第九話 揺らぐ結界
森の奥へ進むにつれて、空気が重くなっていった。
光を帯びていたはずの木々は、どこかくすみ、風も弱い。
ざわ、と葉が揺れるたびに、胸の奥がざわつく。
「ここだ」
ヴァルガが立ち止まった。
視線の先には、巨大な石柱が四本、円を描くように立っている。
その中心に、淡く揺らぐ膜のような光。
けれど、光はところどころ薄くなり、ひび割れるように歪んでいた。
空間が、軋んでいる。
「これが……結界?」
「正確には、森を覆う結界の要だ。ここから結界が張られ、侵入する者を選別している」
「この世界の人間を拒むためのものだ。もっとも、お前や勇者のような転移者には効かないがな」
だから、リヴェルトは異世界から勇者を召喚するのか。
俺も転移者だから、この森に入れている。
もし俺にも力があったら、奏と一緒に魔王城へ向かい、ヴァルガの敵になっていたのかもしれない……。
ヴァルガは、ゆっくりと前へ出る。
一歩踏み出した瞬間、空気がぴんと張りつめた。
リリスとスラ様が、自然と左右に散る。
ヴァルガの表情が変わる。
それは、俺を甘やかしてる男の顔じゃなかった。
赤い瞳が、冷たく研ぎ澄まされる。
「……この前、張り直したばかりというのに」
「なんで、結界って緩むんだ?」
「黒濁のせいだ。あれが森を移動すると、ここの理が崩れる」
歪んだ光に、ヴァルガが手を伸ばす。
触れた瞬間──
ばちん、と紫電が走った。
俺は思わず息を呑む。
ヴァルガの腕に、黒い痕のようなものが一瞬浮かび上がった。
「ヴァルガ!」
思わず声が出る。
「下がっていろ、晴斗」
振り向きもしない。
低い声。
けれど、その声の奥に、ほんのわずかな苦しさが混じっているのを、俺は聞き逃さなかった。
ヴァルガは、もう一度、歪みへ手をかざす。
今度は、掌から赤い光が滲み出た。
血のように濃い光。
それがひび割れた膜へと流れ込み、ゆっくりと亀裂を埋めていく。
空気が震えた。
地面が、かすかに唸る。
風が逆巻き、ヴァルガの銀髪が大きく揺れた。
その姿は、美しかった。
圧倒的で孤独で、そして、どこか無理をしているようにも見えた。
「……っ」
ヴァルガの呼吸が荒くなる。
赤い光が一瞬、揺らぐ。
「魔王様」
リリスが小さく声をかけるが、ヴァルガは首を振る。
「問題ない」
そう言いながら、さらに力を込める。
ひび割れは、ゆっくりと閉じていった。
歪みが消えると同時に、
森に流れていた不穏な気配も、すっと薄れる。
風が、やわらかく戻る。
ヴァルガはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
「……終わった」
振り返ったヴァルガの顔を見て、俺は思わず眉を寄せる。
ほんの少し、顔色が悪い。
「なあ……」
気づけば口にしていた。
「いつも、こんなに大変そうなのか」
ヴァルガは一瞬、言葉に詰まる。
「……いや」
「今は、身のうちのマナが……」
そこまで言って、ヴァルガは言葉を切った。
「……なんでもない」
何事もなかったように言い直す。
俺は、その“飲み込まれた言葉”のほうが気になった。
「マナ?」
それって、さっき結界を直してた時に使ってた、あの赤い光のことか……?
