第六十話 それぞれの痛み
崩れ落ちた天井の裂け目を抜け、ヴァルガは晴斗と奏を抱えたまま、神殿の外へ飛び出した。
直後、背後で何かが弾けるような、湿った音が響いた。
振り返ると、崩れた広間の隙間から、大量の黒い泥が噴き出していた。
瓦礫に押し潰された黒濁の巨体が、形を失ったのだ。
黒い泥は壊れた壁や窓から溢れ、神殿の外壁を伝って流れ落ちていく。
やがて神殿前の広場を覆い、王都の通りへまで流れ出した。
眼下では、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っている。
土煙にまみれた神官も、傷ついた兵士も、民に混じって城門へ向かっていた。
背後で再び轟音が響き、残っていた神殿の外壁が崩れ落ちる。
王都を支配していた神殿が、黒い泥を吐き出しながら、その姿を失っていく。
けれど、逃げる者の中に、振り返る者は一人もいなかった。
ヴァルガは腕の中の晴斗へ目を落とし、すぐに前へ向き直った。
王都を抜け、城壁の外まで一気に飛ぶ。
やがて眼下に、荒れ果てた大地には似つかわしくない、小さな花の咲く場所が見えてきた。
晴斗の状態を確かめるため、ヴァルガはその場所へ降り立った。
着地と同時に風が巻き起こり、足元の花々が大きく揺れる。
黒い剣をそばへ置き、晴斗を奏ごとゆっくりと地面へ下ろした。
それから、晴斗の左腕を確認した。
切断された場所より上には、レオンが巻いた布がきつく食い込んでいる。
そのおかげで出血は抑えられていたが、傷口はむき出しのままだった。
ヴァルガは自分の衣服を裂き、傷口を覆うように巻きつけた。
晴斗は何も反応しなかった。
ヴァルガが奏を受け取ろうと手を伸ばすと、晴斗は残された右腕に力を込め、さらに強く抱きしめる。
ヴァルガは、それ以上触れることができなかった。
腕の中の奏は動かない。
瓦礫の下には、レオンを残してきた。
奏の最後の言葉も、崩落の向こうで見たレオンの笑みも、頭から離れなかった。
遠くでは、神殿が崩れる音がまだ続いている。
けれど、王都の外は何事もなかったかのように静かだった。
晴斗には、その音さえ聞こえていないようだった。
ヴァルガは晴斗の頬へ添えた手を動かし、乱れた髪をそっと撫でる。
「晴斗」
呼びかけると、晴斗の唇がわずかに動いた。
「……死んじゃった……」
「奏が、死んじゃったよ……ヴァルガ……」
晴斗の瞳から涙が溢れ出す。
「なのに、俺、ちゃんと抱きしめてもやれない……」
奏の頭の下に差し込んだ左腕。
その肘から先は、もうどこにもない。
傷口に巻いた布には、すでに赤い血が滲んでいた。
ヴァルガは息が詰まり、晴斗を抱きしめた。
奏と一緒に。
「……帰りたい」
晴斗の声は、風に消えてしまいそうなほど小さかった。
「もう……帰りたいよ……!」
晴斗の言葉が、ヴァルガの胸を締め上げる。
ヴァルガは、どこへとは尋ねなかった。
これほど傷ついた晴斗が、そう願うのは当然だった。
胸の奥の痛みを押し殺し、晴斗を抱く腕に力を込める。
「……ああ。俺が必ず……」
声が掠れる。
それでも晴斗に言わなければ。
「……お前の望みを叶える」
ヴァルガの頬を、涙が一筋伝う。
すぐに袖で拭った。
それからヴァルガは、黒い剣を手に、晴斗と奏を抱き上げて空へ飛び立った。
***
俺たち二人を抱えたヴァルガは、さすがに重そうだった。
それでも、人目を避けようともせず、無理をして速く飛んでいる気がした。
俺とヴァルガ。それに、奏とレオン。
四人で地上を旅した時は、あんなに時間がかかったのに。
どれくらい飛び続けていたのかも分からないうちに、魔王の森が見えてきた。
魔王城に着いても、俺は奏を離せなかった。
ヴァルガは俺たちを抱えたまま、正門の前へゆっくりと降り立った。
見ると、ヴァルガの頬に汗が流れ落ちている。
赤い瞳には疲労の影が濃く映っていた。
「ま、魔王様!?」
門を守っていた兵士たちが、驚いた声を上げる。
