第八話 ひとときの
厨房の昼間は、特に忙しい。
修練を終えた腹ぺこの兵士たちが、次々と食堂に押し寄せてくる。
この前の黒濁の襲撃で数は減ってしまったけど――
それでも厨房は休む間もなく、食事を作り続けなければならないくらい慌ただしい。
俺は、今日の料理のスープを任されていた。
まかない担当から、ちょっと昇格だ。
豚っぽい何かの骨をじっくり煮込んで、少し凝ったスープにしてやろうと思って、朝から仕込んでいた。
鶏ガラよりアクも油も多くて大変だった。
醤油を入れ、ぐるぐるとかき混ぜ、椀に少し取り分けて味を見る。
……うん、ちゃんと出汁が出てる。
麺も打って、ラーメンにしたら面白いかも――
なんて考えていた、その時。
「良い匂いだ」
不意に、両脇から腕が伸びてきて、後ろから抱きしめられた。
誰かなんて、考えるまでもない。
「だから、後ろから来て抱きつくのやめろよ、ヴァルガ」
背中越しに、くすりと笑う気配。
「前からだったら、いいのか?」
「そういうことじゃなくて」
あの夜、俺が想いを打ち明けてから、わだかまりは消えた。
それからヴァルガは、以前のように――いや、前よりも素直に、俺のそばにいたがるようになった。
魔王という立場は思った以上に忙しいらしい。
だから、ほんの少しでも時間が空けば、五分でも、十分でもいいからと顔を出す。
前みたいに、閉じ込められることはない。
あの時の監禁も、正体がばれたら俺に怖がられるかもしれないと思った末の、ひどく不器用な選択だったらしい。
今もこうして、厨房で働くことを許してくれている。
本当は、魔王の番が厨房に立つなんて前代未聞なんだろう。
それでも――
俺は、ここが好きだった。
***
俺たちは庭の東屋に来ていた。
食堂を使うと、魔王であるヴァルガに皆が緊張しすぎてしまうからだ。
出て行こうとした時、料理長がほっとした顔をしていたのを、俺は見逃さなかった。
この東屋は、魔王城らしい物々しいレリーフや、すごい形相の石像が置いてあって、最初は落ち着かなかったが、今ではすっかり慣れた。
リリスとスラ様、ルナと一緒によく来ていて、毎日お茶していた場所だ。
今は目の前にヴァルガがいる。
それが、なんだか不思議な気分だった。
ふとヴァルガの方を見ると、ばちっと目が合う。
にこっと微笑まれて、思わずそっぽを向いた。
——こいつ、ずっとこっち見てたな……
いまだに、この好意ダダ漏れな感じには慣れない。
こんな顔の良い男が、なんで俺なんかを?
でも、前みたいな気まずさや、後ろめたさは、もう感じなくなっていた。
テーブルに保温容器に入れたスープを置く。
そして、別に用意していた麺を取り出した。
城の倉庫にあった粉を使って、なんとなくで打ってみたやつだ。
見事に太さはバラバラだし、ところどころ短い。
正直、正解かどうかも分からない。
「ほら、できたぞ」
湯で上げた麺をスープに入れて、軽く混ぜる。
「ラーメンっていうんだ。
麺から作るなんて、俺も初めてだからさ……形は気にするなよ」
少し気まずく笑うと、ヴァルガはどこか楽しそうに目を細めた。
「見た目など気にしない。晴斗の料理は全部美味い」
その言い方が、妙に優しくて、少しだけ胸がくすぐったくなる。
俺は箸で麺を掬い、ヴァルガの口元へ持っていく。
まだヴァルガは本調子じゃない。
足元は少しふらつくし、腕の痺れも残っているらしい。
このくらい、してやらないとな。
口を開けたヴァルガに麺を運ぶと、
見えない尻尾があれば確実に振られている、というくらい満足そうな顔をした。
「……美味い」
真面目な顔で、噛みしめるように言う。
「晴斗の作る料理は、珍しいものばかりだ」
「お前の世界は、美食に塗れているな」
「……え?」
手が止まる。
「お前の世界……って」
そういえば、ちゃんと話したことがなかった。
「ヴァルガ……俺が転移者だって、知ってたのか?」
ヴァルガはあっさりとうなずく。
「ああ。勇者と共に召喚されたこともな」
奏のことも、知ってるのか。
魔王と勇者は敵同士。
物語の中なら、いつか必ず戦う。
その時は――
一瞬、胸の奥がざわついた。
「あの、俺……勇者の知り合いなんだけど」
言ってから、少しだけ身構える。
でも。
「だからなんだ?」
ヴァルガは平然としていた。
「お前はお前だ。勇者ではない」
迷いのない声だった。
「……まあ、それはそうなんだけど」
「晴斗」
ヴァルガは構わず、口を開けて麺を待っていた。
まるで鳥の雛みたいな様子に、力が抜ける。
深刻になるのが、ばからしくなった。
……奏に会えたら、ちゃんと話せばいい。
今は、それでいいか。
俺はもう一度麺を掬い、口元に近づける。
嬉しそうに啜るヴァルガを見て、小さく笑った。
「魔王様」
背後から声がかかる。
振り向くと、リリスとスラ様が立っていた。
「晴斗様も。お邪魔して申し訳ありません」
二人はこの前の一件から、俺のことを名前で呼ぶようになった。
距離が縮まった気がして、少しだけ嬉しい。
ヴァルガは気にもせず、もぐもぐと麺を咀嚼している。
「わかるなら少し待て。晴斗との大事な時間だ」
甘い声色。
けれど――
「北の結界が緩んでおります。早急に対策を」
スラ様のその一言で、空気が変わった。
ヴァルガの目から、さっきまでの柔らかさがすっと引く。
小さく息を吐き、俺を見る。
「魔王でいると、お前との食事も儘ならない」
……また、仕事か。
しかも、結界?
