第五十六話 供物
※本話には強い暴力・流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
もう一度、腹の底まで響くような轟音がした。
床が、かすかに揺れる。
レオンが黙って耳を澄ませる。
「……広間の方か」
その言葉に、真っ先にヴァルガの顔が浮かんだ。
胸の奥がざわつく。
「……ヴァルガ」
早く戻らないと。
何が起きているのかは分からない。
ただ、今すぐあいつのところへ戻らなければいけない気がした。
レオンは血に濡れた宝珠を握ったまま、廊下に出る。
俺も、床に倒れた大司祭とシンの傍らを通り過ぎ、ふらつく足でそのあとを追った。
レオンは俺がそばにくると振り返り、俺の顎を掴む。
「リュネアの匂いがする。大丈夫か?」
俺を覗き込む顔は、いつものレオンと変わらなかった。
やっと普通に話ができるかもしれない。
俺はほっと息をついた。
「少し切られただけ。あの粉のおかげで痛みもないよ」
レオンは俺をじっと見つめた。
その視線が、血の滲んだ小指へ落ちる。
「……そうか。だが、リュネアは吸いすぎると中毒症状が出る。早めに解毒した方がいい」
その瞬間、再び床が大きく揺れた。
身体が傾き、咄嗟に壁へ手をつく。
どこかで何かが崩れ、重い音が響いた。
「逃げろ!」
何人もの神官が駆けてくる。
誰もが青ざめ、互いを押し退けるように廊下を逃げていた。
「晴斗。ヴァルガのところに急ごう」
俺たちは、逃げてくる神官たちに逆らって広間へ向かう。
その間にも、床は何度も揺れた。
広間に近づくほど、轟音が大きくなっていく。
中に入ると、奥には結晶に包まれたままのヴァルガが見えた。
「ヴァルガ!」
駆け寄ろうとした瞬間、再び床が大きく揺れた。
今度は、さっきよりも近い。
足元から、何か巨大なものが暴れるような音が響いてくる。
思わず床を見つめる。
この下には……
「なあ……もしかしてこれって……」
レオンが、同じように足元へ視線を落とす。
「……あの黒濁だな」
「大司祭が死んだことで、暴れ始めたんだろう」
血に濡れた唇に浮かんだ、かすかな笑み。
──あいつが怒るぞ。
大司祭が最後に残した言葉が、頭に蘇った。
再び、地の底から轟音が響く。
床が突き上げられ、広間全体が大きく揺れた。
「あれがここまで出てくるのも、時間の問題だ」
レオンは、結晶に閉じ込められたヴァルガへ目を向ける。
「奏様はいない。ヴァルガも動けない。あの大きさじゃ、まともに戦っても勝ち目はない」
「じゃあ、なんとかヴァルガを運び出せないか? ここから逃げないと……」
俺は壁際に置かれていた燭台を掴み、黒い結晶と床の境目へ叩きつけた。
鈍い音が響く。
もう一度。
それでも足りなくて、何度も燭台を振り下ろした。
けれど、結晶はびくともしなかった。
床と一体化していて、外せるようには見えない。
やっぱり、だめなのか。
力なく燭台を下ろした時、足元で小さな黒いものが光った。
黒い結晶の欠片だった。
ヴァルガの足元へ目を戻す。
燭台を打ちつけていた場所より少し上が、ほんのわずかに欠けていた。
欠けた部分へ顔を近づける。
結晶の内側を走る金色の光が、以前よりも弱くなっていた。
「レオン……! これ……!」
欠片を見せようと振り返る。
けれど、レオンは俺を見ていなかった。
手の中の宝珠を、黙ったまま見つめている。
透明な球体の奥で、黒い光が脈打っていた。
「レオン?」
問いかけても、レオンは答えなかった。
その視線が、宝珠から俺に移る。
そして、ゆっくりと俺の前に立った。
レオンは、もう片方の手に持っていた黒い剣を足元へ置いた。
それから、燭台を握っていた俺の手首を掴む。
その拍子に、持っていた燭台が大きな音を立てて落ちた。
「おい、レオン?」
さっきと同じように、身体の具合を確かめるつもりなのかと思った。
けれど、レオンが見ていたのは俺の顔じゃない。
血の滲んだ小指だった。
レオンは俺の手を持ち上げると、傷ついた小指の下へ宝珠を差し出した。
「何、するんだ?」
答えないまま、傷の周りを親指で強く押される。
赤い血が膨らみ、一滴、宝珠の上へ落ちた。
その瞬間、内部の黒い光が大きく揺らめいた。
表面に付着した血が、透明な球体の中へ吸い込まれるように消えていく。
「……やはり反応するのか」
レオンが小さく呟く。
黒い光が、俺の血を追いかけるように激しく脈打っていた。
「同じ世界から来た人間なら、勇者に選ばれていなくても応える」
「……何を、言ってるんだ?」
レオンは宝珠を神官服の懐へしまった。
掴まれていた手首に、急に強い力がかかる。
「レオン?」
腕を引かれ、身体が傾いた。
すぐに肩を押される。
リュネアのせいで痺れた足では、踏ん張ることができなかった。
背中が床へ叩きつけられ、息が詰まる。
「なっ……何するんだよ!」
起き上がろうとした俺の腕を、レオンが横へ引き伸ばす。
そのまま片膝で押さえつけられた。
「離せ!」
空いた手で胸を押しても、レオンはびくともしない。
