幻影試練と揺れる想い ―雪桃、信じる心―
桃狐の口づけによって、長く石化していた牛魔王の身体にひびが走った。
「お、おお……これは……!」
バキン、と音を立てて石が崩れ落ちる。
巨体が大地を揺らしながら立ち上がると、牛魔王は深く息を吐いた。
「……戻ったか、わしは」
その横で羅刹女は目を潤ませ、芭蕉扇を握りしめたまま膝をつく。
「牛魔王様……っ!」
駆け寄った羅刹女は、迷いなくその胸に飛び込んだ。
長い戦いの果てのように、ただただ安堵の抱擁だった。
「元に戻れた……」
牛魔王は静かに言う。
「よかった、本当によかった……」
羅刹女は涙を拭いながら頷いた。
「あの桃狐さんのおかげ、もう、メディアと一緒に悪事を働くのはやめます……」
その言葉に、場の空気がふっと軽くなる。
猪八戒が小さく呟いた。
「意外とあっさり更生したな……」
「うるさいわね、この豚妖怪め!」と羅刹女が即座に睨む。
その騒ぎの中、狐耳の少女が一歩前へ出た。
桃狐である。
「話はまとまったみたいでありんすね。では、わっちについて来なんし」
軽い調子でそう言うと、彼女は当然のように一同を先導した。
「え、どこへ?」と雪桃が問うと、桃狐は振り返らずに言う。
「ママのところ」
雪桃は一瞬だけ表情を崩した。
「……玉藻ママ」
「雪桃ちゃん久しぶりでしょ」
その呼び方に、場の空気が少し柔らかくなる。
桃狐は雪桃にとって異母姉妹であり、同時に古くからの知り合いでもあった。
やがて一行は、桃狐の案内で霧の奥へと進む。
山でも海でもない、異界の境界のような場所を抜けると、そこに壮麗な宮殿が現れた。
金と朱と白が混じる異国風の建築。
それは東洋とも西洋ともつかぬ、異文化の結晶だった。
「ここが……」
新右衛門が息を呑む。
桃狐は軽く笑う。
「ママの趣味でありんす」
宮殿の奥へ進むと、そこに女がいた。
玉藻の前。
「久しいの、雪桃」
艶やかな声とともに、豪奢な衣を纏った女が立つ。
刺繍の入った長衣、異国風の装飾、そして金と宝石を惜しげもなく使った装身具。
その姿は神秘と権威を同時に宿していた。
「雪桃、元気だったかい」
「玉藻ママ……」
雪桃は少しだけ肩の力を抜く。
「なぜ今さら大陸で権力争いなんて?」
玉藻の前は静かに歩み寄る。
「理由はひとつじゃ」
「魔女メディアが世界を侵食しておる」
その言葉に空気が変わる。
「奴が日本に手を伸ばす前に、大陸を抑えた」
「人間どもなどどうでもよいが、桃太郎たちとのあの楽しい空間を壊されるのわ我慢ならぬ!」
しかし玉藻の前は小さく目を伏せた。
「じゃが……最近は押され気味じゃ」
その一言に、現実の重さが滲む。
そして視線が雪桃に向けられた。
「そういえば、雪桃、おぬしの戦い方は能力に頼りすぎじゃ」
「まるでなっておらん」
「敵は切れ者、正攻法では勝てぬ相手も増えるぞ」
「少し、わらわが鍛えてやろう。新右衛門という若僧、お主も一緒にな」
そう言うと玉藻の前は、二人の前に杯を置いた。
「飲め」
「え?」
「試練じゃ」
新右衛門、雪桃。
二人は一瞬だけ迷う。
だが新右衛門は静かに飲み干した。
「鹿島で鍛えた心ならば問題ない」
しかし、飲んだ瞬間に新右衛門は不安に襲われた。
鵺と戦った時同様に孤独に襲われる幻想を見ていた。
(俺は孤独……、小さき頃からそうだった……)
しかし次の瞬間――
雪桃とハチマンの姿が脳裏に浮かんだ。
冷たいこといいながらも付いてきてくれる雪桃、そして、会った時から尻尾を全開
いに振って、いつも場を和ますことを言ってくれるハチマン。
(一人ではない……)