ヴァルガはすぐに命じた。
「治療師を呼べ。それから、棺を一つ用意しろ。急げ」
「は、はい!」
一人の兵士が、慌てて城の中へ駆け込んでいく。
棺。
その言葉が、胸の奥へ重く落ちた。
奏を抱く右腕に、また力が入る。
「晴斗」
ヴァルガが俺の顔を覗き込んだ。
「奏を、ゆっくり休ませてやろう」
奏の顔を見る。
目を閉じたその顔は穏やかで、今にも目を覚ましそうだった。
まだ、離したくなかった。
このままずっと、抱きしめていたかった。
それでも、残された右腕から、少しずつ力を抜いた。
ヴァルガが奏をゆっくりと抱き上げ、そばに残っていた兵士へ預ける。
「丁重に運べ。棺が整うまでは、静かな部屋へ寝かせておけ」
「承知しました」
兵士は両腕で奏を抱き、深く頭を下げた。
奏の身体が、俺から離れていく。
追いかけるように右手を伸ばしかけた、そのとき。
城の扉が、慌ただしく開いた。
「魔王様! 晴斗様!」
リリスが、スラ様を肩に乗せたまま走ってくる。
その顔には、喜びが浮かんでいた。
けれど、近づくにつれて、その足が遅くなる。
紫色の瞳が、俺の失われた左腕へ向けられた。
次に、兵士に抱えられた奏を見る。
リリスの顔から、笑みが消えた。
「晴斗、様……?」
肩に乗ったスラ様も、くりっとした目を大きく見開いている。
「話は後だ。晴斗の治療が先だ」
ヴァルガが俺を抱き直し、そのまま城の中へ向かって歩き出した。
「……リリス」
スラ様の低い声が響いた。
リリスははっとして踵を返し、ヴァルガのあとを追う。
ヴァルガは足を緩めることなく、俺を抱いたまま治療室へ向かった。
***
目を覚ますと、見慣れた天井があった。
ぼんやりと眺めているうちに、ここが魔王城にある自分の部屋だと気づく。
身体が鉛のように重かった。
左腕を持ち上げる。
毛布の下で動いたのは、肘までだった。
その先には、きつく巻かれた白い包帯しかない。
それを見た瞬間、神殿で起きたことが一気に蘇ってきた。
切り落とされた左腕。
血に濡れた奏。
俺を守れと、ヴァルガに託した声。
途端に、胸の奥が強く痛んだ。
あれは、本当にあったことなんだ。
右手に、温かなものが触れている。
顔を向けると、ベッドのそばにヴァルガがいた。
椅子に腰かけ、俺の手を握ったまま、ベッドへ突っ伏すように眠っている。
銀色の髪は乱れ、目を閉じた顔には濃い疲労が残っていた。
俺が指を動かすと、ヴァルガの瞼がすぐに開いた。
赤い瞳が、まっすぐに俺を捉える。
「晴斗、目を覚ましたか」
俺の手を握る指に、力がこもった。
ヴァルガの薬指に残った指輪が、俺の手に触れる。
二つで揃いだったのに、今はもう、ヴァルガのものしか残っていない。
胸の奥が、また苦しくなった。
「……ごめんな。俺の指輪、なくなっちゃった」
ヴァルガは黙って首を振り、俺の手をさらに強く握った。
「……俺、結構寝てた?」
「ああ。二日ほどだ」
二日。
その言葉に、はっとした。
「奏は?」
二日も経っている。
俺が眠っているあいだに、もう──
「もしかして、もうお墓に入れちゃった?」
言いながら、声が震えた。
まだ、さよならなんて言えない。
赤い瞳が、わずかに伏せられた。
「身体を清め、棺に寝かせてある。傷まぬよう、少しだけ処置も施した」
ヴァルガは俺の手を握ったまま、静かに続けた。
「蓋は、まだ閉じていない」
俺は毛布を押しのけた。
「会いたい」
身体を起こした途端、目の前が大きく揺れた。
腕に力が入らず、そのままベッドから落ちそうになる。
ヴァルガが立ち上がり、俺の身体を抱き止めた。
「まだ動くな」
「でも、奏に……」
「分かっている」
ヴァルガは俺の背中と膝裏へ腕を回し、ゆっくりと抱き上げた。
「俺が連れていく」
俺は残された右腕を、ヴァルガの首へ回した。
失われた左側だけが、ひどく寒かった。
ヴァルガに抱かれたまま、部屋を出た。
廊下を進んでいると、向こうからリリスが歩いてきた。