「結界の対策って……他にできる奴はいないのか?」
思わず口を挟むと、リリスがやんわりとたしなめる。
「晴斗様。森の結界は魔王様以外、張ることはできませんの」
「それが、守護者であられる魔王様の定め」
守護者。
その言葉に、胸の奥がひっかかった。
ゲームの世界の魔王は、人間に悪さする存在だ。
でもヴァルガは――守る側?
何を。
誰を。
聞けばいい。
そう思った。
……なのに、言葉が出てこない。
今のヴァルガは、さっきまで麺を待っていた男じゃない。
王の顔をしている。
その顔に向かって、軽い疑問みたいに問いを投げるのが、妙にためらわれた。
守られるだけの立場で、仕事の中身を覗き込むのは違う気もする。
少し迷ってから、俺は別の言葉を選ぶ。
「……なあ、ヴァルガ。俺もそこに行っていいか?」
「晴斗が?」
誰かに説明されるより、自分の目で見たかった。
こいつが何をして、何を背負ってるのか。
ヴァルガはわずかに眉を寄せる。
「……結界は森の中にある。危険があるかもしれない。また黒濁が現れたら……」
「あ……」
あの叫び声が、頭の奥でよみがえる。
ヴァルガは自分の手のひらを見つめ、苦々しげに言った。
「俺の力が万全なら、お前に指一本触れさせないが……」
その視線には、わずかな悔しさが滲んでいる。
「お前の願いはなんでも叶えたい。しかし、今は……」
「私たちを忘れているのでは?」
リリスがくすりと笑う。
「魔王様には及びませんけれど、晴斗様を守るなら私をお使いください」
「それにこのスラ様は、この小さな身で、灼熱の炎が吐けますわよ」
「え、炎?すごい……」
そう言ってスラ様を見ると、青い身体が小さく揺れた。
「昔とった杵柄と言いましょうか……しかし、まだまだ若いものには負けませぬぞ」
ヴァルガは突然、俺の肩を抱き寄せた。
「だめだ。大事な晴斗を守るのに、お前たちなど当てにならん」
ヴァルガは俺以外には結構辛辣だ。
特にこの二人には。
それだけ信頼してるとも取れるんだけど……
「自分の蒔いた種で絶不調なくせに」
リリスが、わざと聞こえるように呟く。
ヴァルガの眉がぴくりと動いた。
突然、空気が張り詰める。
空は厚い雲に覆われ、遠くでゴロゴロと雷が鳴り出す。
近くの石像に、ぴしりとヒビが入った。
あ、これ絶対始まるやつだ。
嫌な予感がして、咄嗟に俺は割って入った。
「俺、お前の側離れないから!」
そう言って、ヴァルガの服を掴む。
そのまま、そっと胸元に額を押しつけた。
ヴァルガの体が、びくっと固まる。
「……だから、大丈夫だろ?
もしやばかったら、リリスたちが手助けしてくれるってことで……」
……ちょっと媚びすぎたか?
今たぶん、耳まで赤い。
でも、これで機嫌が直るなら安いもんだ。
次の瞬間、物凄い力で抱き寄せられた。
「ぐっ!」
本調子じゃないんじゃなかったのかよ。
く、苦しい……!
「……分かった」
低い声が、頭の上から落ちる。
「まあ、あいつらでも……いざという時、肉壁くらいにはなるだろう」
「聞こえてますわよ?」
「……やれやれ」
リリスとスラ様が、呆れた顔でこちらを見る。
ヴァルガはそんな二人を無視して、俺を抱きしめたまま、真面目な顔になる。
「晴斗。危なくなったら、誰を犠牲にしても逃げろ。約束できるか?」
……ここまで過保護で、いいんだろうか。
若干の不安を覚えながらも、
それを悟られないように、俺はわざと柔らかく笑った。
「うん」
ほんとは、そんなこと出来るわけない。
でも、今それを言えば、絶対に連れて行ってくれない。
ヴァルガは俺を見つめて、
一瞬、言葉を失ったみたいに固まった。
耳が、じわっと赤い。
「……本当に、お前は……」
呆れたような声なのに、
目は完全に蕩けている。
抱きしめたまま動かないヴァルガの背中を、ぽんぽんと叩いてやる。
……なんだか、ヴァルガの扱い方、上手くなった気がする。
少しの羞恥心を捨てれば。
そんな俺を見て、リリスたちは同情にも似た微妙な笑みを浮かべていた。
庭を抜け、城門をくぐる。
森の入り口に立った瞬間、空気が変わった。
目の前に広がるのは、
淡い光彩を帯びた、不思議な森。
……あの時と、同じ景色だ。
魔族の兵士に追われて、無我夢中で飛び込んだあの夜。
感想なんて抱く余裕はなかった。
ただ――
胸の奥が、ひどく落ち着かなかったことだけは覚えている。
途端に、黒濁の叫び声が脳裏を掠めた。
俺は振り払うように、頭を振る。
「晴斗」
隣から、ヴァルガの声が落ちる。
ぎゅっと手を握られ、俺は顔を上げた。
そこには、心配そうに俺を見つめる赤い瞳。
そうだ。
今は、あの時とは違う。
みんなもいる。
──ヴァルガも、いるんだ。
「……うん、大丈夫」
俺は一歩、森へ踏み出した。




