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第六十一話 世界で一番

それから毎日、身支度の練習をした。


用意してもらったボタンのないシャツなら、一人でも着ることができる。


それでも、前に着ていた服を諦めたくなくて、ボタンを留める練習も続けた。


食事は、右手だけでもなんとかなった。


ヴァルガが寂しそうにするので、たまには食べさせてもらうことにしたけど。


厨房でも、料理長が俺にできる仕事を用意してくれた。


片腕では難しいこともあったけれど、そんな時は厨房の仲間たちが当たり前のように手を貸してくれる。


奏にも毎日会いに行った。

その日できたことを、一つずつ話して聞かせた。


口に出した良い報告は、俺に少しずつ力を与える。なんとなく、奏も笑ってる気がした。


奏の身体が傷まないように施された処置が、あとどれだけもつのかわからない。


そろそろ、奏を眠らせないといけない。

そう思いつつ、もう少しだけ、と願ってしまう。


腕の痛みは、なかなか引かなかった。


多分、これからずっと、この痛みとは付き合っていくことになるのだろう。


それでも、俺にはみんながいる。


ヴァルガもいる。


それなら、この先もきっとやっていける。


そう思えるようになった頃から、入れ替わるように、ヴァルガは少しずつ元気をなくしていった。


俺を一人で行かせることが増え、やがて、どこへもついてこなくなった。


以前なら、何をするにしても仕事を放り出して、一緒に行こうとしてたのに。


自由にしてくれるようになったんだと思えば、いいのかもしれない。


けれど、なぜか俺だけが置いていかれているような気がした。


ヴァルガは、笑うことも少なくなった。


俺から抱きつけば、以前と同じように抱きしめ返してくれる。


けれど、ヴァルガの方から俺へ触れることは、少しずつ減っていった。


「最近、どうした?」


ある日、そう尋ねてみた。


「何かあるなら、ちゃんと言ってくれ」


ヴァルガはしばらく俺を見つめたあと、静かに目を伏せた。


「……何もない」


それ以上聞いても、ヴァルガは答えてくれなかった。


そのくせ、夜になれば必ず俺の隣で眠った。


少し、もやもやする。


でもヴァルガの腕の中で、その温かさに安心してしまう。

そうやって、俺はいつもすぐ眠ってしまった。



***



数日後、俺は決心して身支度を終えてから、ヴァルガに言った。


「奏を埋葬してやりたい」


棺に飾られた花は、枯れるたびに何度も替えられていた。


こんなふうにいつまでも、奏を縛りつけていては駄目だ。


俺がそう告げると、ヴァルガは言葉を失い、立ち尽くしていた。


「ヴァルガ?」


呼びかけても、返事はない。

赤い瞳が、茫然と俺を見つめている。


どうしたんだろう。


心配になって肩に触れる。


「ヴァルガ……?」


戸惑っていると、ヴァルガがはっと瞬きをした。

ようやく我に返ったようだった。


「そう、か……」


次の瞬間、強く抱きしめられた。


「……決心したんだな」


ヴァルガが震えていた。


「泣いてるの……?」


問いかけに答えはない。


ヴァルガの喉から、嗚咽を押し殺すような音が漏れていた。


「ど、どうしたんだよ……」


ここまで泣いてるヴァルガを見たのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。


大きな背中をそっと撫でてやる。


なんだか可哀想な子供みたいで、どうにか慰めたくて口を開いた。


「俺、お前が支えてくれたから、奏とお別れできるんだよ」


「いつも、ありがとな。これからも、ずっと一緒にいよう」


俺を抱く腕に、一瞬、痛いほどの力がこもった。


けれど、すぐにその力は緩んだ。


ヴァルガが俺の肩からゆっくりと顔を上げる。


濡れた瞳と目が合った。


「……わかった」


ヴァルガはまだ泣いていたけど、それでも笑った。


「今から、奏のところに行こう」


俺たちはそのまま部屋を出て、鎮魂の間へ向かった。


ヴァルガは俺の手をぎゅっと握り、離さなかった。


俺がここにいることを確かめるみたいに、何度も指先へ力を込めてくる。


奏のことばかりで、やきもちを焼かせちゃったのかな。


いや、そんなはずはない。


奏のことを聞かせてくれ、と言ったのはヴァルガだ。

俺の話を、ずっと頷きながら聞いてくれていた。


それでも、ヴァルガから不安のようなものを感じる。


俺はできるかぎりその不安を取り除いてやりたくて、強く手を握り返した。


手を握り合ったまま、俺たちは鎮魂の間へ着いた。


ヴァルガが扉を開くと、いつもの場所に奏が眠っていた。


一緒に中へ入り、ヴァルガが背後で扉を閉めた。


そのまま奏のところへ行くのかと思ったけれど、広間の途中で足を止める。


「ヴァルガ?」


繋いでいた手が、ゆっくりと離れていった。


「……お前に頼みたいことがある」


「頼み?」


ヴァルガは服の内側へ手を入れた。


取り出したものを、棺から少し離れた石床へ置いた。


黒い光を失った、透明な玉だった。


戦禍の宝珠だ。


「二つの宝珠は、元々は人間たちのものだ」


「だが、宝珠を巡って人間同士の争いが起きた。神はそれを嘆き、人間たちから宝珠を取り上げ、我ら魔族に守るよう託した」


大司祭は、魔族が人間から宝珠を奪ったと言っていた。


随分と話が違う。


人間側が勝手に話を変えてしまってるのか?


魔族を悪者に仕立てるために。


それに、なんでこんな危ないものを、魔族が守らないといけないんだ?


