第五十八話 消えた光
「……奏、自分の血を材料に使ったのか」
レオンのその声で、我に返った。
透明な玉が、高い音を立てて床に転がる。
その瞬間、女神像の下から突き上げるような衝撃が走った。
広間全体が大きく揺れ、亀裂から黒い靄と石片が噴き上がる。
レオンはすぐにそちらへ向き直った。
俺は、目の前で何が起きているのかも、気づいていなかった。
こんなに近くで、奏が血を流していることにも。
奏の前を覆っていた黒い光は、すでに消えていた。
代わりに、一本の黒い剣が石床に横たわっている。
レオンが持つ剣よりもさらに長く、刀身も幅広い。
濡れたような黒い刃には、血が流れた跡にも見える赤黒い筋が幾重にも走っていた。その奥で、黒い光がゆっくりと脈打っている。
「……か、なで……?」
俺と目が合うと、奏は少しだけ微笑んだ。
額には汗が滲み、顔からは血の気が失せている。
奏は黒い剣の柄を掴むと、聖剣を杖にして立ち上がった。
その動きに合わせて、脇腹から新たな血が溢れる。
それでも奏は、黒い剣を引きずりながら、一歩ずつ俺の方へ向かってきた。
床が再び大きく揺れ、奏の身体が傾く。
それでも奏は聖剣を支えに踏みとどまり、歩みを止めなかった。
「奏……!」
俺は立ち上がろうとしたけれど、足にうまく力が入らない。
奏はそんな俺を見て、静かに首を振った。
黒い剣の切っ先が石床を擦り、硬い音を立てる。
やがて奏は、俺のすぐ目の前で立ち止まった。
けれど、奏が見ているのは俺ではなかった。
俺の背後にある黒い結晶。
その中に閉じ込められた、ヴァルガだった。
「……あんた、そこでずっと何してんだよ」
声は弱々しく掠れていた。
それでも、結晶の中にいるヴァルガへ届かせるように、奏は続ける。
「あんたの晴斗が、泣いてるんだぞ……」
奏は黒い剣をその場に置くと、聖剣の柄を両手で握った。
刃に、眩い白い光が集まっていく。
聖剣を振り上げ、黒い結晶へ叩きつけた。
高い金属音が広間に響く。
昨日はびくともしなかった黒い結晶に、一筋のひびが入った。
よく見ると、結晶の中を満たしていた光は、もうほとんど消えている。
ひびはゆっくりと枝分かれし、ヴァルガを覆う結晶全体へ広がっていった。
やがて、ひとつ、またひとつと、黒い塊が床へ落ちていく。
足元を支えていた結晶も崩れ、宙に浮いていたヴァルガの両足が地へついた。
最後の大きな塊がヴァルガの肩から剥がれ、石床へ落ちて砕けた。
開いたままだった赤い瞳に、ゆっくりと力が戻る。
ヴァルガは、血まみれで立つ奏をじっと見つめていた。
その瞳が、わずかに揺れる。
「奏……」
奏は聖剣に縋りながら、足元に置いた黒い剣の柄を掴んだ。
それを引きずるように持ち上げ、ヴァルガへ差し出す。
「ヴァルガ……」
息をするたび、声が震えている。
「絶対に、晴斗を守れ……」
ヴァルガは奏を見つめたまま、黒い剣へ手を伸ばした。
大きな手が柄を握った瞬間、刀身を走る赤黒い筋が強く脈打つ。
黒い光がヴァルガの腕へ絡みついた。
剣はヴァルガを拒むことなく、初めから彼のために作られたもののように、その手に収まった。
それを見届けた途端、奏の手から聖剣が滑り落ちた。
白い刃が床にぶつかり、高い音を立てる。
同時に、奏の身体が力を失った。
「奏!」
倒れ込む奏を、ヴァルガが空いている腕で受け止めた。
俺は立ち上がることもできず、片手で床を這うようにして二人へ近づいた。
「奏! しっかりしろ!」
ヴァルガの腕の中で、奏がわずかに顔を動かした。
虚ろな目が俺を捉える。
「ごめんね、晴斗……」
唇から漏れた声は、今にも消えてしまいそうだった。
「俺が、リヴェルトに行こうなんて……言ったから……」
違う。
奏のせいじゃない。
そう言いたいのに、喉が詰まって声にならなかった。
涙を流しながら、何度も首を振る。
けれど奏は、それ以上俺を見ていなかった。
視線は俺の肩を越えて、どこか遠くへ向いている。
「……ごめんなさい」
それが俺に向けた言葉ではないのだと、なぜか分かった。
奏が見捨てた誰か。
奏が斬った誰か。
名前も知らない、たくさんの誰か。
奏の瞳から、ふっと光が消えた。
俺の肩を越え、何もない虚空を見つめたまま動かなくなる。
「奏……?」
呼びかけても、返事はなかった。
ヴァルガは黒い剣を床へ置いた。
代わりに聖剣を拾い、奏の腰の鞘にそっと収めた。
それから奏の顔へ手を伸ばし、開いたままの瞼をそっと閉じさせる。
その仕草を見ても、何が起きたのか分からなかった。
分かりたくなかった。
「……お前は、まごうことなき勇者だ」
ヴァルガが奏の身体を床へ横たえる。
俺はそのそばへ近づき、片腕で奏を抱きしめた。
触れた身体には、まだ温もりが残っている。
「嘘だ……」
こんなに温かいのに。
