第六十四話 もう一度
俺と奏は、そのまま救急車で病院へ運ばれた。
奏は、病院に着く前に目を覚ました。
どうして二人で道端に倒れていたのかと聞かれたけれど、俺たちはどちらも答えられなかった。
念のためにいくつか検査を受けたが、頭にも身体にも異常はなく、目立った怪我さえなかった。
その日のうちに帰っていいと言われ、バイトもあるし、大ごとにならなくてよかったと安心した。
ほっとしたはずなのに、胸の奥にはぽっかりと穴が開いていた。
何かが足りない。
けれど、それが何なのか分からなかった。
病院を出る前に、手の中にあった指輪を返された。
誰のものかも、どうして握っていたのかも分からない。
奏に見せても、首を傾げるだけだった。
「晴斗は指輪なんてつけないよね? 拾った?」
「拾った覚えないんだけどなあ」
飾り気のない、ごく普通の指輪だった。
でも、交番に届けようと思って、いざ持って行こうとすると途端に惜しくなった。
自分のものでもないのに、なんでこんな気持ちになるんだろう。
いけないと思いながらも、俺はその指輪を机の引き出しへしまった。
***
それから、元の生活へ戻った。
奏とは、これまでと変わらず顔を合わせた。
大学が一緒だし、講義が同じ時は、駅で待ち合わせたりしている。
あとは、大学の合間にバイト掛け持ち。
苦学生は楽じゃない。
そう。何も変わっていない。
そのはずなのに、ずっと心が晴れなかった。
ふとした時に、誰かを探してしまう。
人混みの中で立ち止まり、辺りを見回してから、自分でも何をしているのか分からなくなる。
夜中に、胸が苦しくなって目を覚ますこともあった。
夢の内容は、何も覚えていない。
ただ、目を開けるたびに、どうしようもなく寂しかった。
大切なものを、どこかへ置いてきてしまったような気がする。
忘れてはいけないことを、忘れている。
そんな感覚だけが、日に日に強くなっていった。
奏にも何度か話した。
「何か忘れてる気がするんだよ。俺たちが倒れてた、あの時から」
「何かって?」
「それが分からないから困ってる」
奏は心配そうに俺を見ていた。
けれど、奏にだって心当たりはない。
あの日、二人で道端に倒れていた理由も、倒れる直前に何があったのかも、どうしても思い出せなかった。
***
ある日、探し物をして机の引き出しを開けると、奥に小さな透明の袋があった。
中には、あの日握っていた指輪が入っている。引き出しへしまって以来、一度も取り出していなかった。
袋から取り出し、手のひらへ載せる。
何の変哲もない指輪だった。
見覚えなんてないはずなのに、ずっと身につけていたような気がした。
指先で転がしているうちに、なぜか胸の奥が苦しくなる。
俺はその指輪を、左手の薬指へ近づけた。
どうしてそこなのかは分からない。
けれど、ほかの指にはめることなど、考えもしなかった。
ゆっくりと指輪を通す。
まるで初めから俺のために作られたみたいに、ぴたりと収まった。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
銀色の長い髪。
まっすぐに俺を見つめる、赤い瞳。
初めて連れていかれた魔王城と、賑やかな厨房。
リリスとスラ様。レオン。
血に濡れた奏。
切り落とされた左腕。
俺を抱きしめていた、大きな腕。
忘れていた光景が、次々と頭の中へ流れ込んでくる。
俺は息もできず、床に膝をついた。
左腕が焼けるように痛み、咄嗟に右手で押さえる。そこには、肘から先もあった。
手も、五本の指も、すべて元に戻っている。
それでも、切り落とされた瞬間の感覚を思い出していた。
ヴァルガは、俺を騙すみたいにして手を離し、元の世界へ帰した。
その顔を見ながら、最後まで言えなかった言葉まで蘇ってくる。
「ヴァルガ……」
忘れていた名前が、声になってこぼれた。
指輪をはめた左手を胸へ押しつけると、涙が次から次へと溢れ出した。
俺は、全部思い出した。
