第六十三話 選ぶということ
それから数日後。
ヴァルガは、先代魔王の書斎にいた。
まだ身体には力が戻りきっていない。
少し歩くだけで息が切れ、ときおり書棚へ手をつかなければ立っていられなかった。
それでも、寝ていることなどできなかった。
部屋の壁は、天井まで届く書棚で埋め尽くされている。
父は、よく本を読む人だった。
幼い頃に訪ねると、決まって机に向かっていた。
声をかけるまでヴァルガに気づかないこともあった。
魔王の座を継いでから、ヴァルガもこの部屋を使うことはあった。
過去の条約や、領地についての記録。
王として必要な書物には、一通り目を通した。
だが、それだけだ。
ヴァルガは父ほど本を好んではいなかった。
それに、この部屋に収められているのは父の集めた本だけではない。
何代もの魔王が遺した書物や記録が、数えきれないほど残されている。
すべてを読むことなど、到底できなかった。
「神との交信……」
どのような本なのか。
題名さえ分からない。
古びた本を一冊ずつ書棚から抜き取り、中を確かめる。
魔術の歴史。
歴代魔王の記録。
今では使われていない古い術式。
それらしいものを見つけるたびにページをめくったが、神について書かれたものはなかった。
どれほど時間が過ぎたのか。
机の上には、調べ終えた本が積み上がっている。
指先に力が入らなくなり、手にしていた本を床へ落とした。
拾おうと身を屈めた瞬間、目の前が暗くなる。
ヴァルガは書棚へ肩を預け、その場に座り込んだ。
「……どこにある」
焦りばかりが募る。
早く見つけなければならない。
晴斗の姿を見る方法が、本当に残されているとは限らない。
たとえ神と言葉を交わせたとしても、願いを聞き入れてもらえる保証などない。
それでも、他に縋れるものは何もなかった。
ヴァルガは荒い息を整え、顔を上げる。
ふと、書棚の奥にある一本の細い紐が目に入った。
本と本の隙間から、色褪せた赤い紐が垂れている。
見覚えがあった。
ヴァルガは書棚へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
紐の先を辿り、一冊の本を引き抜く。
表紙には題名もなく、黒い革はところどころ擦り切れていた。
挟まれていたのは、小さな革の栞だった。
形は歪み、端を縫う糸も不揃いだ。
ヴァルガが幼い頃、父へ贈ったものだった。
父がいつも本を読んでいるからと、母に教わりながら作った。
子供の手で作った、不格好な栞。
渡したとき、父は笑っていた。
『大切に使おう』
その言葉どおり、父は何年ものあいだ使い続けてくれていた。
ヴァルガは栞に触れた。
父は、この本を読んでいた。
そう思うと、指先が震えた。
栞が挟まれているページを開く。
古い文字と、複雑な術式が目に飛び込んできた。
その中央には、見覚えのない紋章が大きく描かれている。
そして、ページの上部に記された言葉を見た瞬間、ヴァルガは息を止めた。
──神へ声を届ける術。
さらに、その下。
古い記述とは異なる筆跡で、短い一文が書き加えられていた。
父の字だった。
『神は、今も我らの声を聞いている』
ヴァルガは、その文字を震える指でなぞった。
父は、神と言葉を交わした。
この本に記された術を使って。
次のページには、神へ声を届けるための手順が細かく記されていた。
月が最も高く昇る刻。
術式の中心へ魔王の血を捧げ、己のマナを注ぐ。
本来の記述の隣には、父の字でいくつもの言葉が書き加えられている。
古い術式の誤りを正すもの。
失われた文字を補うもの。
父が何日も書斎に閉じこもっていたのは、この術を完成させるためだったのだろう。
ヴァルガは父の文字を追いながら、夜が来るのを待った。
***
月明かりが、書斎の床を青白く照らしている。
ヴァルガは部屋の中央に膝をつき、本に記されていた術式を描いた。
幾重にも重なった円。
その内側を埋める、古い文字。
描き終える頃には息が切れ、額には汗が滲んでいた。
ヴァルガは開いた本を術式の中心へ置く。
父へ贈った栞は、挟まれていたページへ戻した。
短剣の刃を指先へ当て、薄く引く。
赤い血が一滴、術式の中央へ落ちた。