そう聞こうとして、言葉を飲み込んだ。


この宝珠のせいで、俺は左腕を失った。


奏も、命を落とした。


ヴァルガも同じことを考えているのか、宝珠を見下ろす表情は暗かった。


「これを壊してほしい」


「俺が?」


「今のこれは、武器を生み、争いの力を増幅させる。だが、本来は違った」


「負の感情を吸収して、浄化するためのものだった。人間が己の欲望で、使い方を捻じ曲げたんだ」


「本来の力を失うほど歪んでしまった。もうこのままにはしておけない」


確かに、こんな危険なものを残しておくわけにはいかない。


「でも、どうやって壊すんだ?」


ヴァルガは、しばらく宝珠を見つめていた。


「レオンは、転移者にしか壊せないと言っていたな」


「……そういや、聞こえてたんだったな」


あの時、ヴァルガは動けなかっただけで、何もかも見えていた。


俺の腕が切り落とされた時も、ずっと。


赤い瞳が、俺の失われた左腕へ向けられる。


「レオンが知っていたのは一部だけだ。転移者が聖剣を使わなければ、宝珠は壊せない」


ヴァルガは棺へ歩み寄った。


奏の胸の上に置かれた聖剣へ手を伸ばし、その柄に触れる。


けれど、すぐには持ち上げなかった。


眠る奏の顔を、しばらく見つめる。


「……奏。借りるぞ」


静かに声をかけてから、鞘に収められた聖剣を持ち上げた。


棺のそばで聖剣を鞘から抜き、俺へ柄を差し出す。


「晴斗。これで宝珠を壊してくれ」


「俺には無理だよ」


差し出された聖剣を見つめる。


「俺は勇者じゃない。使えないよ」


「それでも、握ってみてくれ」


ヴァルガの声は静かだった。


どうして俺に頼むのか、やっぱり分からない。


それでもヴァルガが言うなら、試すくらいはしてもいいと思った。


右手を伸ばし、聖剣の柄を握る。


その瞬間、刀身から眩い光が溢れ出した。


「……え?」


突然の光に目を細める。


ヴァルガが持っていた時には、何の反応も示さなかった聖剣。


それが今、俺の手の中で強く輝いている。


聖剣に選ばれなかったはずの俺に、応えるように。


「聖剣は、お前を拒まない」


ヴァルガは驚いた様子もなく、静かに俺を見つめていた。


右腕へ力を込める。


片手では支えきれないと思っていた剣が、不思議なくらい手に馴染んだ。


ゆっくりと持ち上げ、戦禍の宝珠へ向けて構える。


ヴァルガが背後へ回り、俺の右手ごと柄を包み込んだ。


大きな身体が、背中へ重なる。


「俺が支える」


耳元で、低い声がした。


「このまま、振り下ろせ」


ヴァルガに支えられながら、言われるがままに右腕へ力を込めた。


眩い光を放つ聖剣を、戦禍の宝珠へ振り下ろす。


甲高い音が、鎮魂の間に響き渡った。


刀身の下で、宝珠に一本の亀裂が走る。


そこから枝分かれするように、無数の亀裂が広がっていった。


宝珠が砕け散った。


溢れ出した光に視界が真っ白になる。


ヴァルガの腕が俺の身体へ回され、散った破片から庇うように抱き寄せられた。


聖剣が右手から滑り落ち、硬い音を立てて石床へ転がる。


光が収まっても、鎮魂の間の中央には眩い輝きが残っていた。


何もなかった空間に、縦長の亀裂が浮かんでいる。


亀裂は音もなく左右へ開き、人が通れるほど大きな扉へ形を変えた。


その向こうには、何も見えない。


ただ、どこまでも白い光だけが広がっていた。