肩にはスラ様が乗っている。
「晴斗様!」
俺が目を覚ましたことに気づき、リリスの顔が明るくなる。
「よかった……! 本当に、よかったです」
けれど、俺を抱くヴァルガを見上げると、その表情が曇った。
「魔王様も、少しお休みになってはいかがですか? 帰ってきて以来、ずっと晴斗様につきっきりで……」
俺は思わずヴァルガを見た。
至近距離で、赤い瞳が優しく細められた。
「大丈夫だ」
スラ様は重々しく口を開く。
「……晴斗様には、我らが付き添いますぞ」
「必要ない」
ヴァルガは足を止めなかった。
「ヴァルガ……」
俺を抱く腕に、わずかに力がこもる。
「今は、俺に任せていろ」
リリスとスラ様は、それ以上何も言わず、俺たちのあとをついてきた。
やがて、ヴァルガが廊下の奥にある大きな扉の前で足を止めた。
リリスが先へ進み、両開きの扉を静かに開く。
その先には、高い天井を持つ広間が広がっていた。
等間隔に並ぶ黒い石柱。
壁に設けられた細長い窓から、淡い光が差し込んでいる。
大勢が入れるほど広いのに、人の気配はなく、足音さえ響きそうなほど静かだった。
「ここは……?」
ここで暮らしていた時も、この部屋には入ったことがなかった。
「戦で亡くなった者を弔うための、鎮魂の間だ」
広間の中央に、一つの棺が置かれていた。
蓋が開いたその中に、花に囲まれて奏が眠っていた。
身体から血の汚れは拭われ、乱れていた髪も綺麗に整えられている。
胸の上に、鞘に収められた聖剣が置かれていた。
奏の顔は、神殿で見た時よりもずっと穏やかだった。
ただ眠っているようにしか見えない。
ヴァルガは棺のそばへ歩み寄ると、その場へ片膝をついた。
俺を腕から降ろすことはせず、奏へ手が届くところまで身体を近づけてくれる。
右手を伸ばし、奏の頬へ触れた。
冷たかった。
どれだけ待っても、呼吸する気配はない。
「奏」
名前を呼んでも、閉じた瞼は動かなかった。
頬から手を滑らせ、棺の中に横たえられた手を握る。
「……ずっと、俺を助けようとしてくれた」
奏は、俺の心配ばかりしていた。
元の世界に帰そうとしたのだって、俺を助けるためだ。
自分も帰りたいはずなのに、それよりも俺のことばかり考えて。
俺を守るために、命まで投げ出してしまった。
「ごめん……」
冷たい指を、強く握る。
「助けてくれて……ありがとう」
俺の身体を支えるヴァルガの腕に、わずかに力がこもった。
奏の手を握ったまま、ヴァルガの胸へ縋るようにして、俺は泣いた。
***
部屋へ戻ると、ヴァルガは俺をベッドへ降ろした。
背中へ枕を入れ、身体を起こしたままでも楽にいられるようにしてくれる。
それから毛布を掛け直し、ベッドのそばへ腰を下ろした。
ヴァルガは包帯に覆われた、俺の左腕を見つめた。
「……痛みはあるか?」
ヴァルガの指が包帯のそばへ触れ、ためらうように止まった。
「スラから、リュネアを使われたと聞いた。あれは身体に毒だ」
赤い瞳が、痛みに耐えるように細められる。
「傷には、もっと安全な鎮痛剤を使わせたが……」
確かに、切られた時は何も感じなかった腕が、今はずきりと痛む。
それでも、俺は首を振った。
「……平気だよ。俺の腕なんて、奏に比べたら……」
思い出してまた目頭が熱くなる。
「……奏とは、小さい頃からずっと一緒だったんだ」
ヴァルガは何も言わず、俺の言葉を待っている。
「幼馴染って言ってたけど、俺は兄弟みたいに思ってた」
いつもそばにいることが、当たり前だった。
この世界に来てから離れていた時だって、どこかで奏も生きていると分かっていた。
もう二度と会えなくなるなんて、考えたこともなかった。
「ヴァルガ」
「……あいつを、綺麗に寝かせてくれてありがとう」
色とりどりの花に囲まれた姿から、奏が大事にされたことが伝わってきた。
それが、何よりの慰めになっていた。
ヴァルガの赤い瞳が、静かに俺を見つめる。
「礼を言う必要はない」