なのに、もう会えない。
この世界に、あいつはいない。
いやだ。
異世界に行く方法なんてあるわけもない。
混乱した頭に、一つだけ思い浮かんだ。
奏。
奏なら、勇者の召喚のことで、何か覚えているかもしれない。
震える手でスマホを掴み、奏の名前を呼び出した。けれど、電話をかける直前で指が止まった。
血に濡れた奏。
自分がしてきたことを悔やみながら、俺を守って死んだ姿が蘇る。
もし、奏まで思い出してしまったら、あいつはまた、すべてを背負うことになる。
俺はスマホを伏せた。
奏は、何も知らないままでいい。
生き返ったあいつに、もう一度あの苦しみを与えることなんてできなかった。
それから俺は、自分だけで異世界へ戻る方法を探し始めた。
インターネットで、思いつく言葉を片っ端から検索した。
異世界。
勇者召喚。
魔王。
戦禍の宝珠。
循環の宝珠。
ヴァルガ。
何度も言葉を変えながら調べた。
それらしい話を見つけてはページを開いたけれど、出てくるのは小説やゲーム、誰かが作った嘘の体験談ばかりだった。
ヴァルガの名前も、リヴェルトも、魔王城のことも、俺が知っているものは何一つ見つからない。
図書館にも通った。
古い神話や伝承が載った本を端から読み、世界を渡った人間の話があれば、どんなに小さな記述でも確かめた。
似たような話は、いくつもあった。
でも、どれも違う。
俺がいた世界へ繋がる手掛かりにはならなかった。
奏と倒れていた場所にも、何度も足を運んだ。
同じところに立ち、指輪を握り締めてヴァルガの名前を呼んだ。
目を閉じて、あの光の扉を思い浮かべた。
それでも、何も起こらない。
車や人が、立ち尽くす俺の横を通り過ぎていくだけだった。
俺にとっては、全部本当にあったことなのに、この世界では作り話にしかならなかった。
どれだけ探しても、ヴァルガへ繋がる道は見つからない。
あいつがいたという証拠さえ、どこにも残っていなかった。
左手の薬指にはまった、この指輪以外には。
いたずらに時だけが過ぎて、俺はどんどん病んでいった。
眠れない日が続き、大学へ行けない日も増えた。
病院へ通うようになり、処方された薬が手放せなくなっていく。
そんな俺を、奏だけは何も聞かずに支えてくれた。
ある日、奏が大学を辞めると言った。
「やりたいことができたんだ」
奏は、これから進みたい道について話してくれた。
今まで目指していたものとは、まるで違う。
驚いたけれど、話している奏の顔に迷いはなかった。
異世界のことは、何も覚えていないはずなのに。
それでも、あの世界で奏の中に刻まれたものまで、すべて消えたわけではないのかもしれない。
奏も、自分の中にある何かに従って、前へ進もうとしている。
それを見て、俺もこのまま腐ってはいられないと思った。
ヴァルガを諦めることはできない。
それでも、あいつが助けてくれた命を、ただ失ったものを嘆くためだけに使いたくなかった。
俺は少しずつ、自分を取り戻していった。
***
五年が経った。
俺も、それまで考えていた進路を変えた。
魔王城の厨房で働いていた時間は、思い返せば楽しかった。自分の作った料理を誰かが美味しいと言い、笑ってくれることが、俺は嬉しかった。
だから調理師免許を取った。
働く所を探していた頃、ふらりと入った小料理屋で食べた煮物が、驚くほど美味しかった。
気づけば、ここで働かせてほしいと店主に頼み込んでいた。
それが、今働いているこの店だ。
丁寧な料理と温かい雰囲気で、地元の人たちに長く愛されている。
二人だけでは手が回らず、俺が働き始めるまでは、営業時間を短くしたり休業日を増やしたりして、なんとか店を続けていたらしい。
店主と女将さんは、俺を本当の孫のようにかわいがってくれる。
実際の祖父母には会ったことがないけれど、きっと、孫のことをこんなふうに猫かわいがりしてくれるんだろう。
いつの間にか、この店は俺にとってかけがえのない場所になっていた。