突然、体がそっちに吸い寄せられるような感覚がした。


「っ……!」


よろめき、咄嗟にヴァルガへしがみつく。


「なんだ? これ……」


風は吹いていない。


ヴァルガの銀色の髪も、棺に飾られた花も揺れていなかった。


それなのに、俺の身体だけが見えない力に引かれ続けている。


目の前のヴァルガには、何も起きていなかった。


ふと棺へ目を向ける。


奏の身体も、扉へ向かって少しずつずれていた。


その肩が棺の縁に当たり、動きが止まる。


「奏……?」


ヴァルガは俺から腕を解くと、すぐに棺へ歩み寄った。


支えを失った俺は、膝と右手を床につく。


引かれる力に耐えようと身体を伏せたが、それでも少しずつ扉へ近づいてしまう。


ヴァルガは奏の背中と膝裏へ腕を差し入れ、静かに抱き上げた。


それから、棺の脇へそっと横たえる。


床へ降ろされた奏の身体は白い光に包まれ、抵抗もなく扉へ引かれていった。


「ヴァルガ!」


名前を呼び、右手を伸ばす。


ヴァルガはすぐに俺のもとへ戻ると、床から抱き上げてくれた。


その首へ必死に腕を回す。


「これ、なんなんだよ。奏が吸い込まれて──」


「お別れだ、晴斗」


「え?」


ヴァルガの赤い瞳が、すぐそばで俺を見つめていた。


その目は、泣いたあとのように濡れている。


「宝珠が壊れると、異界の扉が開く」


「ヴァルガ……?」


胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。


「これで、お前も奏も元の世界へ帰れる」


頭の中が、真っ白になった。


身体は今も扉へ引かれている。


ヴァルガの腕だけが、それを繋ぎ止めていた。


「遥か昔、ある魔王が女神に尋ねた。哀れな勇者を、元の世界へ帰す方法はないのかと」


ヴァルガの声は震えていた。


「女神が告げた方法は、魔王となる者だけに伝えられてきた」


「じゃあ……最初から、知ってたのか?」


「ああ」


俺を抱く腕に、力がこもった。


「お前が帰る方法を、俺は知っていた。だが、言えなかった」


ヴァルガが苦しそうに目を伏せる。


「お前と、離れたくなかった……」


最近、ヴァルガが俺から離れるようになった理由。


奏を埋葬したいと告げた時、あんなにも泣いた理由。


ようやく、すべてが繋がった。


ヴァルガは、俺の身体が聖剣を振れるまで回復するのを待っていた。


奏を見送る決心がつき、宝珠を壊すこの時まで。


赤い瞳が、俺の失われた左腕へ向けられる。


「こうなったのも、すべて俺が招いたことだ。自分勝手に振る舞い、その代償をすべてお前に背負わせてしまった」


ヴァルガの指が、包帯へ触れかけて止まる。


「もう、夢は終わりにしなければならない」


「……なんだよ、それ……」


夢なんかじゃない。


俺はここで、ヴァルガと生きていくつもりだった。


「元の世界へ戻れば、お前たちの時間も、この世界へ来る前まで戻る」


ヴァルガが、俺の左腕から奏へ視線を移した。


「お前の腕も、削られた生命力も元に戻る。奏も生き返る」


「そんな……」


奏が生き返る。


失った腕も、生命力も戻る。


それでも、胸に込み上げてきたのは喜びではなかった。


ヴァルガの腕が、俺の身体から離れる。


「待って……!」


もう一度しがみつこうとした時には、俺の身体は扉へ向かって引かれていた。


伸ばした右手を、ヴァルガは取ってくれない。


