「これは試練だろう」
「それに其方が居ないと俺も少し寂しいかな……」
「案ずるな、必ず戻る」
◆
沈黙。
雪桃は一瞬言葉を失う。
「……もう、勝手にすれば」
それだけ言って、顔を背けた。
だがその耳は、わずかに赤かった。
◆
母雪女はそれを見て、わずかに目を細める。
「……面白い男じゃのう」
◆
◆
翌朝。
山道。
新右衛門は一人で歩いていた。
背には一通の手紙。
行き先は山女の棲む山。
人が戻れぬと噂される場所。
◆
(雪桃を巻き込まない)
(それでいいはずだった)
だが足取りは重かった。
◆
一方、遠野。
雪桃は山の方向を見ていた。
「……バカ」
小さく呟く。
「ほんとにバカ」
◆
◆
山。
霧が濃くなる。
音が消える。
境界が曖昧になる。
そこはすでに、人の領域ではなかった。
◆
「ようこそ」
女の声。
背後から。
振り返ると、そこに一人の女が立っていた。
白い肌。
柔らかな微笑み。
だがその目だけが異様に“熱い”。
◆
「山女だ」
女は新右衛門を見つめる。
「手紙、確かに受け取りましたよ」
一歩、近づく。
空気が変わる。
甘い。
危うい。
◆
「ようこそ、山へ」
「ずっと……待っていたの」
その声は、優しさと同時に――
逃がす気のない“狩り”の気配を含んでいた。




