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第五十七話 見捨てない

黒濁の群れを、できる限り早く倒した。


後始末は兵士たちに任せ、全速力で神殿に戻ってきた。


晴斗が心配で、たまらなかったから。


広間へ戻った時、最初は何が起きているのか理解できなかった。


大司祭とシンの姿はなく、晴斗が血に濡れて床に倒れていた。


顔は真っ白で、左腕は肘から先がなくなっている。

上腕をきつく縛る布から、血が滲んでいた。


その腕を、レオンが持っている。


晴斗を起こそうともせず、ただ静かに立ち尽くしていた。


奏は聖剣を放り出し、晴斗の身体を抱き起こした。


腕の中で、晴斗が何度もしゃくり上げる。


その声もひどく弱い。


でも、痛みは感じていないのかもしれない。


でなければ、こんな怪我をして、意識を保っていられるとは思えなかった。


奏は晴斗の背中を強く抱きしめながら、レオンを見た。


レオンも奏を見つめていた。


やがて、ゆっくりと口を開く。


「遅かったですね。奏様」


皮肉げな声は、いつもと変わらなかった。


「……何があったんだ」


レオンが持っている左腕から目を離せない。


「お前が、晴斗の腕を切ったのか」


声が震えた。


違うと、言ってほしかった。


何か理由があって持っているだけだと。


レオンが、晴斗にこんなことをするはずがない。


けれど、レオンは否定しなかった。


そして静かに歩き出した。

大きな女神像の前で立ち止まり、床を指差す。


「この地下に、大司祭が飼っていた馬鹿でかい黒濁がいます。大司祭が死んで、もうすぐここまで上がってくる」


レオンの声には、迷いがなかった。


「俺一人では勝てないと判断しました。強力な武器が必要です」


「武器……?」


「大司祭は、戦禍の宝珠に歴代の勇者の遺体を混ぜて、武器を作っていました。あの黒い剣です」


レオンは、晴斗のすぐそばに転がっている剣を顎で示した。


黒い刀身に、血が付いている。


こんなもののために?