開店を前に料理の下ごしらえを終え、店先を箒で掃いていると、背後から小さな声が聞こえた。
「晴ちゃん、そろそろお店を開けますよ」
振り返ると、開け放した扉から女将さんが顔を覗かせていた。
白い髪を後ろで小さくまとめた、俺の肩にも届かないくらいのおばあちゃんだ。
「もうちょっと。ここを掃いたら戻るから」
「あらあら。毎日、そんなに綺麗にしなくてもいいのに」
女将さんが、困ったように笑う。
その後ろから、店主も顔を出した。
「晴ちゃんは、本当に几帳面だな」
「ええ。晴ちゃんが店を継いでくれたら、私たちも安心ですねえ」
「またそれ。俺、まだ継ぐって言ってないよ」
「まあ……違うの?」
女将さんが目を丸くした。
小さな身体をさらに縮め、悲しそうに俺を見上げている。
「そんな顔しないでよ。嫌だとは言ってないから」
「ああ、よかった」
女将さんの顔が、すぐに明るくなる。
「ねえ、あなた。晴ちゃん、継いでくれるそうですよ」
「まだ決めてないって!」
店主が声を上げて笑った。
二人はすっかり、俺がこの店を継ぐものだと思っている。
最初は困っていたけれど、最近では、それも悪くないと思うようになった。
店主から教わりたい料理は、まだたくさんある。
いつか本当に、この店を任せてもらえるなら。
その時も二人には、店の奥で変わらず笑っていてほしかった。
この五年で、実の母とも少しずつ連絡を取り合うようになった。
頑なに会おうとしなかった人も、歳月が経って心境が変わったんだろうか。
この前、今度一緒に食事をしないかと誘われた。
あれほど会いたいと思っていたのに、いざ会えるとなると、何を話せばいいのか分からなかった。
何度も返事を書いては消し、ずいぶん迷った末に、行くと答えた。
会えば、きっとお互いぎこちない。
それでも、もう一度ちゃんと話してみようと思った。
箒を動かしていると、通りの向こうから聞き慣れた声がした。
「晴斗」
顔を上げると、奏がこちらへ歩いてくる。
「奏。どうしたの?」
「近くまで来たから寄った。お腹すいた」
「まだ暖簾も出してないけど」
「でも、良い匂いがするよ?」
奏が店の中を覗き込みながら鼻を動かしている。
それに気づいた女将さんが、嬉しそうに手招きした。
「まあ、奏くん。ちょうどよかった。今日の煮物、味見していってくださいな」
「いいんですか?」
「もちろんですよ。さあ、どうぞ」
奏は遠慮なく店へ入っていく。
俺も掃除を終え、箒を片づけて中へ戻った。
奏はすでに、いつものカウンター席に座っていた。
女将さんが煮物の入った小鉢を置くと、嬉しそうに箸を取る。
「奏くん、お仕事はどうですか?」
「相変わらず忙しいです。昨日もほとんど休めなくて」
「救急車に乗るお仕事では、仕方がないのでしょうけど……身体だけは大事にしてくださいね」
「ありがとうございます」
あれから奏は大学を辞め、救急救命士になるための学校へ入り直した。
資格を取り、消防士の採用試験にも合格した。
今は救急隊員として、救急車に乗っている。
どうして突然、その仕事を目指そうと思ったのか、奏自身にもよく分からないらしい。
ただ、人を助ける仕事がしたいと思ったのだと、前に話してくれた。
異世界の記憶はなくても、奏の中には確かに何かが残っている。
異世界で、奏は俺のことが好きだと言った。
あの残酷な世界で、俺以外のものなどどうでもいいと思うほど、気持ちが膨らんでいたからこそ、口にしたのだと思う。
この世界で生きていたなら、きっと奏は何も言わなかった。
今も忙しい合間にこうして顔を見せに来るが、俺が作ったものを食べ、少し話すだけで満足そうに帰っていく。
奏が今、俺をどう思っているのかは聞いていない。
たとえ答えが返ってきても、その気持ちに応えられるわけがないから。
奏も、何も言わない。
俺たちは、それでよかった。
「晴斗、これ美味い」
「俺が作ったんだから当たり前だろ」
「晴ちゃんの煮物も、すっかりうちの味になりましたね」
女将さんが嬉しそうに笑う。
