眠り続ける侍と魔女の怒り
バチカン。
聖騎士団仮本部。
石造りの宿舎の一室。
そこには、静かな寝息だけが響いていた。
新右衛門は眠っていた。
顔色は青白い。
呼吸も弱い。
ヒュドラの猛毒。
本来なら即死していてもおかしくない傷だった。
だが。
胸元では微かに光るものがある。
鹿島神宮。
物忌み様から授かった護符。
その力が毒を食い止めていた。
「……本当に奇跡だ」
ソフィアが静かに呟く。
手には聖水。
額の汗を拭きながら新右衛門を見つめる。
聖水を傷口へ振りかける。
白い光。
だが。
傷は塞がらない。
「なんとか悪化は止められているが」
「だが回復には向かわない……」
ソフィアは唇を噛んだ。
助ける方法が見つからない。
一方。
宿屋の二階。
雪桃は膝を抱えていた。
「……」
何も言わない。
何も考えたくない。
ただ。
新右衛門が倒れる瞬間だけが何度も頭に浮かぶ。
『其方に当たらなくて……よかった』
「……わたしのせいだ」
ぽつりと呟いた。
「わたしが……」
「わたしが勝って浮かれていたから……」
胸が苦しい。
息が苦しい。
もし。
もしあの時。
毒を受けたのが自分だったら。
その方がよかった。
そう思ってしまうほどに。
雪桃は追い詰められていた。
コンコン。
扉が叩かれる。
返事はない。
すると。
ドガンッ!!
扉が吹き飛んだ。
「開けな!!」
宿屋の女将だった。
「うわっ!?」
雪桃が飛び上がる。
「いつまでうじうじしてるんだい!」
「ここで引きこもってて解決するのかい!」
「……放っておいて」
「まあ、聞きな!」
女将は腕を組む。
「好きな男が倒れたんだろ?」
「っ……!」
雪桃が固まる。
「まず、好きな男の看病を他の女に譲るな!!」
宿屋中に響く怒声だった。
「でも、人間はもろい、一緒にいても、また同じように私だけ生き残ってしまう……」
「いいかい、どちらが先に逝くかは関係ないんだよ」
女将は静かに言った。
「私は旦那に先立たれているからわかるよ」
雪桃が顔を上げる。
「若かった」
「本当に若かった」
女将は窓の外を見る。
「でもね」
「一緒になったことを一度も後悔してない」
雪桃は何も言えなかった。
「未来を怖がるな」
「今を大事にしな」
「人間はいつか死ぬ」
「一日、一日を大事にするんだ」
雪桃の瞳が揺れた。
一方。
新右衛門の部屋。
ハチマンは静かに座っていた。
新右衛門の枕元。
尻尾も動かない。
「……」
いつもなら。
元気いっぱいだった。
だが今は違う。
寝食を共にし、距離感が心地よい新右衛門。
ハチマンはこの旅で完全に新右衛門を主と思うようになっていた。
日本犬の忠実さが、逆にハチマンの心を苦しめた。
でも、新右衛門は目を覚まさない。
だから。
離れられない。
ハチマンはそっと身体を寄せた。
「早く起きてくださいよ……、おいら新右衛門さんの忠犬でいたいです」
◆
その時。
コンコン。
扉が開く。
ランスロットだった。
「話がある」
雪桃とハチマンが振り返る。
「古い伝承だ」
ランスロットは静かに語った。
「この近くの岩山に」
「モーリュという薬草がある」
「神ヘルメスが英雄オデュッセウスに授けたと言われる伝説の薬草だ」
雪桃が目を見開く。
「薬草……!」
「だが」
ランスロットの表情が曇る。
「エキドナが生み出した魔獣」
「スフィンクスが守っている」
「スフィンクスってピラミッドを守っている神獣ではないの?」
「ギリシア神話におけるスフィンクスは、エジプトのピラミッドを守る神聖な守護獣とは異なり、「人を襲う邪悪な女怪」と言われている」
沈黙。
「危険すぎる」
「騎士団も何度か挑んだが失敗した」
だが。
雪桃は立ち上がった。
「行く」
「お嬢」
ハチマンも立つ。
「おいらも行きます」
迷いはなかった。
「新右衛門を助ける」
「絶対に」
ランスロットは静かに頷いた。
◆
一方――。
コルキス。
魔女の城。
エキドナは上機嫌だった。
「ククク……」
「私の生み出した魔獣があの侍を潰したか」
「やはり我が子たちは優秀だ」
高笑いする。
だが。
玉座の空気だけが異様だった。
メディア。
その表情は冷たい。
ここ数日。
ずっと不機嫌だった。
ヒュドラが新右衛門を倒した時から。
理由は自分でもわからない。
だが。
胸の奥が苛立つ。
そして。
エキドナの笑い声が続く。
「愚かな侍だ!」
「女を庇って死にかけるとは!」
その瞬間。
メディアの瞳が細くなった。
「……うるさい」
「ん?」
エキドナが振り返る。
次の瞬間。
ゴォォォォォォッ!!
紫炎。
城を埋め尽くすほどの魔力。
「なっ!?」
エキドナの顔が凍り付く。
「メ、メディア!?」
「あなたはもう必要ない」
静かな声。
だが。
そこに感情はなかった。
「ま、待て――」
ゴォォォォォッ!!
悲鳴すら残らない。
エキドナの身体は炎に包まれ。
灰になった。
静寂。
メディアは窓の外を見つめる。
脳裏に浮かぶ。
毒を浴びながら笑った侍。
『其方に当たらなくて……よかった』
メディアは知らず拳を握った。
「……なぜだ」
「なぜ、こんなにあの若者が心配になる」
そして。
遥か西。
岩山へ向かう雪桃たちの運命が。
再び動き始めるのであった。