「魔王様……いえ、この世界のすべての力の源ですわ。結界も、魔法も、すべてそこから」
リリスが、わざとらしくため息をつく。
「回りくどいことなどせず、最初から晴斗様と正面からぶつかればよかったんですのに」
ちらり、とヴァルガを見る。
「無茶な変化を何度もなさるからですわ。あんな秘術、そう何度も使うものではありませんのに」
──無茶な変化。
脳裏に浮かぶのは、あの夜の姿だ。
苦痛に歪んだ顔。
熱に焼かれるみたいに震えていた体。
俺に触れたくて。
嫌われたくなくて。
「……それで、減ったのか。そのマナってやつ」
喉の奥が、ひりつく。
「俺の、せいで……」
「違う」
ヴァルガが、鋭く言い切る。
「晴斗のせいではない」
一瞬、リリスを睨むように見やってから、
「……俺に勇気がなかっただけだ」
低く、吐き出す。
リリスは肩をすくめる。
「ほら、認めた」
いつもの色香を纏った表情とは違い、勝ち誇った顔だ。
スラ様が、静かに言葉を継ぐ。
「とはいえ、消耗は事実。結界の修復に時間がかかっております」
「魔王様の弱体化は、城全体の脅威」
空気が、わずかに重くなる。
「このままでは……やはり、宝珠の力を借りるほか……」
「スラ」
ヴァルガの声が、鋭く落ちた。
「晴斗の前で、余計なことを言うな」
スラ様は目を細める。
「しかし魔王様。いずれは避けられぬ話ですぞ」
宝珠。
さっきから、知らない言葉ばかりだ。
俺は思わず口を開く。
「……なんか、俺にできることが、あるのか?」
「違う、晴斗──これは」
ヴァルガが何かを言いかけた、その瞬間。
森の奥から、あのおぞましい叫び声が響いた。
「あ……」
全身が、凍りつく。
膝が抜けそうになった瞬間、ヴァルガの腕が支えた。
ほんとに、いる。
さっきまで、どこかで思っていた。
この三人がそばにいれば、きっと何も起きないんじゃないかって。
──甘かった。
遠い。だが確実に、あいつはこの森にいる。
「たすけてぇ……!」
今度は、はっきりとした泣き声。
リリスの目が、すっと細くなる。
「……子どもですわ」
スラ様が森を見据える。
「距離は三百歩ほど」
ヴァルガの視線が、迷いなく奥へ向いた。
「俺が行く」
「晴斗はリリスたちと、ここで待て」
「えっ……!」
この前の、黒い粘液に塗れ、死んだように気を失っていたヴァルガの姿が脳裏を過ぎる。
咄嗟に、ヴァルガの服を掴んで首を横に振った。
「だ、だめだ。一緒に行く」
ヴァルガは少し困ったように口を開く。
「……晴斗。さっきのは嘘だ。リリスたちは頼れる。危険だからお前はここに──」
「一緒にいるって言ったろ!」
思わず声が大きくなる。
気づけば、手が震えていた。
ヴァルガは、その震えに視線を落とす。
「……怖いだろう、晴斗……無理をするな」
怖いに決まってる。
あんな化け物、もう二度と見たくない。
でも。
「またお前になんかあって……」
声が、思ったより掠れた。
「倒れちゃったら、どうするんだよ……」
その言葉に、ヴァルガは目を見開いた。
一瞬、完全に言葉を失う。
俺の震える手を、じっと見つめる。
「……わかった」
そして、大きな手が俺の手を包み込んだ。
ぎゅっと強く、震えを押さえ込むみたいに。
「行こう」
声は静かで、さっきよりもずっと落ち着いていた。
森の奥へ入るにつれ、空気が濁る。地面には黒い染みのような痕跡が点々と続いていた。
「黒濁の通った跡ですわ」
枝をかき分け、開けた場所に出る。
そこにいた。
歪んだ黒い塊が、木を薙ぎ倒しながら暴れている。その少し先で、小さな魔族の子どもが何かを抱えて蹲っていた。
「やだ……こないで……!」
黒濁が触手のような腕を振り上げる。
「リリス、晴斗を」
「心得ました」