奏が、いなくなるはずがない。
さっきまで話していて、俺に笑いかけていた。
床下から響く咆哮も、石の砕ける音も、ひどく遠くに聞こえた。
「嘘だろ、奏……」
呼びかけても、奏の目は開かなかった。
呆然とその顔を見つめていると、ヴァルガの視線が俺の左腕へ落ちた。
血に染まった布。
その先にあるはずの腕は、もうない。
赤い瞳が、痛みに耐えるように細められる。
「全部、聞こえていた。見えていた」
俺はまだ、奏を抱きしめたままだった。
言葉の意味を考えることもできない。
それでも、ゆっくりとヴァルガへ顔を向けた。
「お前は、俺が守る」
低く、迷いのない声だった。
***
ヴァルガは床に置いた黒い剣へ手を伸ばした。
そのすぐそばに、黒い光を失った透明な玉が転がっている。
ヴァルガは手を止め、その玉を見下ろした。
「……ようやく、我らの元へ戻ったか」
取り戻した喜びなど、なかった。
晴斗の腕を奪い、奏の命を奪ったのは、この宝珠も同然だ。
ヴァルガは宝珠を拾い上げ、服の内側へ収めた。
それから黒い剣を握り、立ち上がる。
少し離れた場所に立つレオンへ目を向けた。
レオンはずっと、動かなくなった奏を見つめていた。
「レオン……」
呼びかけると、レオンはゆっくりと顔を上げた。
緑の瞳が、ヴァルガをまっすぐに見返す。
「言い訳はしない」
レオンの声は静かだった。
「俺は最善を選んだ」
ヴァルガは黒い剣を握ったまま、レオンを見つめている。
「これが、お前の望んだことなのか?」
レオンは答えなかった。
一度目を閉じ、天井を仰ぐ。
その顔に浮かんでいるものが、何なのかは分からなかった。
やがて深く息を吐くと、再び目を開いた。
「……そうだ」
緑の瞳から、迷いが消える。
「俺は魔族の楽園を作る。多少の犠牲は仕方ない」
ヴァルガは、床に横たわる奏へ目を落とした。
晴斗はその身体を片腕で抱きしめたまま、俯いている。布の巻かれた左腕にも、頬を伝う涙にも、もう気づいていないようだった。
それが、レオンの言う「多少」だった。
ヴァルガの指が、黒い剣の柄へ食い込む。
刀身を走る赤黒い筋が、鼓動のように脈打った。
「晴斗を守るために、お前を殺さなければならないのなら」
ヴァルガはレオンを見据えた。
「俺は、そうする」
黒い剣がレオンの首へ迫る。
レオンは咄嗟に自らの剣を上げ、その一撃を受け止めた。
二つの黒い刃が噛み合い、耳を刺す音が広間に響く。
押し込まれたレオンの足元で、石にひびが走った。
「今は、それどころではない」
刃越しに、レオンがヴァルガを睨み返す。
「黒濁が来るぞ」
「黙れ。俺にとっては、お前も同じだ」
ヴァルガは喉の奥で唸り、さらに刃を押し込んだ。
そのときだった。
地の底から、何かが突き上げてきた。
神殿全体が大きく跳ね上がり、天井から石の欠片が降り注ぐ。
ヴァルガは剣を引き、晴斗と奏を庇うように前へ出た。
続けて、二度、三度と衝撃が響く。
崩れかけていた女神像が根元から砕け、轟音とともに倒れた。
その下で石床が盛り上がる。
亀裂から黒い霧が噴き出し、粘ついた黒い塊が這い出してきた。
床を押し割り、壁を削り、柱を呑み込みながら、際限なく膨れ上がっていく。
やがて、天井近くまで膨れ上がった黒い巨体が、崩れた女神像の跡を覆った。
ヴァルガでさえ、目の前の異形を見上げたまま動きを止めた。
黒濁の奥から、低い唸りが漏れる。
それは次第に大きくなり、神殿を震わせる咆哮へ変わった。
だが、怒りではなかった。
泣き声だった。
失ったものを探し続けるような、ひどく悲しい声。
「……エ……リ、オ……」
途切れた音の中に、確かに名が混じった。
「……エリオ?」
聞き覚えのない名だった。
「大司祭の名だ」
レオンが黒濁を見上げたまま答えた。
黒濁は何度もその名を呼んでいる。
呼ぶたびに巨体を震わせ、身体の一部を崩しながら、もういない相手を探していた。
「哀れなものだ。こんな姿になってまで、番を求めている」
レオンの声から、先ほどまでの冷たさがわずかに消えていた。
大司祭の番の魔族。
黒濁は循環の宝珠に引き寄せられる。
なのにこれは、彷徨い苦しんでいる。
番の名前を呼びながら。
黒濁が再び鳴いた。
その声に応える者は、もうどこにもいない。
「……俺の番も、そうだった」
レオンの声が、かすかに掠れた。
ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから黒い剣を構え直す。
「これ以上、苦しませる必要はない」
刀身の奥で、黒い光が脈打った。
「終わらせてやる。手を貸せ、ヴァルガ」
ヴァルガは答えなかった。
ただ、奏から託された黒い剣を、巨大な黒濁へ向けた。
その隣で、レオンの黒い刃にも光が灯った。




