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第五十九話 二つの黒い刃

黒濁が、崩れた女神像の跡で大きく身を震わせた。


巨体の表面が波打つ。そのたび、人とも獣ともつかない手足が浮かび上がり、不自然に痙攣しながら、再び黒い泥の中へ沈んでいく。


ヴァルガは振り返った。


離れた寝台のそばで、晴斗は奏を抱きしめたまま俯いている。


こちらを見てすらいなかった。


「晴斗と奏のところまで行かせるな」


ヴァルガは黒い剣を構え直した。

刀身を走る赤黒い筋が、呼応するように脈打つ。


「ここで倒すぞ」


「言われなくても、そのつもりだ」


レオンが答えた直後、黒濁の一部が大きく膨れ上がった。


人の腕にも、獣の尾にも見える黒い塊が鞭のように伸び、二人へ襲いかかる。


ヴァルガは正面から剣を叩きつけた。


重い手応えとともに、黒い塊が二つに裂ける。


切り離された先端が床へ落ち、何度も形を変えながら蠢いた。


やがて動きを失い、粘ついた黒い泥となって石床へ広がった。


黒濁が悲鳴を上げた。


巨体を揺らし、裂かれた部分を庇うように後退する。


「効いているな」


レオンが短く呟いた。


答える間もなく、今度は左右から黒い塊が迫った。


ヴァルガの身体が宙へ浮かぶ。


足元を通り過ぎた黒濁が、そのまま寝台の方へ伸びていった。


だが、途中で黒い刃が走る。


レオンが先端を斬り落とし、晴斗へ向かう動きを止めていた。


「そっちは任せる」


ヴァルガは空中で身体の向きを変えた。


追って伸びてきた黒い塊をかわし、巨体の上部へ剣を叩き込む。


刃が深く沈んだ。


黒濁が身を捩り、ヴァルガを振り落とそうと暴れ始める。


天井近くまで伸びた黒い塊が、壁や柱へ何度も衝突した。


石が砕け、破片が広間へ降り注ぐ。


ヴァルガは剣を引き抜き、宙へ逃れた。


直後、それまでいた場所を黒い塊が押し潰す。


「右だ!」


レオンの声が飛ぶ。


ヴァルガは振り返ることなく身体を傾けた。


すぐ横を、細く伸びた黒濁が通り過ぎていく。


その先には、すでにレオンがいた。


黒い刃が下から斬り上げられ、伸びきった塊を根元から断ち切る。


ヴァルガは落ちていく先端を追い、巨大な剣でさらに細かく切り裂いた。


黒い欠片が次々と形を失い、泥となって石床を覆っていく。


レオンが次に何を狙うのか、聞く必要はなかった。


レオンもまた、ヴァルガがどこへ向かうのか確かめようとはしない。


互いを見ることさえなく、二つの黒い刃が交互に黒濁を削っていく。


一方が切り開いた場所へ、もう一方の剣が食い込む。


ヴァルガが空中へ引きつけた塊を、レオンが地上から斬り落とす。


かつて共に戦っていた頃と、何も変わらなかった。


変わってしまったのは、二人の間にあるものだけだった。


黒濁の表面に、大きな裂け目が走った。


形の揃わない歯が並ぶ、赤い口が開く。


「エ……リ、オ……」


黒濁が、再びその名を呼んだ。


先ほどよりもはっきりとした声だった。


レオンの動きが、一瞬止まる。


その背後で、黒い塊が大きく持ち上がった。


「レオン!」


ヴァルガは急降下し、襲いかかる黒濁へ剣を滑り込ませた。


レオンのすぐ横で、黒い塊が真っ二つに裂ける。


飛び散った黒い泥が石床を濡らし、粘つきながら広がっていった。


「ぼんやりするな」


「……分かっている」


レオンはそれだけ答え、再び剣を構えた。


黒濁は斬られるたびに身を縮めていた。


だが、それでもなお、ヴァルガを遥かに上回る大きさを保っている。


巨体の下から新たな黒い泥が溢れ、寝台の方へ向かって石床を這い始めた。


「下だ!」


ヴァルガは地上へ降り、黒い剣を横薙ぎに払った。


幅広い刀身が、押し寄せる黒濁をまとめて断ち切る。


勢いを失った黒い泥が、晴斗たちへ届く前に崩れ落ちた。


その向こうで、レオンは黒濁の動きをじっと見つめている。


「斬られるたび、同じ場所を庇っている」


黒濁は何度も形を変えていた。


それでも、崩れた女神像の真上にある一部だけは動かない。


周囲を削られるたび、残った黒濁がそこへ集まり、幾重にも覆い隠している。


「あそこか」


「おそらくな。表面を削り続けていたら、晴斗へ届く方が早い」


黒濁が大きく膨れ上がり、身体の奥から噴き出した濃い靄が、瞬く間に広間を暗闇で覆った。


ヴァルガが空いている手を翳すと、掌から赤い光が溢れ、広間を眩く照らし出す。


黒い靄の奥で、黒濁の巨体が透けて見えた。


幾重にも重なる黒い塊が、中央の一点へ絡みついている。


「見えた」


レオンが剣を握り直す。


「俺が道を開く。お前はあれを断て」


ヴァルガは答えず、宙へ舞い上がった。


黒濁がそれを追い、無数の塊を頭上へ伸ばす。


ヴァルガはさらに高度を上げた。


黒い塊が、晴斗たちから離れていく。