「……こうするしかない」
低い声だった。
俺を心配していた、さっきまでの声とはまるで違う。
レオンの視線が、血の滲んだ小指から手首へ移る。
さらにその先へ、腕の形を確かめるようにゆっくりと辿っていった。
「まだリュネアが効いている。痛みはないはずだ」
「え……?」
「お前は一度、循環の宝珠を使っている。それに、戦禍の宝珠もお前の血に応えた」
レオンの指が、俺の腕を強く掴む。
「なら、死んだ歴代の勇者と同じように、お前の身体からも武器を作れるはずだ」
言われた意味が、すぐには分からなかった。
けれど、遅れて頭が理解する。
理解した途端、今度はレオンのことが分からなくなった。
「なんで、レオンがそんなこと言うんだよ……」
味方のはずだ。
レオンは魔族の、ヴァルガの──仲間なんだから。
再び、地の底から轟音が響いた。
床が跳ねるように揺れても、腕を押さえつける力は緩まない。
「あの黒濁に対抗するには、今の俺では無理だ。強力な武器でもない限り、勝ち目はない」
レオンは、血の滲んだ小指へ目を落とす。
「きっと、この程度の血では足りない」
レオンは裂けた神官服の裾へ手をかけ、細長く引き裂いた。
その布を俺の肘より上へ巻きつけ、力任せに締め上げる。
「何して……」
「血を失いすぎないためだ。材料は、多いほどいいだろう」
その言葉で、何をしようとしているのか完全に分かった。
「冗談だろ……?」
レオンは答えない。
結び目をきつく縛ると、足元に置いていた黒い剣を拾い上げた。
俺は無我夢中で暴れた。
必死に腕を引いても、片膝で押さえ込まれた腕は少しも動かない。
「本当は、お前には戦禍の宝珠を破壊してもらうつもりだった。あれは転移者にしか壊せない」
「だったら、壊すよ……! だから、こんなことやめ……」
「だが、その前に武器を作る」
「下の黒濁を倒して、その後に人間たちを一人残らず殺す」
「……は……?」
レオンの声は、あまりにも静かだった。
「人間を滅ぼして、この世界を魔族だけの楽園にする」
「それが、平和を願っていた……彼女への弔いになる」
その声は、ほんのわずかに揺れていた。
彼女とは、きっとレオンの番だ。
レオンは番を失ってから、ずっと考えていたっていうのか。
何を犠牲にしても、復讐を遂げると。
助けを求めるように、ヴァルガを見上げた。
女神像を向いたままのヴァルガは、ぴくりとも動かない。
黒い結晶越しに見えるのは、その背中だけだった。
「ヴァルガ……」
呼んだ途端、涙が溢れた。
レオンの手に握られた黒い剣が持ち上がる。
「すまんな、晴斗。お前に恨みはない」
黒い刃が、俺の指先から腕を辿る。
そして、きつく布を巻かれた場所よりも少し下で止まった。
腕を切られる。
全身が震えて、呼吸がうまくできない。
「……やめ、てくれ……」
レオンの表情は変わらない。
「お前は死なない」
レオンが、剣を握る手に力を込める。
「ヴァルガだって、お前を失うよりはましだと思うはずだ」
ず、と肉を切る音がした。
本当に痛みがなかった。
自分の左腕から、音だけが聞こえてくる。
刃は、たいした抵抗もなく腕へ沈んでいく。
俺はもう、自分が叫んでるのか黙っているのかわからなかった。
ただ、耳鳴りがした。
全部がひどく遠い。
なんで。
俺が、何をしたっていうんだ──
やがて、カラン、と剣が床に転がる音がして、レオンが俺から離れた。
起き上がる気力はなくて、視線だけそちらに向ける。
レオンが、人の腕を持って立っていた。
断ち切られた腕の端から滴る血が、レオンの神官服と床を濡らしている。
力なく垂れた手の薬指には、ヴァルガと揃いの指輪が嵌まっていた。
その指輪を見て、ようやく、それが自分の左腕だと分かった。
「あ……」
それきり、声が出なかった。
言えたとしても、何を言えばいいんだろう。
もう、切り取られてしまったのに。
その時だった。
「え……?」
背後から戸惑う声がした。
俺は少しだけ首を持ち上げた。
「はる、と……?」
広間の入口に、奏が呆然と立ち尽くしていた。
肩を大きく上下させ、服や頬には黒い粘液がこびりついている。
握られた聖剣にも、黒いものがべったりと付着していた。
奏の視線が、床に倒れている俺から、レオンへ移る。
その手に握られた、俺の左腕へ。
「何、して……」
掠れた声が震えた。
奏は我に返ったように駆け出した。
俺の傍らに膝をつき、聖剣を床へ置く。
「晴斗……!」
肩を抱かれ、身体を起こされる。
目が合う。
それから奏は、確かめるように、俺の左腕があった場所へおそるおそる目を落とした。
「な……なんで、こんな……」
奏の顔が、どんどん歪んでいく。
「かなで……」
名前を呼んだ途端、喉の奥から嗚咽が漏れた。
奏の腕が、俺の背中へ回る。
その温もりに触れた瞬間、張り詰めていたものが切れた。
右手で奏の服を握りしめる。
「かなで……っ」
涙が、次から次へと溢れてくる。
俺は奏に縋ったまま、子供のように泣きじゃくった。




