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宮殿襲撃とキルケーの誤算

 玉藻の前の宮殿は、数日間だけ奇妙なほど穏やかだった。


 霧の外では戦乱の気配が絶えないというのに、この場所だけは別世界のように静かで、まるで嵐の目の中にいるかのようだった。


 雪桃ゆきもはその静けさの中で、少しだけ落ち着かない気持ちを抱えていた。


 理由は単純だ。


 桃狐ももこだった。


「新右衛門さん、これお口に合いんすか?」


「……ああ、美味しいよ」


「よかったでありんす。じゃあ今度は――」


 何気ない会話のはずなのに、やけに距離が近い。


 雪桃は湯呑みを持つ手に、ほんのわずか力が入った。


(信じるって決めたのに)


(どうしてこんなに気になるの……)


 雪桃は視線を逸らす。


 新右衛門の隣で笑う桃狐。


 その光景が、なぜか少しだけ遠く感じた。


(あの人は、私のものじゃないのに)


(それなのに……)


 胸の奥が、妙に熱い。


 名前のつかない感情が、少しだけ形を持ち始めていた。


(信じるって、こういうことなのかな)


(それとも……信じたいだけなのかな)


「信じてるつもりなのに……まだ怖い」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 その夜。


 宮殿の空気が、ふっと変わった。


 ざわり、と空間そのものが歪むような気配。


「……来たか」


 玉藻のたまものまえが目を細めた瞬間、天井が裂けた。


 黒い裂け目から、女が一人、ゆっくりと降りてくる。


 「ふふ……噂の女狐の宮殿ってここ?」


 キルケー。


 その女の周囲だけが、異様に“ねじれて”いた。


「お客人かのう」


 玉藻の前は扇子を揺らし、余裕の笑みを浮かべる。


「遊びに来るなら、もう少し礼儀を学んでから来ることじゃの」


 軽い声。


 だが次の瞬間、扇子がわずかに“止まった”。


(……まずいの)


 笑みは崩さないまま、玉藻の視線だけが冷える。


(この“歪み”は……想定より厄介じゃ)


「面白い宮殿ね」


 キルケーはゆっくりと歩き出す。


「獣ばかりじゃない」


 視線が、玉藻の前へ。


 そして、三蔵法師へ。


「お経? そんなものは退屈で眠くなるだけよ」


 三蔵の読経が響く。


 しかし、音はキルケーに届く前に“ほどける”ように消えていく。


「なっ……!」


 孫悟空が飛び出す。


「なら俺だ! 喰らえッ!」


 だが次の瞬間、悟空の攻撃は空を切る。


 キルケーの姿は、そこに“あるのに当たらない”。


「遅いわね」


 その一言だけで、悟空は吹き飛ばされた。


「ふむ」


 玉藻の前は扇子で笑みを隠したまま、軽く肩をすくめた。


「遊びに来るなら、もう少し礼儀を学んでから来ることじゃの」


 その声は軽い。


 だが──扇子の裏で、指先がわずかに止まっていた。


(……来おったか)


(よりによって“あの系統”か)


 宮殿の外で衛兵が崩れていく気配を感じながら、玉藻の瞳だけが冷えていく。


(この場で止めきれなければ……)


(一気に崩されるのう)


 キルケーは周囲を見渡した。


「妖怪、坊主、そして……畜生一匹……」


「ろくなのがいないわね」


 そして視線が止まる。


「……あれは何?」


 新右衛門。


 そこに立つただ一人の人間。


 キルケーの口元が歪む。

 

「ちょうどいいわ」


「あの男を豚にして、小娘の悲しむ顔を見てあげる」


 手がゆっくりと上がる。


「豚になりなさい」


 魔術が放たれ、目の前には豚の顔をした人間がいた


「あの涼し気な美しき若者が醜くなった」


 キルケーは雪桃が悲しむだろうと高笑いした。


 バチィィンッ!!


 光と雷が走り、キルケーの術式が歪む。


 しかし、キルケーが放った魔法が直撃したのは新右衛門ではなかった。


「……え?」


 そこにいたのは、猪八戒。


「お、おい俺かよ!!?」


「ちょっと待てええええええ!!」


 完全に豚化したのは、元から豚顔の妖怪だった。


 キルケーの顔が引きつる。


「なぜ……?」


 その瞬間、彼女は気づいた。


 自分が一瞬だけ見ていた“視線”。


 あの時「畜生」と馬鹿にした一匹の柴犬。


「まさか……」


 ハチマンが静かに言う。


「おいらが二人を入れ替えました!」


 次の瞬間。


 雷が落ちた。


 新右衛門の一閃。


「雷剣・落雷」


「がはッ――!!?」


 キルケーは地面に叩きつけられたまま、口元だけで笑った。


「……なるほどね」


「ただの侍じゃないわけ」


 ゆっくりと身体を起こしながら、髪を払う。


「いいわ。今日は“試験”は合格」


「次は、ちゃんと遊んであげる」


 そう言うと、黒い裂け目の中へと後退していった。


 静寂が戻る。


「……終わったかの」


 玉藻の前が小さく息を吐いた。


 しかしその表情は、まだ硬い。


 その夜、新右衛門は言った。


「ここはもう安全じゃない」


「次は本気で来る」


「俺たちはコルキスへ向かう」


 雪桃は小さく頷いた。


「うん」


 ハチマンも拳を握る。


「ついていきます!」


 翌朝。


 孫悟空たちと別れの時が来た。


「またな、人間!」


「次は俺が勝つからな!」


 騒がしい別れの中、玉藻の前は静かに笑った。


「死ぬでないぞ」


 それだけだった。


 桃狐は雪桃の前に立つ。


「わっちはここで修行しておりんす」


「メディアの時は、必ず行くでありんす」


 そして手を差し出す。


 雪桃はそれを握った。


「……待ってる」


 桃狐はにっと笑う。


「任せるでありんす」


 夜明け。


 一行は宮殿を後にした。


 その背中を、キルケーは遠くから見ていた。


「次は……逃がさない」


 風が、冷たく鳴いた。

挿絵(By みてみん)

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