スカラの涙
翌朝。
一行はナポリの港を出航した。
目指すはギリシャ。
アテネ。
英雄ペルセウスの待つ都である。
青く広がる海を見ながら、雪桃は手すりにもたれていた。
「どうした? 気分でも悪いか?」
後ろから新右衛門が声をかける。
「別に……、なんでもないわよ」
雪桃はぶっきらぼうに答えた。
正直なところ。
気分はあまり良くない。
理由は船酔いではない。
後ろで石桃が新右衛門に薬草茶を渡しているからである。
「まだ毒が残っているかもしれませんから」
「助かる」
「無理しちゃ駄目ですよ?」
にこり。
石桃が笑う。
(むぅ……)
雪桃は視線を逸らした。
あの娘は自然すぎる。
自然に新右衛門の隣にいる。
自然に気遣う。
自然に可愛い。
(勝てる気がしない……)
昨日に続き、そんな言葉が頭をよぎる。
◆
昼過ぎ。
ソフィアが海図を広げた。
「そろそろ問題の海域だ」
「スカラか」
ランスロットが頷く。
石桃も真剣な表情になる。
「本来ならヘラクレスに討伐されたはずなんだけど……」
「復活したのよね」
雪桃が言う。
石桃は頷いた。
「海神ポルキュスが」
「死んだ娘を諦められなかった」
「魔法の松明で焼き、神の息吹を吹き込んで蘇らせたそうよ」
ハチマンが耳を伏せる。
「親心は分かりますけどねぇ……」
「結果的に迷惑です」
「でも……」
雪桃は小さく呟く。
「少し気持ちは分かる」
雪女の母なら。
桃太郎なら。
きっと同じことをする。
そんな気がした。
◆
その直後だった。
ゴゴゴゴゴ……
海面が揺れた。
「なっ!?」
騎士たちがざわめく。
海の真ん中から岩がせり上がる。
いや。
島だ。
小さな岩山のような島が突然現れたのである。
「まずい!」
ソフィアが叫ぶ。
「船が引っ張られている!」
見えない力。
強烈な魔力。
船は島へ向かって流され始めた。
「来たか」
新右衛門が刀に手をかけた。
◆
船が接近した瞬間。
新右衛門は島に飛び移った。
「新右衛門!?」
雪桃が叫ぶ。
しかし止まらない。
岩場へ着地。
その直後。
巨大な怪物が姿を現した。
無数の牙。
長い首。
獣と女が混ざった異形。
スカラだった。
「グオオオオオオッ!!」
咆哮。
だが。
「遅い」
新右衛門が踏み込む。
雷光が走った。
ザンッ!!
スカラの腕が飛ぶ。
「ギャアアアアア!」
さらに一閃。
さらに一閃。
怪物は為す術もなく追い詰められていく。
ヒュドラとの死闘。
キルケーとの戦い。
武御雷神の修行。
今の新右衛門にとって、スカラはそれほどの強敵ではなかった。
◆
「終わりだ」
刀が振り上げられる。
その時。
「待って!!」
雪桃だった。
新右衛門が止まる。
「どうした?」
「その子を殺さないで」
「何故だ」
声が硬い。
「だって……」
雪桃はスカラを見る。
怪物。
だが。
かつては普通の少女だった。
「だって、この子も被害者じゃない!」
「被害者?」
新右衛門の眉が動く。
「この女は罪なき船乗りを何人も殺した」
「今ここで止めねば、また犠牲者が出る」
「ちょっと待ってよ!」
「放置すればまた犠牲者が出る」
新右衛門は一歩も引かない。
珍しかった。
普段なら雪桃の意見を聞く男である。
しかし今回は違った。
「これは、致し方なきっこと」
「人々を守るためだ、斬る」
雪桃も負けじと睨み返す。
「じゃあ聞くけど」
「なんだ」
「もし私が雪女として」
「お母さんの若い頃みたいに人間を襲うようになったら」
空気が止まった。
「その時は私も斬るの?」
新右衛門は固まった。
困ったように目を逸らす。
「極端なことを言うな……」
「答えられないんだ」
「お前とこの女は違う……」
「同じよ! 私だって妖だもん、人間の新右衛門には私たちの気持ちはわからない」
険悪になる二人。
騎士団も。
ソフィアも。
ランスロットも。
ハチマンも。
誰も口を挟めない。
そして。
当のスカラまで。
「……?」
呆然としていた。
◆
そんな空気を破ったのは。
石桃だった。
「はい」
ころん。
団子を一つ差し出す。
「ママのレシピの試作品」
スカラがきょとんとする。
「食べる?」
「え?」
恐る恐る口へ運ぶ。
もぐもぐ。
次の瞬間。
怪物を覆う禍々しい魔力が消えていった。
「これは……」
スカラが震える。
「頭が……すっきりする……」
正気が戻ったのだ。
◆
「ありがとう」
スカラは雪桃を見た。
涙を流しながら。
「私を庇ってくれた人なんて初めてだった」
雪桃は何も言えない。
「本当は……」
「苦しかった」
「止めたかった」
「でも止められなかった」
涙が落ちる。
長い年月。
怪物として生きてきた苦しみ。
それが伝わってきた。
「でも」
スカラは微笑む。
「もう終わりにする」
「え?」
近くの騎士の剣を奪い取る。
「待ちなさい!」
雪桃が叫ぶ。
だが遅かった。
「私は許されない」
胸へ剣を突き立てる。
鮮血。
そして。
「ありがとう」
スカラは海へ身を投げた。
◆
海面に波紋が広がる。
誰も動けなかった。
静寂。
風の音だけが響く。
雪桃は海を見つめる。
胸が痛かった。
助けたかった。
だが。
(半分は……)
石桃を見る。
新右衛門と仲良くしていた姿。
楽しそうな笑顔。
(イライラしてただけなのよね……)
認めたくない本音だった。
一方の新右衛門も複雑だった。
確かにスカラは危険だった。
だが。
「人間の新右衛門には私たちの気持ちはわからない」
雪桃の言葉だけが頭から離れない。
自分は雪桃のことを理解できていなかったのだろうか。
そんな考えが胸の奥に残っていた。
◆
船は再び進み始める。
アテネへ向かって。
ペルセウスの待つ都へ向かって。
しかし。
いつも隣にいる雪桃と新右衛門は。
今日は少しだけ距離があった。
誰も何も言わない。
夕日に染まる海だけが静かに揺れていた。
こうして一行は。
わずかなわだかまりを抱えたまま、
アテネへの航路を進むのだった――。