こんなものを作るために、晴斗の腕を切ったのか。


「ですが、古い遺体から作ったものでは、大した力は得られないのでしょう」


レオンは、手にした晴斗の左腕へ目を落とした。


「勇者……いえ、生きている転移者の身体を使えば、より強力な武器ができるはずです」


「大司祭が、お二人を欲しがっていたのも、そのためでしょう」


「だから切りました」


レオンは淡々と続けた。


奏はレオンを見つめ、動けずにいた。


大司祭が、転移者をただの素材だと思っていた。


そのことには、確かに驚いた。


それよりも──


レオンの瞳には、後悔のかけらすらない。


晴斗の左腕を持ったまま、空いている手を神官服の懐へ入れた。


取り出したのは、手のひらに収まるほどの透明な玉だった。


球体の奥で、黒い光が脈打っている。


あれが、宝珠なのか。


「身体の一部を宝珠に触れさせて、作りたい武器を願う。それだけだそうです」


レオンは、片手に持った晴斗の左腕と、もう一方の手にある宝珠を見つめた。


レオンは宝珠を晴斗の腕の切断面へ押し当て、目を瞑った。


その瞬間、宝珠の奥で脈打っていた黒い光が膨れ上がり、切断面から腕へ流れ込んでいく。


青白い皮膚の下を黒い筋が這い、力なく垂れていた指がぴくりと動いた。


黒い光を受け、薬指の指輪が一瞬だけ輝く。


腕の中で、晴斗が息を呑んだ。


「あ……」


晴斗の右手が奏の服から離れ、届くはずもない指輪へ伸びる。


次の瞬間、切り取られた腕が黒い光に呑み込まれ、指輪もその中へ沈んで見えなくなった。


渦巻く光の中で腕の輪郭が崩れ、別の形へと細長く伸びていく。


やがて光が消え、その中から一本の剣が現れた。


濡れたような黒い刀身は床に転がっているものよりも長く、分厚い。血管に似た細い筋が幾重にも走り、その奥で濃い黒い光が脈打っている。


まるで、剣そのものが生きているみたいだった。


レオンは空いた手で柄を握った。


その瞬間、広間の空気が大きく震え、足元の石床に細い亀裂が走った。柄から溢れた黒い光がレオンの腕へ絡みつき、神官服の下へ吸い込まれていく。


刃は床へ向いているのに、喉元へ切っ先を突きつけられたような冷たさを感じた。


「……成功した」


レオンが、わずかに息を吐く。


それから、自分の身体を確かめるように剣を握り直した。


「これは……すごいな」


初めて、レオンの目に驚きが浮かぶ。


「握っているだけで、力が溢れてくる」


その顔に喜びはなかった。


ただ、自分の中へ流れ込んでくる力を確かめるように、禍々しい剣をじっと見つめていた。


奏にしがみついていた晴斗の手が、小さく震えた。


「……そんな……指輪まで……」


かすれた声がした。


晴斗は、黒い剣を見つめていた。


涙が、晴斗の頬を次々と伝っていった。


「ヴァルガ……っ」


奏の服を握りしめ、晴斗が声を上げて泣く。


こんな風に、晴斗が泣くところを見たことがなかった。


その泣き声を聞いた瞬間、奏の中で何かが切れた。


晴斗の身体を抱き直し、ヴァルガを覆う黒い結晶の足元へ、背中を預けるように座らせると、傍らに置いていた聖剣を掴んだ。


レオンはまだ、手にしたばかりの黒い剣を見つめている。


奏は何も言わず、床を蹴った。


低い寝台を一息に飛び越え、着地した時には、レオンが目の前にいた。


レオンが顔を上げ、その目がわずかに見開かれる。


奏は勢いのまま、レオンの胸元を目がけて聖剣を薙いだ。


レオンは咄嗟に身体を捻ったが、白い刃が胸元を掠め、神官服を浅く切り裂く。


