第六十二話 一目でも
晴斗が光に飲まれ、扉が閉まった。
閉まると同時に、扉もその境目も、まるでなかったかのように消えた。
無理矢理作っていた笑みが歪んで消える。
ヴァルガは、そのまま崩れ落ちた。
静寂があたりを包む。
叫んでいた晴斗の声が、耳に残って離れない。
怒られていい。そうされて当然のことをしてきた。
なのに、晴斗は最後に何を言おうとした?
『世界で一番、お前のこと──』
冷たい床に涙が落ちていく。
そんなことを言ってもらう資格はない。
すべては俺のせいだ。
運命の番に出会い、無理矢理攫った。
晴斗と結ばれたくて体を変え、そのせいで晴斗は宝珠を使うことになった。
晴斗を大事にしたくて、ずっとそう生きていこうと思っていた。
なのに、最初から間違っていた。
俺自身が、晴斗の呪いだったのだ。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
異界の扉が開いたとき、城中のマナが大きく揺れた。
それを察知したのだろう。
扉が開き、リリスとスラが駆け込んでくる。
何もない空間の前に膝をつくヴァルガを見て、リリスは足を止めた。
「魔王様……?」
その視線が、室内をさまよう。
「晴斗様は、どちらに?」
ヴァルガは答えられなかった。
口を開けば、もう二度と会えないのだと認めることになる。
リリスの肩に乗ったスラが、眉間に皺を寄せ、体を小さく震わせた。
「魔王様、まさか」
「……帰した」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「帰した……?」
「元の世界へ」
リリスの顔から、血の気が引いていく。
スラは目を瞑り、深く息をついた。
***
あれから、何日が過ぎたのか。
ヴァルガには分からなかった。
気がつけば晴斗の部屋にいた。
ベッドのシーツ。脱いであったシャツ。
それらにまだ晴斗の匂いが残っている。
ベッドに横たわり、それを抱きしめて一日中過ごした。
鍵をかけているので、誰も入ってこない。
扉の向こうから、ときおり誰かの声がする。
耳に入っても、言葉としては届かない。
何も聞こえない。
晴斗の最後の声だけが、いまだに頭から離れないでいた。
『世界で一番、お前のこと──』
その言葉がヴァルガの胸を抉り続ける。
会いたい。
会って抱きしめたい。
すぐ行けるところなら、構わず行って縋り付くだろう。
すまなかったと。そばにいてくれと。
きっと俺は、晴斗が許してくれるまで、無様に謝り続ける。
晴斗の気持ちなど、お構いなしで。
「なんて、浅ましい……」
ヴァルガのひび割れた唇から、乾いた笑いが漏れる。
耐えなければならない。
これは罰だ。
俺の身勝手が引き起こした罰。
そもそも、あちらへ行く方法なんてないのだから、考えたって仕方のないことだ。
晴斗の幸せを願うなら、これが最善なはずだった。
そして、今日も晴斗のベッドでシーツに包まる。
昼も夜も関係ない。
晴斗の匂いが、少しでも長く残るように。
今は、そう願うことしかできなかった。
***
突然、扉がけたたましく叩かれた。
「いい加減にしろ!」
女の声。リリスか。
少しだけ意識が戻る。
それでもそれに応えることもなく、シーツを抱きしめていた。
しばらく扉の叩く音が響いていたが、やがて止まる。
「スラ様! やってください!」
扉の向こうで声が聞こえた。
その瞬間、轟音とともに炎が扉を突き破った。
黒く焦げた扉が、内側へ倒れ込む。
炎はすぐに消えたが、焼け焦げた匂いが部屋に広がった。
晴斗の匂いが消えてしまう。
真っ先に浮かんだのは、それだった。
ヴァルガはシーツとシャツを深く抱きしめ、黒く焦げた入口に立つリリスとスラを睨みつけた。
高いヒールの靴音がツカツカとベッドに近づく。
リリスが寝転んだままのヴァルガを怒りの瞳で見下ろしている。
「いつまで、そうやっているつもり?」
ヴァルガはふいと睨むことをやめ、視線を外した。
リリスの肩に乗っているスラが悲しそうにヴァルガを見つめている。
「魔王様……なんと、ずいぶん痩せて……扉の外に用意された食事にも、一度も手をつけておられないと聞きましたぞ」
リリスが短く息を吐く。
