英雄ペルセウスの教え
アテネへ到着したのは、スカラとの一件から二日後のことだった。
白い大理石の神殿群。
青く輝くエーゲ海。
歴史ある石畳の街並み。
都全体がまるで神話の中にあるようだった。
「ここがアテネ……」
ハチマンが感嘆の声を漏らす。
「すごいですねぇ」
「綺麗な街ね……」
雪桃も周囲を見渡した。
だが。
気持ちは晴れない。
隣にいる新右衛門ともほとんど会話がない。
スカラの件以来だった。
互いに何を話せばいいのか分からない。
そんな状態が続いている。
◆
港では一人の老人が待っていた。
銀髪。
鋭い眼光。
歴戦の戦士だけが持つ重圧。
その姿を見た瞬間。
新右衛門は息を呑んだ。
(この人は強い……)
武人の本能が告げる。
この老人は。
自分がこれまで出会った誰よりも強い。
「無事に帰ったか、石桃」
老人は穏やかに笑った。
「ただいま戻りました、お師匠さま」
石桃が頭を下げる。
英雄ペルセウス。
かつてメデューサを討伐したギリシャ最大級の英雄だった。
「ほう」
ペルセウスが新右衛門を見る。
「お前が橘新右衛門か」
「はい」
「なるほど、なかなか良い面構えをしている」
「桃太郎とはまた違う魅力がある」
ペルセウスは笑った。
「桃太郎よりもよい男だな」
「いえ、そんなことは……」
新右衛門は苦笑した。
◆
その後。
ランスロットたちはアテネ聖騎士団への挨拶へ向かうことになった。
「数日後に正式な会談がある」
ランスロットが言う。
「それまではペルセウス殿の世話になれ」
「承知した」
新右衛門が頷く。
ソフィアも雪桃を見た。
何か言いたそうだったが。
結局何も言わなかった。
「また後でな」
こうして騎士団は別行動となった。
◆
ペルセウスの屋敷はアテネ郊外にあった。
広い庭園。
訓練場。
書庫。
そして数多くの英雄譚の記録。
桃太郎一行が喜びそうな場所だった。
その日の夕食は豪華だった。
魚料理。
肉料理。
果物。
葡萄酒。
だが。
空気は重い。
雪桃と新右衛門がほとんど話さない。
互いに目も合わせない。
石桃とハチマンが必死に話題を振る。
それでも空気は変わらない。
ペルセウスはその様子を黙って見ていた。
◆
夕食後。
「雪桃」
ペルセウスが呼び止めた。
「少し付き合え」
リビングへ案内される。
暖炉の火が静かに揺れていた。
「新右衛門とは仲間なんだろ?」
ペルセウスが切り出した。
「夕食の時のお前たちを見ていたが、命を預け合う仲間には見えんな」
雪桃は苦笑した。
「そう? そう見える?」
「ああ、あれでは、とても自分の背中を任せられん」
即答だった。
「話してみろ、何があった」
◆
雪桃はスカラの件を話した。
全部。
言い争ったことも。
人間には分からないと言ったことも。
全部。
ペルセウスは黙って聞いていた。
◆
「若い頃の私はな」
やがてペルセウスが口を開いた。
「新右衛門より数倍酷かった……」
「え?」
「怪物は怪物」
「人を襲うなら討つ」
「それが英雄だと思っていた」
雪桃は黙って聞く。
「メデューサに対しても酷いことをした……」
「石桃のお母さん?」
「そうだ」
ペルセウスは苦笑した。
「私は彼女を討った」
「英雄としてな」
暖炉の火が揺れる。
「だが後に桃太郎と出会った」
雪桃が思わず笑う。
「パパ?」
「ああ」
ペルセウスはため息をついた。
「怪物を助けるだの」
「人間に戻すだの」
「馬鹿なことばかり言っていた」
「パパらしい」
「本当に迷惑な男だった」
そう言いながら。
ペルセウスは少し楽しそうだった。
◆
「何度も追い返した」
「顔も見たくなかった」
「だが」
ペルセウスは笑う。
「何度追い返しても奴は訪ねてきた」
「英雄の調査だとか言ってな」
「本当にしつこかった」
雪桃は吹き出した。
「想像できる」
「変わった男だったよ」
ペルセウスは肩をすくめる。
「だがな」
「いつの間にか」
「私はあいつを嫌いではなくなっていた」
◆
「神話の英雄は善悪で判断する」
「悪なら滅ぼす」
「徹底的にな」
ペルセウスが続ける。
「だが桃太郎は違った」
「完全には壊さない」
「救えるなら救おうとする」
「英雄としては実に滑稽だ」
少し笑う。
「だが、優しかった……」
「暖かかった」
◆
しばらく沈黙。
そして。
ペルセウスが雪桃を見る。
「お前に聞きたいのだが」
「何?」
「お前が危険な時」
「あの若者はどうした?」
雪桃は言葉を失った。
ドラキュラ伯爵。
ヒュドラ。
鵺。
河童。
山女。
思い出す。
いつだって。
新右衛門は自分の前に立っていた。
自分を守るために。
命を懸けて。
「……」
「なるほど」
ペルセウスは静かに頷いた。
「少なくとも」
「あの男はお前を怪物だとは思っていないな」
雪桃は俯いた。
◆
「それとな」
ペルセウスが立ち上がる。
「アテネにはダフネという娘がいる」
「ダフネ?」
「川の神の娘だ」
「いわゆる精霊だな」
雪桃は目を見開いた。
「人間じゃないの?」
「ああ、ダフネは昔、人間の男と結婚していた時期がある」
「え?」
「今夜はもう遅い、話はこれまでだ」
ペルセウスは静かに言った。
「冷静な頭で」
「明日、ダフネを訪ねてお前が気になっていることを聞いてみるとよい」
◆
一方その頃。
庭園。
新右衛門は石桃と夜空を眺めていた。
「お母さまは」
石桃が呟く。
「桃太郎様の話をする時だけ嬉しそうなんです」
「そうなのか」
「ええ」
「怪物になった自分を」
「他の英雄みたいに殺そうとしなかったから……」
石桃は微笑んだ。
「人間に戻そうと必死になってくれたそうです」
「そして、お母さま以外の妖にも優しかった」
◆
「英雄というには……」
石桃は少し笑う。
「かなり変わった人ですけどね」
「そうか……」
新右衛門も苦笑した。
「でも」
「だからお母さまは」
「今でも父を愛しているんだと思います」
◆
しばらく沈黙。
そして。
新右衛門が尋ねた。
「人と妖は」
「共に暮らせるものだろうか」
石桃は少し驚いた顔をした。
そして。
意味を理解したように微笑む。
「さあ」
「どうでしょうか」
それだけ言った。
「遅くなりました、今夜はもう寝ます。おやすみなさい」
石桃は屋敷へ戻っていった。
◆
その夜。
雪桃はベッドの上で天井を見ていた。
(人間の新右衛門には分からない)
昼間の自分の言葉を思い出す。
(あああ、なんであんなこと言ったんだろう……)
胸が少し痛んだ。
◆
別の部屋。
新右衛門も眠れずにいた。
(人と妖は)
(ともに歩むことはできないのだろうか……)
答えは出ない。
だが。
二人とも同じことを思っていた。
もっと相手を理解したい。
もっと知りたい。
その気持ちだけは同じだった。
アテネの夜。
同じ月が静かに二人を照らしていた――。