宝珠を持つ手だけが逃げ遅れた。


聖剣の切っ先が手の甲を浅く掠め、レオンの指が開く。


宝珠は石床へ落ちて高い音を立てて跳ねると、奏が駆けてきた方へ勢いよく転がり、そのまま低い寝台の下へ滑り込んだ。


振り抜いた聖剣を返し、もう一度レオンへ斬りかかる。


今度は黒い剣が白い刃を受け止め、激しい音とともに広間の空気が震えた。


「くっ……!」


受け止められただけなのに、奏の両腕が痺れる。


レオンが黒い剣を振るうと、奏は聖剣ごと押し返され、靴底を石床に滑らせながら数歩分後退した。


今まで何度も、レオンの戦うところを見てきた。

それが今のレオンとまるで重ならない。


強い。


開いた距離の向こうで、レオンは胸元の裂け目と、手の甲に滲む血へ目を落とした。


「相変わらず、すごい速さですね」


それから、宝珠が消えた寝台の下へ一度だけ目を向ける。


「宝珠は……まあ、いいでしょう。もう役目は終わった。あとは壊すだけです」


空いた手を黒い剣の柄へ添えると、刀身の奥で光が大きく脈打った。


奏は聖剣を握り直し、再びレオンとの距離を詰めた。


振り下ろした聖剣を、レオンが黒い剣で受け止める。


そのまま刃を滑らせるように押し退けられ、横から迫る黒い刃を、奏は身体を反らして避けた。


すぐさま体勢を立て直し、今度は脇腹を狙って聖剣を振るう。


白と黒の刃が何度もぶつかり、甲高い音が広間に響いた。


レオンのことを信じていた。


スパイだろうが、魔族だろうが関係なかった。


この世界でただ一人、自分に寄り添ってくれている人だと思っていた。


それなのに──


奏の視界が滲んだ。


「レオン……なんで……!」


力任せに振り下ろした聖剣を、黒い剣が受け止める。


刃を挟んで顔が近づいた時、レオンの視線が奏の濡れた目に止まった。


「奏。俺に裏切られて、悲しいのか」


初めて、名前だけで呼ばれた。


何度言っても、敬語をやめなかったのに。


それなのに、こんな時に。


「当たり前だろ……!」


奏は黒い剣を押し返し、何度も聖剣を打ち込んだ。


「俺は、お前を信じてた!」


レオンは一歩ずつ後退しながら、そのすべてを黒い剣で受け止めていく。


「知っている」


短い言葉とともに黒い刃が翻り、奏の聖剣を強く弾いた。


大きく開いた胴へ剣が迫り、奏は咄嗟に身体を捻る。切っ先が服を裂き、脇腹の皮膚を浅く掠めていった。


「だが、判断を間違えたのはお前だ」


奏が踏み込み、レオンの肩へ聖剣を振り下ろす。


レオンは正面から受け止めると、黒い剣を押しつけたまま低い声で続けた。


「お前がここに残っていれば、何かは変わっていたかもしれない」


聖剣を握る手に、わずかな震えが走った。


レオンが黒い剣を大きく振るい、奏を押し返す。


「晴斗を守るつもりなら、お前はここにいるべきだった」


レオンの言葉に、息が止まった。


その一瞬、聖剣を構え直すのが遅れた。


黒い刃が再び迫り、奏はぎりぎりで受け止める。


けれど、踏ん張ることができなかった。


凄まじい衝撃に身体ごと弾き飛ばされ、石床へ背中を叩きつけられた。


「お前なら、わかっていると思っていた。何かを選ぶなら、何かを捨てなければならない」


「なのに、最後まで人間を見捨てられなかった」


レオンは黒い剣を下げたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。


「だから晴斗を守れなかった。お前のせいだよ、奏」


聞きながら、身体が冷たくなっていくのを感じた。


晴斗に、どうやって償えばいい?