「俺が教えたからな」
店主が胸を張った。
「最初は何を聞いても、『見れば分かる』しか言わなかったけどね」
「余計なことを言うな」
奏が笑う。
女将さんと店主も笑っていた。
つられて俺も笑う。
ヴァルガへ繋がる手掛かりは、あれから一つも見つからなかった。
今も会いたい。
忘れた日なんて、一日もない。
それでも、ここには奏がいて、俺を家族のように扱ってくれる人たちがいる。
働く場所があって、作った料理を食べてくれる人がいる。
俺は今、幸せだった。
暖簾を出そうと左手を伸ばすと、薬指の指輪が夕陽を反した。
料理に触れるときだけは外しているが、それ以外は片時も手放さなかった。
ヴァルガ。
俺、ちゃんと笑えてるよ。
胸の中でそう話しかけながら、俺は暖簾を手に取った。
暖簾を店先に掛け終えると、背後で引き戸が開いた。
「晴斗、ご馳走様」
奏が満足そうな顔で、店から出てくる。
「もう行くのか?」
「これから夜勤。最近、全然暇がないよ」
奏はわざとらしくため息をついた。
その姿を見ているうちに、ふと言葉がこぼれた。
「お前、かっこいいな」
奏はきょとんと目を瞬かせ、それから少し照れたように頭を掻いた。
「なんだよ、突然」
「救急隊員、すごく似合ってる」
「……ありがとう。やりがいはあるよ」
奏は少し恥ずかしそうに笑った。
「俺がちゃんと人の役に立ててるのかは、まだ分からないけどね」
「立ててるよ。絶対」
俺がそう言うと、奏はまた照れたように目を逸らした。
「晴斗も、すごいよ。お前がこんなに料理上手いなんて、知らなかったもん」
俺は少し笑った。
そういえば、異世界でしか奏に料理を食べさせたことがなかった。
「奏くん、お仕事頑張ってくださいね」
店の中から、女将さんの小さな声が聞こえた。
奏が引き戸の向こうへ顔を覗かせる。
「ありがとうございます。また食べに来ます」
そう答えてから、奏は俺へ片手を上げた。
「じゃあね、晴斗」
「またな」
遠ざかっていく奏の背中を見送る。
俺も店の中へ戻ろうとした、その時。
視界の端に、誰かの姿が映った。
背の高い男。
風に揺れた、長い髪。
ほんの一瞬だった。
はっとして顔を向けた時には、男は通りの角へ消えるところだった。
「……え?」
店先から通りへ出て、その背中を探す。
けれど、もうどこにもいなかった。
今のって──。
なぜか、ひどく胸が騒いだ。
***
それから、同じ男を何度も見かけるようになった。
店の窓から通りの向こうに立つ姿が見えたこともあれば、買い出しから戻る途中、少し離れた曲がり角にいることもあった。
男はいつも、短い間だけ店の方を見つめ、それから静かに背を向けて去っていく。
顔は一度も見えなかった。
俺が気づくのは、いつも男が通りの角へ消える直前だった。
名前を呼ぼうとした時には、もうその背中さえ見えなくなっていた。
長い髪は銀色ではなく、夕暮れの中でも黒く見えた。
それでも、大きな身体も、そこに立っている姿も、どうしようもなくヴァルガを思い出させた。
見つけるたびに、心臓が大きく跳ねた。
見間違いかもしれない。
ヴァルガに会いたいと思い続けるあまり、自分に都合のいい幻を見ているだけなのかもしれない。
そう思おうとしても、あの姿が頭から離れなかった。
今度こそ声をかけよう。
一度でいいから、顔を見たい。
そう決めているのに、何度見かけても間に合わなかった。
ある日の夕方、開店前の店内でカウンターを拭いていると、女将さんが窓のそばから俺を呼んだ。
「晴ちゃん」
「どうしたの?」
「あちらの方、晴ちゃんにご用があるんじゃない?」
「え?」
手を止め、女将さんの視線を追った。
通りの向こうに、男が立っていた。
背が高く、腰近くまで伸びた髪が風に揺れている。
傾いた陽を背負い、顔は影になっていた。
それでも、俺にはもう、その姿から目を逸らせなかった。
「前にも何度か見かけたの。お店というより、晴ちゃんのことを見ているようだから」
