↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/64

第五十八話 消えた光

「……奏、自分の血を材料に使ったのか」


レオンのその声で、我に返った。


透明な玉が、高い音を立てて床に転がる。


その瞬間、女神像の下から突き上げるような衝撃が走った。

広間全体が大きく揺れ、亀裂から黒い靄と石片が噴き上がる。

レオンはすぐにそちらへ向き直った。


俺は、目の前で何が起きているのかも、気づいていなかった。


こんなに近くで、奏が血を流していることにも。


奏の前を覆っていた黒い光は、すでに消えていた。


代わりに、一本の黒い剣が石床に横たわっている。


レオンが持つ剣よりもさらに長く、刀身も幅広い。


濡れたような黒い刃には、血が流れた跡にも見える赤黒い筋が幾重にも走っていた。その奥で、黒い光がゆっくりと脈打っている。


「……か、なで……?」


俺と目が合うと、奏は少しだけ微笑んだ。


額には汗が滲み、顔からは血の気が失せている。


奏は黒い剣の柄を掴むと、聖剣を杖にして立ち上がった。


その動きに合わせて、脇腹から新たな血が溢れる。


それでも奏は、黒い剣を引きずりながら、一歩ずつ俺の方へ向かってきた。


床が再び大きく揺れ、奏の身体が傾く。

それでも奏は聖剣を支えに踏みとどまり、歩みを止めなかった。


「奏……!」


俺は立ち上がろうとしたけれど、足にうまく力が入らない。


奏はそんな俺を見て、静かに首を振った。


黒い剣の切っ先が石床を擦り、硬い音を立てる。


やがて奏は、俺のすぐ目の前で立ち止まった。


けれど、奏が見ているのは俺ではなかった。


俺の背後にある黒い結晶。


その中に閉じ込められた、ヴァルガだった。


「……あんた、そこでずっと何してんだよ」


声は弱々しく掠れていた。


それでも、結晶の中にいるヴァルガへ届かせるように、奏は続ける。


「あんたの晴斗が、泣いてるんだぞ……」


奏は黒い剣をその場に置くと、聖剣の柄を両手で握った。


刃に、眩い白い光が集まっていく。


聖剣を振り上げ、黒い結晶へ叩きつけた。


高い金属音が広間に響く。


昨日はびくともしなかった黒い結晶に、一筋のひびが入った。


よく見ると、結晶の中を満たしていた光は、もうほとんど消えている。


ひびはゆっくりと枝分かれし、ヴァルガを覆う結晶全体へ広がっていった。


やがて、ひとつ、またひとつと、黒い塊が床へ落ちていく。


足元を支えていた結晶も崩れ、宙に浮いていたヴァルガの両足が地へついた。


最後の大きな塊がヴァルガの肩から剥がれ、石床へ落ちて砕けた。


開いたままだった赤い瞳に、ゆっくりと力が戻る。


ヴァルガは、血まみれで立つ奏をじっと見つめていた。


その瞳が、わずかに揺れる。


「奏……」


奏は聖剣に縋りながら、足元に置いた黒い剣の柄を掴んだ。


それを引きずるように持ち上げ、ヴァルガへ差し出す。


「ヴァルガ……」


息をするたび、声が震えている。


「絶対に、晴斗を守れ……」


ヴァルガは奏を見つめたまま、黒い剣へ手を伸ばした。


大きな手が柄を握った瞬間、刀身を走る赤黒い筋が強く脈打つ。


黒い光がヴァルガの腕へ絡みついた。


剣はヴァルガを拒むことなく、初めから彼のために作られたもののように、その手に収まった。


それを見届けた途端、奏の手から聖剣が滑り落ちた。


白い刃が床にぶつかり、高い音を立てる。


同時に、奏の身体が力を失った。


「奏!」


倒れ込む奏を、ヴァルガが空いている腕で受け止めた。


俺は立ち上がることもできず、片手で床を這うようにして二人へ近づいた。


「奏! しっかりしろ!」


ヴァルガの腕の中で、奏がわずかに顔を動かした。


虚ろな目が俺を捉える。


「ごめんね、晴斗……」


唇から漏れた声は、今にも消えてしまいそうだった。


「俺が、リヴェルトに行こうなんて……言ったから……」


違う。


奏のせいじゃない。


そう言いたいのに、喉が詰まって声にならなかった。


涙を流しながら、何度も首を振る。


けれど奏は、それ以上俺を見ていなかった。


視線は俺の肩を越えて、どこか遠くへ向いている。


「……ごめんなさい」


それが俺に向けた言葉ではないのだと、なぜか分かった。


奏が見捨てた誰か。


奏が斬った誰か。


名前も知らない、たくさんの誰か。


奏の瞳から、ふっと光が消えた。


俺の肩を越え、何もない虚空を見つめたまま動かなくなる。


「奏……?」


呼びかけても、返事はなかった。


ヴァルガは黒い剣を床へ置いた。

代わりに聖剣を拾い、奏の腰の鞘にそっと収めた。


それから奏の顔へ手を伸ばし、開いたままの瞼をそっと閉じさせる。


その仕草を見ても、何が起きたのか分からなかった。


分かりたくなかった。


「……お前は、まごうことなき勇者だ」


ヴァルガが奏の身体を床へ横たえる。


俺はそのそばへ近づき、片腕で奏を抱きしめた。


触れた身体には、まだ温もりが残っている。


「嘘だ……」


こんなに温かいのに。


