温泉宿の蛇女将
伊吹山を越えた新右衛門たちは、さらに東へ進んでいた。
山道には温かな湯気が漂っている。
硫黄の匂い。
白く煙る谷。
雪桃が鼻をひくつかせた。
「……温泉?」
「ああ、この辺りは箱根に近い」
新右衛門が答える。
「湯場が多い土地だ」
するとハチマンが耳をぴんと立てた。
「つまり!」
「温泉回ですね!!」
「なんだその言い方は」
「読者サービス回です!」
「其方はブレないな……」
だがその時。
木々の奥から、灯りが見えた。
山間に建つ、大きな温泉宿。
看板には――
『蛇乃湯』
と書かれている。
◆
「いらっしゃいませぇ」
宿へ入った瞬間。
艶っぽい声が響いた。
現れたのは、長い黒髪の美女だった。
赤い着物。
妖艶な目元。
どこか人ではない気配。
そして新右衛門は気づく。
「……妖か」
女はにっこり笑った。
「ええ」
「元・大蛇です」
「さらっと言うな」
ハチマンが引いた。
だが女将は気にせず笑う。
「昔ねぇ、足柄山でちょーっと暴れてたら、桃太郎さんたちに退治されちゃって」
雪桃が嫌な予感を覚える。
「……どうやって?」
すると女将は遠い目になった。
◆
「最初はねぇ、抗議活動だったの」
「抗議?」
「そう」
女将は指を折りながら説明する。
「“自然を返せー!”」
「“大蛇反対ー!”」
「“小動物を守れー!”」
「って」
新右衛門は真顔になった。
「何をしているんだ桃太郎殿は……」
「しかも三日三晩続いたのよぉ?」
「眠れなくて眠れなくて……」
女将は肩を落とす。
「それでキレて出ていったら、そのまま灼熱温泉に沈められたの」
沈黙。
「……」
「……」
「……」
雪桃は静かに額を押さえた。
「……なんか、すいません」
「いいのよぉ」
女将は苦笑する。
「今ではこうして宿やってるし」
「むしろ温泉の効能に詳しくなったわ」
「トラウマを商売に変えてる……」
ハチマンが震えた。
◆
その後。
一行は宿へ泊まることになった。
すると女将が、じーっと雪桃と新右衛門を見る。
「……?」
雪桃が首を傾げる。
女将はにこぉっと笑った。
「若いっていいわねぇ」
「え?」
「旅先で温泉デートなんて」
「ぶっ」
雪桃が吹きかける。
「ち、違――」
「照れなくていいのよぉ」
「違う!!」
雪桃の顔が真っ赤になる。
だが女将は完全に勘違いしていた。
「はい、混浴露天の札どうぞ♪」
「待って」
「若い恋人さん向けの一番景色のいい場所だから♪」
「だから違――」
「遠慮しなくて大丈夫よぉ♪」
◆
数十分後。
雪桃は露天風呂の岩陰に沈んでいた。
「…………」
湯気。
月明かり。
静かな山の音。
そして向こう側には――
新右衛門。
湯につかりながら、気まずそうに空を見ている。
「……すまん」
「謝らないで」
「だが……」
「謝られる方が恥ずかしいから」
「……そうか」
気まずい沈黙。
ハチマンだけは元気だった。
「いやぁ~絶景ですねぇ!」
「ハチマンはなんで平然としてるんだ」
「犬ですから!」
「はは、其方はおもしろいな……」
雪桃は顔を隠すように湯へ沈む。
(なんでこうなるの……)
しかも。
新右衛門は湯で濡れたせいで、いつもより妙に色気があった。
鍛えられた肩。
無駄のない身体。
都武士らしい上品さと、坂東武者らしい荒々しさが混ざっている。
(……見ない)
(見ないって決めた)
なのに視線が行く。
最悪だった。
一方、新右衛門も困っていた。
(雪女の娘とは聞いていたが……)
(美しすぎるだろう……)
白い肌。
濡れた黒髪。
ほんのり赤い頬。
湯気越しに見える姿は、まるで雪の精そのものだった。