両手を床につき、マナを注ぐ。
描かれた文字が、一つずつ光を帯びていった。
「古の魔王と言葉を交わした神よ」
声が、静かな書斎に響く。
「我が声を聞き届けてくれ」
返事はない。
窓から吹き込んだ風が、本のページを揺らした。
それ以外、何も起こらない。
やがて術式の光が、少しずつ弱くなっていく。
ヴァルガは、さらにマナを注いだ。
「晴斗を……」
掠れた声が漏れる。
「もう一度だけ、あの者の姿を見たい」
そばへ行けなくてもいい。
言葉を交わせなくても構わない。
ただ、晴斗が生きているところを一目だけ見たい。
失った腕を取り戻し、元の世界で笑っている。
それを確かめられれば、それ以上は何も望まない。
「どうか……俺の声を聞いてくれ」
残されたマナを振り絞る。
それでも、術式の光は消えていった。
書斎が暗闇に沈む。
届かなかった。
そう思った瞬間。
すべての音が消えた。
窓を揺らしていた風も。
自分の呼吸も。
胸の奥で鳴っているはずの鼓動さえ、聞こえない。
ヴァルガは顔を上げた。
書斎も、床に描いた術式も消えている。
どこまでも続く、白い世界。
天も地もなく、果ても見えない。
身体は確かにそこにあるのに、足元には何もなかった。
遥か彼方に、何かが浮かんでいる。
白い世界に溶け込む、巨大な顔。
人間たちが祀る女神像に似た、穏やかな微笑み。
その顔だけで、山よりも大きい。
だが、両目は固く閉ざされていた。
白い空間に、細い亀裂が走る。
それがゆっくりと左右へ開き、巨大な瞳が現れた。
それを皮切りに、上にも下にも、背後にも同じ亀裂が走った。その一つひとつがゆっくりと開き、現れた無数の瞳が、ヴァルガだけを見つめている。
晴斗を失う恐怖とは、まるで種類が違う。
生き物としての本能が、目の前の存在を恐れていた。
逃げなければならない。
本能がそう叫ぶ。
だが、身体は指一本動かない。
遥か彼方に浮かぶ女神の顔は、目を閉じたまま微笑んでいる。
無数の瞳が、一斉に細められた。
『魔王よ』
女とも子供ともつかない声が、ヴァルガの内側へ直接響く。
幾百もの者が、同時に囁いているような声だった。
『何を望む』
ヴァルガは答えようとした。
だが、喉が動かない。
無数の瞳に見つめられ、身体の内側まで暴かれているようだった。
隠すことなど、何一つできない。
「……晴斗を」
ようやく声を絞り出す。
「異なる世界へ帰した、人間を……もう一度だけ見たい」
白い世界に、ヴァルガの声が吸い込まれていく。
「生きていると、それだけ確かめたい」
無数の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
『あの者の還った先は、我が目の届かぬ世界』
「では……見ることはできないのか」
『再び宝珠を壊せば、道は開く』
ヴァルガは、はっとして顔を上げた。
だが、すぐに眉を寄せる。
「待て」
代々の魔王へ受け継がれてきた使命がある。
循環の宝珠を、決して人間の手へ渡してはならない。
何があろうと、命に代えて守り抜けと。
「我らに命じたのは、あなたではないか」
無数の瞳を睨みつける。
「循環の宝珠を、人間から守れと」
女神は答えない。
「壊せば道が開くというのなら、なぜ我らに守らせた」
『壊してよいとは告げていない』
声が、ヴァルガの内側へ響く。
『我は今も、循環が失われることを望まぬ』
「ならば、なぜ……」
一つの巨大な瞳に、遠い昔の光景が映った。
循環の宝珠を奪い合い、互いに殺し合う人間たち。
いくつもの国が滅び、それでも争いは終わらない。
『人は、我が子』
『その繁栄を願い、二つの宝珠を授けた』
『されど、我が子らの手に宝珠を置くことはできなかった』
宝珠から溢れ出したマナが、いくつもの命へと形を変えていく。
角を持つ者。
翼を持つ者。
獣の姿をした者。
最初の魔族たちだった。
『ゆえに、宝珠を守る者を作った』
人間たちは互いへ向けていた剣を下ろし、生まれた魔族へ向き直った。
それまで争っていた者たちが、同じ敵を前に手を取り合っている。
『我が子らの争いを、鎮めるために』
ヴァルガは言葉を失った。