ヴァルガが前へ出る。赤い光が掌に集まるが、ほんのわずかに揺らいだ。
その光を、黒濁目掛けて解き放つ。
黒濁の体の右半分が弾け飛んだ。
衝撃が弾け、森が震える。ヴァルガの足が半歩下がる。
でも、やつは止まらない。
──押されてる。
あの時は、一発で仕留めてたのに。
「魔王様!」
「下がっていろ!」
ヴァルガの呼吸が、わずかに荒い。
「……くっ」
黒濁が跳ねる。
受け止めた瞬間、ヴァルガの足がわずかに沈んだ。
黒濁が真っ赤な口を大きく裂き、喰らいつこうとする。
寸前で避けるが、鋭い歯が腕を掠めた。
赤い血が散る。
「ヴァルガ!!」
スラ様が前へ躍り出る。
「晴斗様! お下がりください!」
小さな身体が膨れ、空気が熱を帯びる。
そして、口から灼熱の炎が一直線に吐き出された。
轟音。
黒濁が炎に包まれ、じゅう、と嫌な音を立てて崩れ落ちる。
焦げた臭いが鼻を刺した。
「すごい……」
思わず呟くと、スラ様は小さく揺れる。
「次の炎が溜まるまで、少し時間がかかりますがな……」
その息は荒かった。
その瞬間、はっとした。
「そうだ、ヴァルガ!」
駆け寄ると、ヴァルガは片手で傷口を押さえていた。
血が、じわりと滲んでいる。
「見た目ほど大した傷ではない」
そう言いながらも、呼吸は浅い。
「守ると言ったのに、このザマだ。すまない、晴斗」
「そんなこと言うなよ……無事ならそれでいい」
俺はシャツの裾を裂き、腕にきつく巻いた。
触れた体は、わずかに熱い。
そのとき。
森が、再びざわめいた。
「まだ来ますわ!」
現れたのは、先ほどより一回り大きな黒濁。
地面に、黒い粘液をこぼしながら這い寄ってくる。
リリスが羽を広げ、一瞬で間合いを詰めた。
伸びた爪が黒濁を木に縫い留める。
「しぶといですわね……!」
だが、黒い塊はぐじゅ、と形を変えながら前へ進もうとする。
その手前で、子どもが怯えきって立ち尽くしている。
黒濁。
胸の奥が、冷えていく。
あの、粘ついた感触。
耳を裂くような叫び声。
真っ赤な口を開いて俺を食おうとした光景が、脳裏をよぎる。
怖い。
本当は、近づきたくない。
けれど、ヴァルガは血を流している。
スラ様は息を荒げている。
リリスは一人で巨大な黒濁を押さえ込んでいる。
俺だけが、何もしていない。
守られてるだけの存在。
それが、たまらなく嫌だった。
「……っ」
喉が震える。
でも、気持ちは止まらなかった。
「こっちだ!」
俺は駆け出した。
ヴァルガが咄嗟に俺へ腕を伸ばす。
その手は、ぎりぎりのところで届かなかった。
子どもを抱き上げる。
抱いた腕越しに、震えが混ざった。
その瞬間、背後の空気がぞわりと歪んだ。
振り返らなくてもわかる。
黒い影が、迫っている。
三体目……?
嘘だろ。
こんなに一気に出てくるのか?
心臓が喉までせり上がる。
「晴斗!」
ヴァルガの声。
振り向くより早く、赤い光が閃く。
黒濁の一部が裂ける。
それでも、止まらない。
迫る。
間に合わない。
視界が黒に塗りつぶされる。
──ひゅ、と風が鳴った。
黒濁の動きが、止まる。
次の瞬間、身体が斜めにずれ、
上半身がずるりと滑り落ちた。
一刀両断。
森が、静まり返る。
黒い塊は、力を失ったように崩れ落ち、黒い液体が地面に広がっていった。
「やれやれ」
低い声が、森の奥から届く。
「思ったより数が残ってたな」
木立の影から、長身の男が歩いてくる。
剣を肩に担ぎ、余裕の笑みを浮かべながら。
「森に入る前にあらかた数は減らしておいたんだけどね」
軽い口調。
けれど、その足取りは無駄がない。
「え……?」
俺は目を疑った。
「レ、レオンさん……?」
レオンは俺を見て、気安い顔で笑った。
「よお、晴斗。ひさしぶり」