失った腕は、もう戻らない。


たとえ元の世界へ帰れたとしても、どうしようもない。


その考えに囚われ、レオンが間合いへ入ったことに気づくのが遅れた。


黒い剣が閃く。


奏は咄嗟に聖剣を持ち上げたが、間に合わなかった。


黒い刃が聖剣の下を潜り、先ほど浅く裂かれた脇腹へ深く食い込んだ。


「ぐっ……!」


引き抜かれた刃を追うように血が噴き出し、奏は脇腹を押さえながら片膝をついた。


傷口が焼けるように痛む。息をするたびに血が溢れ、指の隙間から石床へ滴り落ちていく。


「やはり、お前は甘いな」


頭上から落ちてきた声に、奏は顔を上げた。


レオンは黒い剣についた血を振り払い、奏を見下ろしている。


「ヴァルガも同じだ。だから、俺がやる」


「なんの……ことだ?」


レオンは、黒い結晶の足元で泣いている晴斗へ視線を向けた。


「晴斗には、もう話した」


レオンが黒い剣を構え直す。


「地下の黒濁を倒したあと、人間は俺が一人残らず殺す」


あまりにも静かな声だった。


一瞬、言葉の意味が分からなかった。


「……え?」


「この悍ましい武器も、黒濁も、すべて人間が考え、生み出したものだ」


それに応えるように、広間の底から低い唸りが響いた。石床がかすかに揺れ、亀裂の奥から黒い靄が滲み出す。


「大司祭が死んでも、いずれまた誰かが勇者を召喚する。人間は、同じ過ちを繰り返す」


奏は脇腹を押さえたまま立ち上がり、震える両手で聖剣を構えた。


「お前たちのように、好き勝手に利用される可哀想な人間がまた増える。そんなことは、お前だって望んでいないだろう?」


「だからって……!」


奏は叫ぶと同時に、聖剣を振り抜いた。


レオンは黒い刃で受け止め、そのまま押し返す。


奏はすぐに体勢を立て直し、角度を変えて何度も斬り込むが、傷口から血が流れるたびに動きが鈍くなっていく。


「だからって、全員殺すのかよ!」


白と黒の刃が激突し、弾けた光が二人の顔を照らした。


「ああ」


レオンは押し込まれた聖剣を容易く弾き、奏の肩を狙って黒い剣を振り下ろす。奏が紙一重で避けると、切っ先が髪を数本散らした。


「安心しろ。お前と晴斗は殺さない」


再び重なった刃の向こうで、レオンは少し笑った。


「俺がお前たちを好ましく思っていることに嘘はないんだ」


黒い剣に押され、奏の膝が沈む。


「降参しろ、奏。お前は俺に勝てない。これ以上傷つけたくない」


奏は黒い剣を押し返し、血に濡れた手で聖剣を握り直した。


「いやだ……!」


レオンへ向かって踏み込み、聖剣を振り上げる。


「もう、見捨てて後悔したくないんだ!」


晴斗が思い出させてくれたこの気持ちを、捨てたくない。


傷口から溢れる血が服を濡らし、足元へ滴っていく。それでも構わず振り下ろした聖剣を、レオンは黒い剣で受け止めた。


「……仕方ない。もう少し痛くするぞ」


黒い刀身の奥で、血管のような筋が大きく脈打った。


レオンが剣を引き、踏み込んでくる。


速い。


避けようとした瞬間、脇腹の傷が引きつり、奏の身体がわずかに強張った。


その一瞬で、黒い剣が目の前まで迫る。


奏は咄嗟に聖剣を横へ構えた。


刃が激突した瞬間、耳を塞ぎたくなるほどの轟音が広間に響き、白と黒の光が激しく弾けた。


受け止めたはずだった。


それなのに、黒い剣から伝わってきた力は、聖剣を構えた両腕では受けきれなかった。


「くっ……!」


両足が石床から離れ、身体が後ろへ吹き飛ばされる。


背中が低い寝台の上へ叩きつけられた。肺から息が押し出され、激痛に視界が白く染まる。


それでも勢いは止まらず、奏の身体は寝台の上を転がり、そのまま反対側の石床へ落ちた。


肩と背中を強く打ちつけ、聖剣の刃が床を引っ掻く。それでも、柄だけは手放さなかった。


息ができない。


指一本動かすだけで、脇腹の傷から新たな血が溢れた。


レオンの足音が、ゆっくりと近づいてくる。


「お前は、そこで寝ていろ」


その時、広間の底から凄まじい音が響いた。


石床が大きく揺れ、女神像の前に走っていた亀裂が一気に広がる。その隙間から黒い靄が噴き出し、巨大な何かが床を突き上げた。


レオンの足音が止まった。


「もう来たか」


気配が、奏から離れていく。


レオンは奏が動けないと判断したのか、女神像の方へ向き直っていた。


今しかない。


そう思って身体を起こそうとしたが、腕に力が入らず、奏は床へ手をついた。


その時、視界の端で何かが黒く瞬いた。


すぐそばにある寝台の下。


暗い隙間の奥で、黒い光がかすかに脈打っている。


先ほどレオンの手から落ち、転がっていった透明な玉。


戦禍の宝珠だった。


奏は、這うように寝台へ近づいた。


レオンは背を向けたまま、崩れ始めた女神像の前に立っている。


床の下から響く唸りは、ますます大きくなっていた。


奏は寝台の下へ腕を伸ばした。

脇腹の痛みに息を詰めながら、どうにか宝珠を掴み取る。


血に濡れた手の中で、黒い光が脈打っていた。


血に、反応してるのか。


『身体の一部を宝珠に触れさせて、作りたい武器を願う。それだけだそうです』


先ほどのレオンの言葉が、頭に蘇る。


奏は血のついた手で宝珠を強く握った。


しかし、何も起こらない。


これだけではきっと足りないんだ。


奏は宝珠を床へ置き、聖剣を握り直した。


刃先を、レオンに斬られた脇腹の傷へ向ける。


怖くないはずがなかった。


それでも、黒い結晶にもたれる晴斗を見た。


失われた左腕。


戦う力もない晴斗が、一人でどんなに怖かっただろう。


ごめんね、晴斗。


奏は歯を食いしばり、傷口へ聖剣の切っ先を差し込んだ。


「っ……!」


刃を押し込んだ瞬間、視界が白く弾けた。


声を殺し、震える手で聖剣を動かす。


傷口が抉られ、溢れ出した血が石床を濡らした。


奏は聖剣を手放し、その血の上へ宝珠を押しつける。


直後、球体の奥にあった黒い光が激しく脈打った。


血が、宝珠へ吸い込まれていく。


黒い光が血を伝い、奏の脇腹の傷へ流れ込んだ。


「あ……ぐっ……!」


身体の奥から、何かを引きずり出されるような感覚。


それでも宝珠を離さなかった。


晴斗を守れるだけの、強い武器を。


強く願った瞬間、宝珠から黒い光が噴き出した。


渦巻く光が奏の前へ集まり、少しずつ一つの形を作っていく。


やがて、黒い光の中に巨大な武器の輪郭が浮かび上がった。

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