大きな手が、俺の髪をゆっくりと撫でた。
「奏は、最後までお前を守った。粗末に扱えるはずがない」
「……うん」
また涙が滲みそうになり、目を伏せる。
「それでも、ありがとう」
髪を撫でる手が、ほんの一瞬止まった。
「ああ」
ヴァルガは今度は否定せず、俺の言葉を受け取ってくれた。
「奏のことを、もっと聞かせてくれ」
「……いっぱいあるよ」
奏と過ごした時間は、短い言葉で語り尽くせるようなものではなかった。
俺は思い出せるところから、少しずつヴァルガに話し始めた。
***
次の日から、俺は身の回りのことを自分でできるように練習した。
ヴァルガは何かと手伝いたがったけど、きっぱりと断った。
それでも片手でシャツのボタンを留めるのは難しくて、ヴァルガにやってもらった。
「ボタンなしのシャツを用意してもらおうな。そうしたら自分でできるだろ?」
ボタンを留め終わったヴァルガに言うと、寂しそうな声が返ってくる。
「お前の世話をしたい。もっとたくさん……」
俯いて表情は見えない。
確かに、久々にヴァルガと魔王城に帰ってこれて、二人きりの時間だ。
少しはこいつの言うことも聞いてやりたいけど。
「いや、なんでも甘えてるとクセになるから。俺はお前と対等でいたいんだよ」
命の消費期限はわからない。
結局、俺の生命力は元には戻らなかった。
いつ消えるのか、この先長く生きれるのか。
どちらにしても、ヴァルガに迷惑をかけて過ごすのは嫌だった。
身支度と食事を終えて、少し散歩に出た。
ヴァルガには、無理やり休んでもらった。
ずっと俺を看病して寝てなかったらしい。
ヴァルガは、悲しそうにしてたけど結局は折れて俺の言う通りにした。
廊下ですれ違う魔族たちは、俺の腕のことをすごく悲しんでくれた。それでも気さくに話しかけてくれることに、心が温かくなった。
食堂の入り口からそっと中を覗く。
スープの良い匂いが廊下まで漂ってきていた。
昼前なので、中は相変わらず忙しそうだ。
クマの姿の料理長が、フライパンを返している。
やがて俺の視線に気付き、驚いた顔でこちらに向かってきた。
「番様!」
「ただいま」
「心配しました。攫われたと聞いて……でもご無事で……」
そう言って俺の左腕を見て、言葉を失っている。
話は聞いていたんだろうけど、実際見たら生々しいだろうな。
俺だって、誰かがこんなふうになってるのを見たら、なんて声をかければいいかわからないだろう。
「気を使わなくていいよ。俺は大丈夫。でも、ここは手伝えなくなっちゃったな」
厨房を見渡す。
慌ただしい空気、食材の匂い。
ここが好きだった。
「……片腕でも、仕事はたんまりあります」
料理長が目を赤くして俺を見ていた。
「ここの忙しさはご存知でしょう? また、お願いします」
泣き笑いのようになった毛むくじゃらの顔を見て、俺も少し泣いてしまった。
厨房は待ってくれない。
まだ鼻水を垂らしてる料理長を促して仕事に戻ってもらった。
必ず手伝いに来ると約束して。
泣いたから、ちょっと外の空気でも吸おうと玄関ホールまでやってきた。
いかつい顔の門番たちがお辞儀をして扉を開けてくれる。
重い扉が開いて、陽の光が眩しい。
外へ出て、いつもの東屋へ向かって歩き出した。
すると、突然背後から声をかけられた。
「晴斗様」
振り向くと、リリスとスラ様だった。
「こちらにいらしたのね。探しましたわよ」
「お加減はどうですかな? 晴斗様」
「うん、なんとか」
軽く笑ってみせた。
リリスは俺を覗き込む。
「……昨日は少し心配でしたけど、今日は随分と顔色が良いですわ」
それは多分、綺麗に寝かされた奏を見たからだ。
正直、まだ奏をすぐお墓に入れるとか、そんなことは考えられない。
でも、そうしなきゃいけないっていうのはわかった。
ヴァルガのおかげで、奏の死をほんの少し受け入れられた気がする。
スラ様は黙った俺を見て、重々しく口を開いた。
「……この度は、レオンが大変なことを……」