ただその場に立ち、離れていく俺を見つめている。


「ヴァルガ!」


床へ指を立てても、掴めるものは何もなかった。


奏と一緒に、少しずつ光の扉へ近づいていく。


「なんで、こんな騙すようなことするんだよ!」


「話せば、お前は帰らないと言う」


「当たり前だろ!」


「だが、お前は眠るたび、帰りたいと泣いていた」


扉へ引かれる力が強まり、床についた右手が滑る。


「だからって、こんな大事なこと勝手に……」


ヴァルガは答えなかった。


握り締められた両手が、微かに震えている。


「元の世界へ戻れば、この世界で過ごした記憶もなくなる。だから、きっと大丈夫だ」


「お前との……記憶も……?」


ヴァルガの顔が、泣き出しそうに歪んだ。


「……幸せになってほしい。俺の隣でなくても、お前ならなれるはずだ」


無理に笑おうとしているのが分かった。


「ずっと、笑っていてくれ……」


それは、俺にしてほしいことを尋ねた時にも言われた言葉だった。


あの時から、ヴァルガは俺を帰すつもりだったんだ。


「何かあったら、ちゃんと話し合おうって言っただろ……!」


扉へ引かれながら、何度もヴァルガへ手を伸ばす。


どれだけ伸ばしても、もう届かない。


「なんで全部、勝手に決めるんだよ……! 俺のこと、やっぱり何も分かってない!」


ヴァルガは何も言い返さなかった。


奏の身体は、すでに半分ほど扉の中へ入っている。


俺の背中にも、白い光が触れた。


怒りよりも強い恐怖が、急に込み上げてきた。


このまま吸い込まれたら、もうヴァルガには会えない。


一緒に過ごした時間も、全部忘れてしまうなんて。


「嫌だ……」


声が震えた。


「嫌だ……!」


「晴斗……」


「ヴァルガ……離れたくない……!」


扉へ引き込まれながらも、ヴァルガから目を離せなかった。


ヴァルガも、俺から目を逸らさなかった。


苦しそうに顔を歪め、胸元を片手で押さえている。


それでも、俺を安心させるように笑った。


その顔を、茫然と見つめる。


もう何を言えばいいのかも分からなかった。


それでも、これだけは伝えなければならないと思った。


「世界で一番、お前のこと──」


最後まで言い切るよりも早く、伸ばした指先まで光に飲まれた。


そうして、俺の意識は闇へ消えた。



***



「大丈夫ですか!」


誰かの声が聞こえた。


ゆっくりと目を開ける。


眩しい光。


車が走る音と、俺たちを取り囲む人の声。


背中には、硬いアスファルトの感触があった。


どうして、こんなところで倒れているんだろう。


「奏……?」


すぐそばに、奏が倒れていた。


慌てて身体を起こし、その肩へ手を伸ばす。


「奏!」


返事はない。


けれど、胸はゆっくりと上下していた。


生きている。


なぜそんな当たり前のことに安心したのか、自分でも分からなかった。


「動かないでください。今、救急車を呼んでますから」


そばにしゃがみ込んだ女の人が、俺の肩を支えてくれる。


「二人とも、目立った怪我はなさそうですけど、どこか痛むところはありますか?」


首を振ろうとして、左手に何かを握っていることに気づいた。


ゆっくりと指を開く。


手のひらにあったのは、飾り気のない一つの指輪だった。

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