魔族は、宝珠を守らせるために作られた。
人間たちの憎しみを、一つへ集めるために。
「俺たちは……人間のために生み出されたのか」
女神は否定しなかった。
やがて、別の瞳に神殿の地下が映し出された。
魔族は切り刻まれ、泣き叫ぶ幼子までもが黒濁へと作り変えられていく。
その光景を、大司祭は楽しそうに見つめていた。
女神もまた、すべてを見ていたのだ。
『我は今も、人を愛している』
遥か彼方に浮かぶ女神の顔は、穏やかに微笑んだままだった。
『されど、我が子らの行いが、すべて正しいとはもはや言えぬ』
いくつもの瞳が、ほんの少し伏せられる。
『そなたらに負わせたものを、なかったことにもできぬ』
それは、謝罪ではなかった。
女神は今も、人間を愛している。
魔族を作ったことを、後悔しているわけでもないのだろう。
それでも、ほんのわずかに罪の意識を抱いている。
だから、魔王であるヴァルガの願いに答えた。
『ゆえに一度だけ、道を示す』
ヴァルガは、しばらく何も言えなかった。
やがて、あることに気づき、肩を落とす。
「……しかし、聖剣を扱える転移者は、もういない」
『戦禍の宝珠より、異界の者の血をもって生まれた剣』
ヴァルガの脳裏に、奏が遺した黒い剣が浮かぶ。
『あれは聖剣に代わり、循環を断つ』
「では俺でも、循環の宝珠を……壊せるというのか」
胸の奥が強く脈打った。
晴斗の世界へ行ける。
もう一度、晴斗の姿を見ることができる。
『循環を失えば、この世界からマナは消える』
ヴァルガの表情が強張る。
『人も、魔も。等しく魔法を失う』
「魔族は……どうなる」
『命が失われることはない』
ヴァルガは、わずかに息を吐いた。
だが、女神の言葉は続く。
『されど、そなたらはマナより得た力を失う』
魔法だけではない。
魔族の中には、マナによって人間を遥かに上回る力を得ている者もいる。
それらをすべて失えば、異形の姿だけが残る。
人間たちが、それを受け入れるとは限らない。
魔法を失った魔族に、自分たちの身を守る力は残されていない。
ヴァルガは何も言えなかった。
晴斗に会いたい。たとえ遠くからでも、生きている姿を見たい。
だが、その願いのために、魔族の未来を変えてしまってよいのか。
スラやリリスをはじめ、城で暮らす者たち、この国に生きるすべての魔族の姿が、次々と頭に浮かんだ。
「……他に、方法は」
声が震える。
女神は答えない。
沈黙だけで、それが唯一の道なのだと分かった。
『境を越えれば、そなたも魔ではいられぬ』
『その身だけでなく、存在も記録も、彼の地に生きる一人の人間として編み直される』
『人の身となり、二度とこの地へ戻ることはかなわぬ』
晴斗のもとへ行けば、この国へは戻れない。
魔王である自分が、循環の宝珠を壊し、魔族を残して去る。
そんなことを、今ここで決められるはずがなかった。
「俺は……」
言葉が続かない。
無数の瞳が、一つずつ閉じていく。
「待て」
ヴァルガは、遠ざかっていく女神へ手を伸ばした。
『我は、循環が失われることを望まぬ』
また一つ、瞳が閉じる。
『されど、そなたから選ぶことを奪いはしない』
最後に残った瞳が、ヴァルガを見つめた。
『壊すか否かは、お前が決めろ』
最後の瞳が閉じた。
「待ってくれ!」
叫んだ瞬間、ヴァルガは書斎の床へ倒れ込んだ。
荒い呼吸と、激しい鼓動が戻ってくる。
目の前には、光を失った術式。
その中心には、父の本が開かれたまま置かれていた。
ヴァルガは床へ手をついたまま、動けなかった。
答えなど、出せなかった。
どれほどそうしていたのか。
気づけば、書斎の窓から朝の光が差し込んでいた。
そのとき、扉が開いた。
顔を上げると、リリスが書斎へ入ってくる。
床に描かれた術式と、その中央に置かれた本。
そして、憔悴したヴァルガを順番に見た。
「……神とは、話せたの?」
「……スラから聞いたのか」
リリスは髪をかきあげながら視線を逸らす。
「突然、自分から食事し出して書斎に閉じこもるからでしょう。気になるじゃない」
ヴァルガがリリスを見つめていると、バツが悪そうに口を開いた。
「それで、晴斗様を見る方法は?」
「見ることはできない」