新右衛門は慌てて視線を逸らす。
その反応を見て。
雪桃は少しだけ、胸の奥がくすぐったくなった。
◆
そして夜。
「はい、お部屋はこちら♪」
女将が襖を開ける。
布団。
二組。
ぴったり隣同士。
雪桃が固まった。
「……え?」
「だって若いんだから、夜のお楽しみも旅の目的なんでしょ?」
「違うから!!」
「またまた」
女将は袖を口元にあて笑う。
「他のお客さまに迷惑にならない程度に楽しんでってね!?」
「違います!!」
「では、おやすみなさいませ!」
そういって、女将は襖を閉めて受付に戻っていった。
◆
部屋を変えてもらおうにも、宿は大盛況で既に満室。
結局、そのまま泊まることになった。
雪桃は布団へ潜り込み、完全に固まっていた。
(近い)
(近い近い近い)
隣には新右衛門。
障子の向こうでは虫の音。
静かな夜。
だが雪桃の心臓だけがうるさかった。
一方、新右衛門は気を遣っていた。
「……眠れぬか?」
「っ!」
雪桃がびくっとなる。
「ね、寝れるし」
「そうか」
「そっちは?」
「慣れている」
「慣れてる?」
「野宿も多かったのでな」
新右衛門は静かに笑う。
その声が、妙に優しかった。
雪桃は少しだけ落ち着く。
「……武士って大変なんだ」
「ああ」
しばらく沈黙。
やがて新右衛門は、ぽつりと語り始めた。
「母が、幼い頃に病で亡くなった」
雪桃が目を瞬く。
「……」
「父と家臣たちに育てられた」
「武士として厳しくな」
静かな声だった。
「朝は剣」
「昼は学問」
「夜は礼法」
「遊ぶ暇などなかった」
「……大変そう」
「まぁな」
新右衛門は少し笑う。
「だが東国の武士は、そういうものだ」
「都へ出た時は苦労した」
「言葉遣いだけで田舎者扱いされたのでな」
「……今は都会っぽいのに」
「努力した」
「そうなんだ」
雪桃は小さく笑った。
そして気づく。
自分が、自然に会話していることに。
最初は変な侍だと思った。
真面目で。
不器用で。
でも。
誰かを守ろうとして。
まっすぐで。
少し優しい。
雪桃は布団へ顔を埋めた。
(……眠れない)
心臓がうるさかった。
◆
翌朝。
食堂。
ハチマンは元気いっぱいだった。
「温泉最高でしたね!!」
「ああ、よく眠れた」
新右衛門も爽やかである。
そこへ女将が笑顔でやって来た。
「ふふっ、よく眠れた?」
「はい!」
「いい湯でした」
「そう、それなら――」
女将は雪桃を見た。
「……あら?」
雪桃は死んだ目をしていた。
目の下にうっすら隈。
「まさか、寝かせてもらえないほど、楽しんじゃったの?」
「……ち、違います」
女将はにやぁっと笑う。
「ふふっ、でも驚いたわぁ」
「雪女が人間の男と旅しているなんて」
「さすがは好き者妖怪……、あらこれは失礼。ごめんなさいね。」
「っ!?」
雪桃の顔が一気に赤くなる。
「そ、そういうんじゃ――」
「はいはい♪」
完全に面白がられていた。
◆
その後。
一行は足柄山を後にする。
東へ続く山道。
すると前方から、大声が響いた。
「おおー!!」
「なんか桃太郎の娘じゃねぇかー!!」
巨大な影。
赤い前掛け。
筋骨隆々。
金太郎だった。
「げっ」
雪桃が即座に足早になる。
「どうした?」
「……あいつ、親父と同じ匂いがする」
「それは逃げたくもなるな」
新右衛門は苦笑した。
だが金太郎は満面の笑みで駆け寄ってくる。
「おお! 雪女ちゃんの娘か!」
「桃太郎元気か!?」
「え、まあ、はい……」
「そうか、それはよかった。ガハハハハ!!」
山へ笑い声が響く。
こうして一行は、新たな出会いを重ねながら、さらに東国への旅を進めていくのだった。