女将さんは不思議そうに首を傾げた。
「声をかければよろしいのに、いつもすぐに帰ってしまうのよ」
自分にしか見えていないわけじゃないんだ。
俺は男から目を離さないまま、布巾をその場へ置いた。
男はしばらく店を見つめたあと、ゆっくりと背を向けた。
「待って……!」
俺は店の引き戸を開け、外へ飛び出した。
男は振り返らない。
このままでは、またいなくなってしまう。
「ヴァルガ!」
通りの向こうで、男の足が止まった。
風に揺れていた長い髪が、背中へ落ちる。
男はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりとこちらを振り返る。
銀色だった髪は、黒く変わっていた。
赤かった瞳にも、もうあの色はない。
服装も変わり、シックな黒のジャケットを羽織っている。
異世界の服ではない。
それでも、間違えるはずがなかった。
ずっと会いたかった顔が、そこにある。
その瞳が、大きく見開かれた。
「……晴斗?」
低い声。
何度も夢に見た、ヴァルガの声だった。
身体が勝手に動いた。
通りを渡り、ヴァルガのもとへ駆け寄る。
その顔が近づくほど、視界が涙で滲んだ。
ヴァルガは、信じられないものを見るように俺を見つめている。
「なぜ……俺の名を……」
「これのおかげで思い出したんだよ」
左手を持ち上げる。
薬指にはめた指輪を見た途端、ヴァルガの顔が歪んだ。
その手にも、同じ指輪が残っていた。
五年前と変わらない、飾り気のない指輪。
「なんで……」
言いたいことが、次から次へと込み上げてくる。
「なんで、今まで声かけなかったんだよ」
「……お前が、俺を覚えているとは思わなかった」
ヴァルガの視線が、店の方へ向けられる。
「お前は笑っていた。奏も生きている。ここで新しい居場所を見つけ、幸せに暮らしているように見えた」
「だから、何も言わずに帰ろうとしたのか?」
「一目、お前の姿を見るだけでいいと思っていた」
まただ。
こいつはまた、俺の気持ちも聞かずに、一人で全部決めている。
「俺はよくない!」
両手でヴァルガの胸を叩いた。
「俺が、どれだけお前を探したと思ってるんだよ……!」
何度調べても、異世界へ繋がる手掛かりは見つからなかった。
奏にさえ本当のことを話せず、一人で探し続けた。
もう二度と会えないのだと、何度も諦めそうになった。
「五年だぞ……!」
ヴァルガは目を逸らした。
「……すまない。この世界にくるまでに魔王としてやらなければならないことがあった」
「うるさい!」
再び、ヴァルガの胸を何度も叩いた。
ヴァルガは、止めもせずそれを受けた。
「……本当は、あの世界でお前を諦めて生きていこうと思った」
「だが、お前が消えた瞬間から、お前に会いたくてたまらなくなった」
「……俺は愚かだ。自ら決めたことさえ、最後まで貫けなかった」
ヴァルガは、俺が叩いた胸へ手を当てた。
「この世界へ渡り、俺はもう魔族ではなくなった。番の絆も失われると思っていた」
その顔が、泣きそうに歪んだ。
「なのに、こんなにも……お前を……」
それを見たら、もう怒っていることもできなかった。
ヴァルガの身体へ、両腕を回す。
逃がさないように強く抱きしめる。
ヴァルガの身体が、大きく震えた。
「ずっと、会いたかった……」
背中へ回した手で、服を握り締める。
「もう、勝手に俺を突き放すなよ……」
しばらくして、恐る恐る触れるように、ヴァルガの腕が俺の背中へ回った。
懐かしい温もりに包まれる。
その腕は少しずつ強まり、やがて、息が苦しくなるほど俺を抱きしめた。
「晴斗……」
耳元で呼ばれた声が、震えていた。
「晴斗……!」
「遅いんだよ、馬鹿……」
そう言って、ヴァルガの唇に顔を寄せた。
「世界で一番、お前のこと愛してる」
五年前、届かなかった言葉を、今度こそ最後まで伝えた。
重なった唇に、ヴァルガの涙が触れた。
夕暮れの風に暖簾が揺れ、二人の指輪が同じ光を返していた。