リリスの表情が曇る。
「だが、晴斗の世界へ行く道はある」
「本当に?」
一瞬だけ明るくなった顔が、ヴァルガの様子を見て再び強張った。
ヴァルガは、女神から告げられたことをすべて話した。
奏の遺した黒い剣で、循環の宝珠を壊せること。
宝珠から解き放たれたマナが、晴斗の世界へ続く道を開くこと。
そして、宝珠を壊せば世界からマナが失われることも。
話を聞き終えても、リリスは何も言わなかった。
長い沈黙が、二人の間に落ちる。
「俺の願いのために、すべての魔族から力を奪うことになる」
ヴァルガは、床へ視線を落とした。
「魔法を失っても、命は失われない。それでも、異形の姿は残る」
人間を遥かに上回る力があったからこそ、魔族は自分たちの身を守ることができた。
その力だけを失えば、人間が何をするか分からない。
「そんなことを、俺の一存で決められるはずがない」
「当たり前でしょ」
リリスが即座に答えた。
ヴァルガは顔を上げる。
「魔族みんなの未来を、あんた一人に決められてたまるもんですか」
責めるような言葉だった。
それなのに、リリスの声はどこか優しかった。
「私は、魔法を……力を失いたくない」
リリスは、自分の指先を見つめる。
その瞬間、赤く色づいた爪が、手のひらよりも長く伸びた。
「怖いわよ。今までできていたことが、何もできなくなるかもしれないんだから」
爪を引っ込めて、ヴァルガへ目を戻す。
「でも、私たちの命までなくなるわけじゃない。それに、魔法を失うのは人間も同じなんでしょ?」
「ああ」
「だったら、私たちにも考えさせて」
ヴァルガは俯いた。
「しかし……」
リリスは、爪の戻った指先を見つめた。
しばらく黙り込んだあと、ぽつりと呟く。
「……晴斗様みたいな人ばかりだったらね」
思いがけず晴斗の名が出て、ヴァルガは顔を上げた。
「種族で差別されず、人間に怯えずに暮らせるなら、こんな力、必要ないのに」
人間に怯えずに暮らせる世界。
その言葉が、ヴァルガの胸に引っかかった。
すべての人間を、晴斗のように変えることはできない。
だが、魔族を傷つけさせないと、人間の国々に約束させることならできるかもしれない。
神殿を失ったリヴェルトは、今まさに混乱の中にある。
復興には、多くの物資と人手が必要になる。
これまで敵だった魔族が、その手を差し伸べたなら。
「……同盟だ」
リリスが顔を上げる。
「何?」
「人間たちと同盟を結ぶ」
ヴァルガは、床へついていた手を握りしめた。
***
ヴァルガは各地の魔族の代表を城へ集め、女神から告げられたことをすべて明かした。
循環の宝珠を壊せば、世界からマナが消えること。
人間も魔族も、魔法やマナによって得た力を失うこと。
そして、奏が遺した黒い剣で宝珠を壊せば、晴斗の世界へ続く道が開くことも。
ヴァルガは、自分の望みを隠さなかった。
晴斗が生きているところを、もう一度だけ見たい。
そのために宝珠を壊したいと思っていると、すべてを話した。
特に、番と巡り会った者たちからは、ヴァルガの願いに同情する声が上がった。
それでも、宝珠を壊すことには反対する者が多かった。
何日も話し合いは続いた。
魔法を失えば、いずれ人間に滅ぼされる。
怒号が飛び交い、魔王の血を引きながら使命を捨てるのかと、ヴァルガを罵る者までいた。
そのどれもが、当然の言葉だった。
ヴァルガは反論せず、一人ずつの声を聞いた。
その一方で、人間も魔法を失うのなら、勇者の召喚も、黒濁のような兵器を生み出すこともできなくなると考える者もいた。
宝珠を守るために生み出され、人間から憎まれ続ける生き方を、ここで終わらせたいという者もいた。
やがて、魔族が力を失っても生きていける世界を先に作ってから、循環の宝珠を壊す方針が決まった。
そのために必要なのは、人間との同盟だった。
ヴァルガが最初に手を差し伸べたのは、リヴェルトだった。
リヴェルトの神殿は、黒い粘液に覆われた化け物に襲われ、崩壊したことになっている。
大司祭と神殿を同時に失い、人々の信仰は揺らいだ。
国を支えていた仕組みも崩れ、復興は思うように進んでいなかった。
ヴァルガは、食料や薬、建物を直すための資材を送った。