新右衛門は鹿島神宮の要石のことを思い出し、心に微動だにしない岩がある自分をイメージした。
新右衛門は静かに目を開け、立ち上がる。
一方の雪桃は混乱していた。
目の前に複数の玉藻の前。
どれが本物かあててみよと自分の周りをグルグル回る。
「な、なにこれ……」
更には今度は桃狐の幻影。
桃狐が小さく笑いながら新右衛門に近づく。
「ねぇ、新右衛門さん……新右衛門さんはわっちの好みでありんす!」
雪桃はその様子を見て、一歩踏み出そうとする。
「ちょ、ちょっと待って……!」
だが身体が言うことをきかない。
「お嬢も新右衛門さんも大丈夫でしょうか……」
ハチマンは心配そうに呟くが、三蔵法師がハチマンの頭をなでて語り掛ける。
「大丈夫です。信じましょう」
ハチマンたちが心配に眺める中、雪桃は幻影を見続ける。
更に、桃狐が新右衛門の隣で楽しそうに話しかけ続ける幻影を見る。
それを見て、雪桃は心が苦しくなった。
(本当は新右衛門も桃狐みたいな子の方が……)
(私みたいに素直じゃない子よりも、桃狐の方が新右衛門も居心地いいに決まってる……)
雪桃はそう思うと、一気に不安が増してきた。
苦しそうな雪桃を見て、先に正気に戻った新右衛門が雪桃に向かって叫ぶ
「信じろ!」
その声が雪桃に聞こえたかどうかはわからない。
しかし、その瞬間、雪桃の脳裏に新右衛門と出会った時から、ここに来るまでの映像が浮かび上がる。
村でいじめられている子を助けた新右衛門。
遠野で山女の試練から戻ってきた新右衛門。
何か嫌なことを言っても、いつも笑顔で優しく返してくれる新右衛門。
その光景を見た雪桃の中で、何かが弾けた。
(新右衛門を信じよう! 出会ったときから彼は変わらない!)
(きっとこれからも同じ……)
雪桃の中で新右衛門への信頼感が生まれ、正気へ戻る。
雪桃は目を覚まし、荒い呼吸のまま、新右衛門を見た。
「私……信じるから!」
玉藻の前はそれを見て、満足そうに笑った。
「よい。二人ともそこまでじゃ!」
新右衛門も雪桃もトラウマを克服したように雲が晴れたような表情をしている。
「……ほんとに信じていいんだよね」
新右衛門を見つめて小さく呟いた雪桃の頬は、まだ熱を持っていた。
「これからの敵は魅了などの精神攻撃もしてこよう! それゆえ、これくらいの耐性はつけておけ!」
玉藻の前そう言って、扇子を口元にあてながら笑った。
「今回使ったのは幻影を見せる秘薬じゃが」
「秘薬といえば懐かしいの~」
「おぬしの母、雪女から頼まれて」
「桃太郎に媚薬を飲ませたことがあっての」
「そのとき発情に負けてしまい」
「その結果、生まれたのが、おぬしじゃ、雪桃」
「……は?」
雪桃の顔が真っ赤になる。
「そんな生々しい話、今、ここでしないでよ!!」
一同が笑いに包まれた。
「……ふう」
玉藻の前が小さく息を吐いた。
宮殿に、ようやく静けさが戻る。
雪桃の胸に残る熱は、まだ冷めていなかった。
――その遥か遠くで、静かに歯車が回り始めることを、この時はまだ誰も知らない。
その頃、遠くの水晶の奥で、何かが動いていた──
水晶玉から雪桃たちの様子を見ていたコルキスのメディア。
「メディア、そろそろあの邪魔な女狐を始末してもよいだろう?」
「叔母さま、女狐やあの小娘は構いませんが、あの男はまだ駒として使いますので」
「まったく、お前は何を企んでいるのか……、あ奴らは私が葬ってやるよ」
メディアに話しかける、異様な気配をまとった女。
彼女の名は『キルケー』
「神話時代から狂気を司る魔女」
「ふふ……やっと見つけたわ女狐!」
東方の静寂も、戦いの気配へと変わっていくのであった。