「はっ。このまま被害者ぶって死ぬつもり?」
「こら、リリス……。そんなことを言うために来たわけではないだろう」
スラがリリスを窘めるが、リリスは首を横に振った。
荒い口調は収まる気配がない。
「……あんたのことなんてどうでもいいけど」
リリスは顔を歪ませた。
「晴斗様は、レオンのことで泣いていいと言って、私を抱きしめてくれた」
一瞬、声が震える。
「なのに、私……私たちは、さよならも言えなかった」
リリスは苦しそうに呟く。
「……あの子は、優しい。誰にでも気さくで、城のみんなもあの子が大好きだったのよ」
そんなことは知っている。
晴斗は、人種で差別せず、人の痛みがわかる素晴らしい者だ。
以前は一日の終わりに、城で何があったか話してくれた。
それだけで、晴斗が魔族の皆に好かれていることが手に取るようにわかった。
思い出して、ヴァルガの視界が揺れた。
広いベッドで、隣に笑う晴斗はもういない。
「片腕での生活にも慣れようと頑張ってた。あんたに迷惑をかけたくないって。ずっと一緒に暮らしていきたいからって」
リリスは一度言葉を切り、唇を強く噛んだ。
「最期のときまで、あんたと一緒にいたいって……」
その言葉が、ヴァルガの胸を深く抉る。
「……なのに、騙すみたいに帰すなんて」
「それは……」
「晴斗様のためだと言うんでしょ。分かってるわよ」
リリスは、怒りで震える声を抑えながら続ける。
「でも、晴斗様を帰すと、自分で勝手に決めたくせに、何を落ち込んでるの?」
滲んだ涙を振り払うように、リリスは天井を見据える。
「あんたもレオンもおんなじよ」
それから、もう一度ヴァルガを睨みつけた。
「何も言わず、すべて一人で背負う。それが美徳だとでも思っているの?」
ヴァルガは言い返さなかった。
リリスの言うとおり、晴斗にすべてを知らせず、城の者たちから別れを告げる時間まで奪った。
それでも、あのときは他の道を選べなかった。
この世界で、晴斗は心も身体もぼろぼろになった。
争いのない世界へ帰し、身体を治す。
晴斗を救うには、それしかなかった。
晴斗に帰らないと言われてしまったら、俺は絶対に手放せない。
だから、黙って帰した。
「リリス、そのくらいにしなさい」
スラの静かな声が、部屋に響いた。
「でも……! 晴斗様を信じなかったヴァルガを……私は許せない」
「少し外の空気を吸って、頭を冷やしてきなさい」
普段は穏やかなスラが、珍しく厳しい声を出す。
リリスは俯き、肩に乗っていたスラをベッドへ下ろすと、部屋を出ていった。
スラがふわりと宙へ浮き、ヴァルガの目の前まで近づいてくる。
その場で止まり、ヴァルガの顔を覗き込んだ。
「晴斗様のためとはいえ、番を手放すとは……よく決心なさいました」
スラは、ヴァルガの顔をじっと見つめた。
「番を失えば、気が狂う者も少なくはない。それでも晴斗様を帰した。やはり、あなたは先代様のお子ですな」
父の運命の番は人間で、出会ったときにはすでに家庭を持っていた。
父は、その番を尊重して身を引いた。
それでも、変わることなく俺を慈しんでくれた。
父と俺は違う。
俺は、こんなにも弱い。
「……父上のようにはなれない」
晴斗のいない世界で、この先も変わらず生き続けることなどできそうになかった。
ヴァルガは、胸に抱えたシーツへ顔を埋める。
「一目……」
掠れた声が、喉に引っかかった。
ひび割れた唇が切れ、口の中に血の味が滲んだ。
それでも、もう一度だけ口を開く。
「一目だけでいい……」
声が続かない。
ヴァルガは浅く息を吸い、胸に抱えたシーツを強く握りしめた。
「晴斗が、生きているところを……もう一度だけ、見たい」
本当は、もう一度抱きしめたい。
だが、それでは晴斗を帰した意味がない。
自分の存在が、もう一度晴斗を苦しめるかもしれない。
だから、姿を見るだけでいい。
失った腕を取り戻し、元の世界で笑っている。
それを一目だけ確かめられたなら。
それ以上は、何も望まない。
長い沈黙が落ちた。
スラの小さな身体が、わずかに震えている。
「先代様も……私を置いて逝かれました」
その声は、いつもの穏やかなものではなかった。
「そして、レオンまで」
スラは俯き、目を閉じる。