その言葉にリリスは俯く。
二人とも、ヴァルガから大体のことは聞いたんだろう。
この腕が、レオンに切られたことも。
「レオンは、瓦礫の下敷きになって……」
俺がそう言うとスラ様は深く息をついた。
「……おろかな……おいぼれより先に逝くなど……」
リリスは俺の左腕を見つめて瞳を震わせた。
「……私と、レオンとヴァルガは、兄弟のように共に過ごしました。でも、今回のことは許せるはずがない」
「もっと、何か打ち明けてくれれば……少しは違う未来が見えたかもしれないのに」
彼女は目を伏せた。まつ毛が震えている。
「馬鹿やろう……」
リリスはたまに口調が悪くなる。
でもそれを聞くと、彼女の本心に触れた気がして、俺は嫌じゃなかった。
背中にそっと手を回す。
びくりとその肩が震えた。
「晴斗様……」
「俺も奏と兄弟みたいだったんだ。泣いていいんだよ。俺もたくさん泣いた」
「でも……」
「俺のことは気にしなくていい。レオンを許すことはできないけど、リリスたちの気持ちはわかるから」
俺の肩にリリスが顔を埋める。
背中を撫でてやりながら、俺はレオンのことを考えていた。
レオンは、番を失った可哀想な人だった。
大切な相手を失って、一人で長い時間を生きてきた。
だからといって、レオンのしたことをなかったことにはできない。
それでも、あんなふうに壊れてしまったことまで責める気にはなれなかった。
もし、俺がいなくなったら。
ヴァルガも、いつかレオンのようになってしまうのだろうか。
そう考えると、胸の奥が苦しくなった。
俺にあとどれだけの時間が残されているのかは分からない。
それでも、そばにいられる間は、できる限りヴァルガを大事にしてやりたい。
もう一度、強くそう思った。
リリスが泣き止むのを待って、俺たちは城の中へ戻った。
リリスたちと別れ、一人で廊下を歩いていると、前方からヴァルガがやってくる。
少し乱れた銀色の髪を見ると、起きたばかりらしい。
「晴斗」
ヴァルガはまっすぐ俺のもとへ来た。
「外に行ってたのか。探したぞ」
「ちょっと外の空気吸いたくて」
俺はヴァルガの前まで歩き、残された右腕をその腰へ回した。
胸元へ顔を埋める。
大きな身体が、わずかに固まった。
「……どうした」
「別に。……なあ、俺にしてほしいことある?」
少しの間、返事はなかった。
見上げるとヴァルガの赤い瞳が、こちらをじっと見ていた。
「何もないの?」
俺がもう一度尋ねると、ヴァルガは目を伏せた。
「……ずっと、笑っていて欲しい」
ヴァルガの両腕が俺の身体を包み込む。
「お前と一緒なら、できると思うよ」
失ったものは、あまりにも大きい。
今はまだ無理でも、きっといつかは、そんな日が来るはずだ。
その温もりに安心して、俺は目を閉じた。
***
その夜、晴斗はヴァルガの腕の中で眠っていた。
昼間、自分から抱きしめてきた晴斗は、眠る時も残された右腕をヴァルガの身体へ回し、ぴったりと寄り添っていた。
しばらくは穏やかだった寝息が、少しずつ乱れていく。
晴斗の眉間に皺が寄り、額に薄く汗が滲んだ。
ヴァルガが髪へ触れると、腕の中の身体が小さく震える。
「……帰りたい……」
掠れた声が、晴斗の唇から漏れた。
「助けて……」
残された右手が、ヴァルガの服を強く握る。
「……お母さん……!」
ヴァルガは、晴斗の身体を抱く腕に力を込めた。
どこへ帰りたいのかなど、尋ねる必要はなかった。
神殿で晴斗が同じ言葉を口にした時から、分かっていた。
晴斗の身体が、もう少し回復するまで。
そう自分に言い聞かせ、ヴァルガは晴斗を腕の中に留めていた。
苦しそうな呼吸が落ち着くまで、髪を撫で続ける。
やがて晴斗の身体から力が抜け、再び静かな寝息が聞こえ始めた。
ヴァルガは何も言わず、その髪へ顔を埋めた。
これ以上、この温もりを自分のために引き留めておくことはできない。
それでも夜が明けるまでは、晴斗を抱く腕を緩められなかった。