奏が、いなくなるはずがない。


さっきまで話していて、俺に笑いかけていた。


床下から響く咆哮も、石の砕ける音も、ひどく遠くに聞こえた。


「嘘だろ、奏……」


呼びかけても、奏の目は開かなかった。


呆然とその顔を見つめていると、ヴァルガの視線が俺の左腕へ落ちた。


血に染まった布。


その先にあるはずの腕は、もうない。


赤い瞳が、痛みに耐えるように細められる。


「全部、聞こえていた。見えていた」


俺はまだ、奏を抱きしめたままだった。


言葉の意味を考えることもできない。


それでも、ゆっくりとヴァルガへ顔を向けた。


「お前は、俺が守る」


低く、迷いのない声だった。



***



ヴァルガは床に置いた黒い剣へ手を伸ばした。


そのすぐそばに、黒い光を失った透明な玉が転がっている。


ヴァルガは手を止め、その玉を見下ろした。


「……ようやく、我らの元へ戻ったか」


取り戻した喜びなど、なかった。


晴斗の腕を奪い、奏の命を奪ったのは、この宝珠も同然だ。


ヴァルガは宝珠を拾い上げ、服の内側へ収めた。


それから黒い剣を握り、立ち上がる。


少し離れた場所に立つレオンへ目を向けた。


レオンはずっと、動かなくなった奏を見つめていた。


「レオン……」


呼びかけると、レオンはゆっくりと顔を上げた。


緑の瞳が、ヴァルガをまっすぐに見返す。


「言い訳はしない」


レオンの声は静かだった。


「俺は最善を選んだ」


ヴァルガは黒い剣を握ったまま、レオンを見つめている。


「これが、お前の望んだことなのか?」


レオンは答えなかった。


一度目を閉じ、天井を仰ぐ。


その顔に浮かんでいるものが、何なのかは分からなかった。


やがて深く息を吐くと、再び目を開いた。


「……そうだ」


緑の瞳から、迷いが消える。


「俺は魔族の楽園を作る。多少の犠牲は仕方ない」


ヴァルガは、床に横たわる奏へ目を落とした。


晴斗はその身体を片腕で抱きしめたまま、俯いている。布の巻かれた左腕にも、頬を伝う涙にも、もう気づいていないようだった。


それが、レオンの言う「多少」だった。


ヴァルガの指が、黒い剣の柄へ食い込む。


刀身を走る赤黒い筋が、鼓動のように脈打った。


「晴斗を守るために、お前を殺さなければならないのなら」


ヴァルガはレオンを見据えた。


「俺は、そうする」


黒い剣がレオンの首へ迫る。


レオンは咄嗟に自らの剣を上げ、その一撃を受け止めた。


二つの黒い刃が噛み合い、耳を刺す音が広間に響く。


押し込まれたレオンの足元で、石にひびが走った。


「今は、それどころではない」


刃越しに、レオンがヴァルガを睨み返す。


「黒濁が来るぞ」


「黙れ。俺にとっては、お前も同じだ」


ヴァルガは喉の奥で唸り、さらに刃を押し込んだ。


そのときだった。


地の底から、何かが突き上げてきた。


神殿全体が大きく跳ね上がり、天井から石の欠片が降り注ぐ。


ヴァルガは剣を引き、晴斗と奏を庇うように前へ出た。


続けて、二度、三度と衝撃が響く。


崩れかけていた女神像が根元から砕け、轟音とともに倒れた。


その下で石床が盛り上がる。


亀裂から黒い霧が噴き出し、粘ついた黒い塊が這い出してきた。


床を押し割り、壁を削り、柱を呑み込みながら、際限なく膨れ上がっていく。


やがて、天井近くまで膨れ上がった黒い巨体が、崩れた女神像の跡を覆った。


ヴァルガでさえ、目の前の異形を見上げたまま動きを止めた。


黒濁の奥から、低い唸りが漏れる。


それは次第に大きくなり、神殿を震わせる咆哮へ変わった。


だが、怒りではなかった。


泣き声だった。


失ったものを探し続けるような、ひどく悲しい声。


「……エ……リ、オ……」


途切れた音の中に、確かに名が混じった。


「……エリオ?」


聞き覚えのない名だった。


「大司祭の名だ」


レオンが黒濁を見上げたまま答えた。


黒濁は何度もその名を呼んでいる。


呼ぶたびに巨体を震わせ、身体の一部を崩しながら、もういない相手を探していた。


「哀れなものだ。こんな姿になってまで、番を求めている」


レオンの声から、先ほどまでの冷たさがわずかに消えていた。


大司祭の番の魔族。


黒濁は循環の宝珠に引き寄せられる。


なのにこれは、彷徨い苦しんでいる。


番の名前を呼びながら。


黒濁が再び鳴いた。

その声に応える者は、もうどこにもいない。


「……俺の番も、そうだった」


レオンの声が、かすかに掠れた。


ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから黒い剣を構え直す。


「これ以上、苦しませる必要はない」


刀身の奥で、黒い光が脈打った。


「終わらせてやる。手を貸せ、ヴァルガ」


ヴァルガは答えなかった。


ただ、奏から託された黒い剣を、巨大な黒濁へ向けた。


その隣で、レオンの黒い刃にも光が灯った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。