その下を、レオンが駆け抜けた。


正面から迫る黒濁を斬り払い、巨体の中央へ近づいていく。


左右から押し潰そうとする塊も、足元を掬おうと伸びる泥も、すべて紙一重でかわしていた。


黒い刃が、次々と道を切り開いていく。


だが、あと少しというところで、巨大な黒い壁がレオンの前へ立ちはだかった。


黒濁が鳴き叫ぶ。


レオンは正面から剣を突き立てた。


深く沈んだ刀身を両手で押し込み、黒い壁を左右へ裂いていく。


その奥に、黒濁が必死に隠していた場所が現れた。


「今だ、ヴァルガ!」


その声が届くより先に、ヴァルガは降下していた。


両手で握った黒い剣を下へ向ける。


刀身を走る赤黒い筋が、これまでにないほど激しく脈打った。


その下では、左右に切り開かれた黒い壁が、レオンを押し潰そうと再び閉じ始めている。


レオンは退かず、剣で壁を押さえつけ、ヴァルガのための道を保ち続けた。


その隙に、床を這っていた細い黒濁がレオンの左脚へ忍び寄り、一気に巻きつく。


脚が強く捻り上げられた。


鈍い音とともに、レオンの身体が大きく傾く。


「ぐっ……!」


片膝が石床についたが、剣を握る両手から力は抜けなかった。


「行け、ヴァルガ!」


ヴァルガは開かれた道を通り抜けた。


巨大な黒い剣が、黒濁の中心へ深く突き刺さる。


広間を揺るがす叫びが上がった。


ヴァルガは柄を握る手へ力を込め、そのまま刀身を下へ押し込んでいく。


暴れる黒濁が腕や肩へ絡みついた。

締め上げられ、骨が軋む。


それでも剣を離さなかった。


奏が、自らの血を流して作った剣だった。


晴斗を守るために、託したものだった。


ここで止めるわけにはいかない。


ヴァルガは咆哮し、黒濁の巨体を縦に断ち切った。


黒い光が弾ける。


二つに裂けた巨体が、大きく震えた。


それまで激しく蠢いていた黒い塊から、少しずつ力が抜けていく。


レオンの脚へ巻きついていた黒濁も緩み、石床へ落ちた。


「……エリオ……」


最後に漏れた声は、ひどく静かだった。


呼びかけるような響きだけを残し、黒濁は動きを止めた。


二つに裂けた巨体は、形を失うことなく、その場に残った。


レオンが剣を支えにして、立ち上がろうとする。


だが、顔を歪め、再び片膝をついた。


直後、足元から低い音が響いた。


ヴァルガは黒い剣を引き抜き、顔を上げる。


崩れた女神像の下で、石床が大きく陥没していた。


そこから伸びた亀裂が、広間を縦横に走っていく。


「まずい!」


レオンの声と同時に、一本の柱が折れた。


天井の一部が崩れ、大量の石が降り注ぐ。


「晴斗!」


ヴァルガはすぐに晴斗のいる方へ向かった。


床が崩れ、進む先が次々と失われていく。


宙へ浮かび、落ちてくる石を黒い剣で斬り払いながら、晴斗との距離を詰めていく。


晴斗は奏を抱きしめたまま動かなかった。


すぐそばへ天井の破片が落ちても、顔を上げようともしない。


「晴斗!」


もう一度呼ぶと、晴斗がヴァルガの方を向いた。


「ヴァル、ガ……」


晴斗の右手が、ヴァルガを求めるように差し出された。


奏を抱えたままの晴斗ごと、強く胸元へ抱き上げる。


その瞬間、広間の中央が大きく崩れた。


ヴァルガとレオンの間に、底の見えない亀裂が走る。


「レオン!」


向こう側で、レオンは剣を支えに片膝をついていた。


ヴァルガは晴斗と奏を抱えたまま、亀裂を越えようと宙へ浮かんだ。


その頭上から、天井の一部が崩れ落ちる。


ヴァルガは二人を庇い、黒い剣で石を砕いた。


弾けた破片の向こうで、天井が次々と崩れ、ヴァルガとレオンの間を塞いでいく。


亀裂もさらに広がり、レオンの姿が一気に遠ざかった。


レオンは、もう一度だけ立ち上がろうとした。


それでも、傷ついた脚は動かなかった。


背後では、天井から新たな亀裂が伸びている。


レオンはそれを見上げた。


自分がもう間に合わないと悟ったように、剣を握る手から力を抜く。


それから、こちらを見た。


晴斗は奏を離さない。


ヴァルガはそんな晴斗を抱き込み、降り注ぐ石から庇っていた。


レオンの口元に、寂しそうな笑みが浮かぶ。


「……いいな」


小さな声を、ヴァルガの耳は確かに拾った。


「レオ──」


「……俺も、君に会いたいよ」


直後、天井から崩れ落ちた巨大な石が、レオンの姿を覆い隠した。


「レオン!」


返事はなかった。


さらに大きな崩落が起こり、レオンが黒い剣を突き立てていた場所ごと、石の下へ呑み込まれていく。


ヴァルガは晴斗と奏を抱えたまま、崩れた壁にできた裂け目へ向かった。


正面から落ちてきた石を黒い剣で砕き、土煙の中を抜ける。


背後で、広間が轟音とともに崩れ落ちた。


振り返った先に、レオンの姿はもうなかった。

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