「皆、私よりずっと若いというのに。どうして、先に逝ってしまうのでしょうな」
声の最後が、微かに揺れた。
ヴァルガは顔を上げられなかった。
レオンはひどい裏切りをした。
だが、兄のような感情はどうしても消えない。
スラにとっても、大切に見守ってきた者の一人だった。
「もう、若い者が死んでいくのを見るのは御免ですぞ」
スラが、ゆっくりと顔を上げる。
「あなたまで、先代様やレオンのように見送れと仰るのですか」
ヴァルガは答えられなかった。
死ぬつもりはないと言えば嘘になるかもしれない。
死んだほうがきっと楽だ。
レオンも、どこかでそう思っていたのかもしれない。
愛する者がいなくなった世界で、生きていくのはあまりにつらすぎる。
スラの視線が、ヴァルガの痩せた身体から、抱きしめているシーツへ移る。
「……先代様も、一度だけ、同じように願いを口になさいました」
ヴァルガの指が、わずかに動いた。
「……父上が?」
「人の身となり、番の前には姿を現さず、ただそばで見守りながら生きていきたいと」
初めて聞く話だった。
ヴァルガの知る父は、いつも穏やかだった。
番を得られなかった苦しみを口にすることも、王としての役目を投げ出すこともなかった。
「一時は、魔王の座も、伴侶も、幼いあなたも置いていくことになる。それでも構わないと、そこまで思い詰めておられました」
父上が、母上や俺を。
魔族を。
すべて捨ててでも、番のそばへ行こうとしていた。
信じられなかった。
「ですが、先代様は踏みとどまられた」
スラは、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「迷い、苦しんだ末に、この国へ残ることを選ばれたのです」
父も、苦しんでいた。
初めから迷いなく、番を諦められたわけではなかった。
「そのとき、先代様から聞いたのです」
スラの声が低くなる。
「古の魔王は、神と言葉を交わすことができたと」
ヴァルガは、ゆっくりと顔を上げた。
それは、代々の魔王だけに受け継がれてきた秘密だった。
「父上が……お前に?」
「ええ。先代様がその秘密を私へ明かされたのは、あの一度だけです」
スラの目に、深い悲しみが浮かんでいる。
「人の身を得る方法を神へ尋ねようと、それほど思い詰めておられたのでしょう」
スラは、長いあいだこのことを誰にも話さずにいた。
先代との約束だったのかもしれない。
それでも今、ヴァルガへ明かした。
「先代様は何日ものあいだ書斎に閉じこもり、神と交信するための術を探しておられました」
「神と……話せたのか」
「分かりません。書斎から出てこられたときには、人の身となることを諦めておられました」
何を見つけ、何を聞いたのか。
父は、スラにも話さなかったのだろう。
「晴斗様のお姿を、もう一度だけ見たいのでしょう?」
ヴァルガは答えようとした。
けれど、声が出ない。
シーツを握ったまま、わずかに頷いた。
「ならば、先代様と同じように、神へお尋ねになってはいかがです」
神ならば、異なる世界にいる晴斗の姿を見る方法を知っているかもしれない。
もう二度と会うことはできなくても。
一目だけなら、許されるかもしれない。
スラは悲しそうに目を閉じた。
「何を言われるのか、何が起こるのか……。そもそも、神と交信する方法が残されているのかもわかりませぬ」
やがて目を開き、ヴァルガをまっすぐに見つめる。
「しかし、何もせずに、あなたがこのまま弱り果てていくよりはずっといい」
ヴァルガはシーツを手放し、震える腕をベッドへついた。
身体を起こすだけで、息が切れる。
それでも足を床へ下ろし、立ち上がろうとした。
視界が暗くなった。
力の入らない膝が折れ、ヴァルガの身体が床へ崩れ落ちる。
「魔王様!」
スラが慌てて飛んでくる。
ヴァルガは床へ手をつき、もう一度身体を起こそうとした。
「……父上の、書斎へ」
「その身体では、書斎まで辿り着けませんぞ」
「行く……」
「まずは、食事です」
厳しい声だった。
「生きなければ、晴斗様のお姿を見ることもできません」
ヴァルガは動きを止めた。
晴斗の姿を、もう一度見る。
そのためには、生きなければならない。
ヴァルガは床に膝をついたまま、ゆっくりと頷いた。