魔族の差し出すものを拒み、荷車へ石を投げる者もいた。
それでも、もともと貧富の差が激しかったリヴェルトには、神殿からのわずかな配給だけで命を繋いでいた民も少なくない。
空腹に耐えかねた者から、魔族の配る食料へ手を伸ばした。
翌日も、その次の日も、魔族は食料を運んだ。
食べても何も起こらないと分かると、配給を待つ列は少しずつ長くなっていった。
最後まで魔族を受け入れられない者もいた。
それでも、配給を受け取った子供が礼を言い、瓦礫を運ぶ魔族へ人間が水を差し出す。
そんな小さな変化が、少しずつ増えていった。
復興のために瓦礫を取り除く中で、レオンの遺体が見つかった。
レオンの傍らから、晴斗の腕を材料に作られた黒い剣も回収された。
誰にでも扱えるそれが二度と使われぬよう、ヴァルガは奏の遺した剣で破壊した。
それからレオンの亡骸を引き取り、ミレグへ運んだ。
人間たちに壊された番の墓を建て直し、その隣へレオンを埋葬した。
レオンのしたことを、許すことはできない。
晴斗を利用し、奏の命を奪った。
それでも、かつて兄のように慕った者を、敵国の瓦礫の下へ置き去りにはできなかった。
せめて、愛した者のそばで眠らせてやりたかった。
貧しい民との距離を食料が縮めた一方で、裕福な者たちを動かしたのは利益だった。
魔族の国から運ばれる鉱石や薬草が、新たな商品になる。
人間の作る品を魔族の国へ売る道も開かれた。
復興によって領地に民が戻り、止まっていた商いが動き始めると、魔族との関係を望む者は増えていった。
彼らが偏見を捨てたわけではない。
ただ、魔族を排斥すれば、自分たちも多くのものを失う。
それを理解したのだ。
神殿と深く結びついていた者や、魔族との争いで富を得ていた者たちは、最後まで反対した。
信仰そのものが消えたわけでもない。
それでも、新しく作られた国の仕組みでは、神殿がすべてを決めることはなくなった。
そしてリヴェルトは、最初に魔族との同盟を結んだ人間の国となった。
その変化を見て、他国も少しずつ魔族との交易に応じ始める。
ヴァルガは何度も使者を送り、自ら人間の国へ足を運んだ。
魔族が力を失っても、異形の姿を理由に迫害されることがないように。
魔王がいなくなったあとも、その約束が守られるように。
一つずつ、道を作り続けた。
魔族の未来を守り、もう一度晴斗に会うために。
そうして、五年の月日が流れた。
***
循環の宝珠が安置された部屋に、ヴァルガは立っていた。
手には、奏が遺した黒い剣。
人間との同盟は結ばれた。
魔王がいなくとも国が続く仕組みも、すでに整えてある。
宝珠を壊せば、森に人間を拒む結界を張らなくても済む。
もうすぐ、この魔王城も人が行き来するようになる。
やるべきことは、すべて終えた。
ヴァルガは黒い剣を振り上げ、循環の宝珠へ突き立てた。
宝珠に亀裂が走る。
同時に、黒い剣の刀身にも細いひびが広がった。
砕けた宝珠から、膨大なマナが溢れ出す。
黒い剣はその光に耐えきれないように崩れ、黒い粒となって消えていった。
やがて、目の前に光の扉が開いた。
晴斗を帰した時のように、身体が引き寄せられることはなかった。
光の扉は、ヴァルガが自ら足を踏み入れるのを待つように、ただ静かに開いている。
この向こうに、晴斗のいる世界がある。
晴斗は、自分を覚えていない。
すでに愛する者がいるかもしれない。
会いに行くつもりはなかった。
ただ一目、生きている姿を見る。
それだけでいい。
それに、人間になったら番の絆も感じなくなるだろう。
晴斗を見かけても、今ほどの感情はないかもしれない。
ヴァルガはふっと笑い、小さく呟いた。
「……そんなこと、考えられないな」
ヴァルガは扉へ足を向け、最後に振り返った。
リリスとスラが並んでいる。
リリスは涙を堪えながら、寂しそうに笑った。
「いってらっしゃい、ヴァルガ」
スラも、小さな身体を震わせながら笑っている。
「いってらっしゃいませ、ヴァルガ様」
ヴァルガは二人を見つめた。
「……行ってくる」
もう戻ることはできない。
それでも、そう答えた。
ヴァルガは背を向け、光の中へ足を踏み出した。




