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第五十五話 夢の終わり

大司祭の指が、俺の小指を白いシーツへ押しつける。


刃が、付け根に触れた。


「あ、あっ……」


短剣を握る手に、ゆっくりと力がこもる。


ぷつり、と小さな感触がした。


薄く裂けた皮膚から、赤い血が玉のように膨らんでいく。


あの粉が効いているせいか、本当に痛みはなかった。


それでも、自分の指が本当に切られたのだと分かった瞬間、喉の奥から声が迸った。


「ああああああっ!」


絶叫が、閉ざされた部屋に響き渡る。


「怖い? ごめんね。今度するときは、眠ってる間にしようか」


大司祭は安心させるように微笑み、再び短剣を押し込もうとした。


その時、廊下の向こうから激しい足音が聞こえた。


一歩ごとに間隔が乱れ、何かを引きずるような音が混じっている。


それでも足音は、真っ直ぐこちらへ近づいてきた。


大司祭の手が止まる。


「あれ」


不思議そうに、扉を振り返った。


「もう来たの?」


次の瞬間、扉の向こうから、怯えきった声が聞こえた。


「ひっ……! ここです! 大司祭様のお部屋は、ここです!」


扉が大きく揺れた。


扉に何度も固い何かが叩きつけられる音がする。


錠前の周りに亀裂が走り、木片と金具が弾け飛ぶ。


扉が勢いよく内側へ開いた。


その向こうに、全身を血で濡らしたレオンが立っていた。


神官服はあちこちが裂け、首筋から流れた血が胸元まで赤く染めている。足元も覚束なく、肩を大きく上下させていた。


片手には、血に濡れた小剣。


もう一方の手は、神官の髪を鷲掴みにしている。


床へ膝をつき、引きずられていたのは、さっき廊下で助けを求めた神官の一人だった。


「案内しました……! 言われたとおり、ちゃんと……!」


神官が泣きそうな声を上げる。


レオンはその髪から手を乱暴に離した。


神官の身体が、廊下へ崩れ落ちる。

這いつくばりながら悲鳴を上げ、廊下の奥に逃げていった。


「レ、オン……」


痺れた舌で、どうにか名前を呼んだ。


レオンの視線が、一瞬だけ俺を通り過ぎる。


ベッドに押さえつけられている俺。


小指に触れたままの短剣。


白いシーツの上に落ちた、赤い血。


すべて見えたはずなのに、レオンは俺の名前を呼ばなかった。


その目は、最初から大司祭だけを捉えていた。


「シンはどうしたの?」


大司祭は俺の上に跨がったまま、楽しそうに笑う。


「もしかして、死んじゃった?」


レオンは答えない。


血に濡れた小剣を握り締め、大司祭を睨みつけている。


その視線が、眼帯の外れた目で止まった。


眼球の中心に埋め込まれた、透明な球体。


その内部で脈打つ、黒い光。


「……そこにあったのか」


押し殺した声が落ちる。


大司祭は剥き出しになった目元へ触れ、嬉しそうに笑った。


「これを探していたの?」


レオンの視線が、目の中に埋め込まれた宝珠から、大司祭の顔へ移る。


その目に浮かんでいたのは、怒りなんて言葉では足りないほどの、剥き出しの憎しみだった。


「……好都合だ」


血に濡れた小剣を、強く握り締める。


「お前を殺して、抉り出してやる」


レオンが床を蹴った。


一瞬でベッドまで迫り、大司祭へ小剣を振り下ろす。


大司祭は俺の小指を離すと、空いた手をレオンへ向けた。


治療の時に感じたものと同じ、温かな神力が一気に膨れ上がる。


小剣が見えない壁へぶつかったように、大きく弾かれた。


「っ……!」


レオンの身体まで衝撃に押され、数歩後ろへ下がる。


その隙に、大司祭は俺の上から退いた。


短剣を手にしたままベッドから降り、俺とレオンの間へ立つ。


「危ないなあ。晴斗くんに当たったらどうするの」


俺を庇うように立ちながら、困った顔でレオンを見つめている。


「彼は、とても貴重なんだよ」


レオンは答えなかった。


すぐさま床を蹴り、再び大司祭へ斬りかかる。


大司祭が片手を翳す。


神力がぶつかり、小剣の軌道を逸らした。


けれど、今度はレオンの身体まで押し返すことはできなかった。


レオンは弾かれた腕を強引に引き戻し、続けざまに刃を振るう。


右から、左から。


何度弾かれても、攻撃は止まらない。


「すごいね」


大司祭は目を輝かせた。


「本当にシンと戦ったあとなの?」


「黙れ!」


レオンが吠え、さらに深く踏み込む。


振り下ろされた小剣へ、大司祭が神力をぶつけた。


けれど、今度は完全には弾けなかった。


押し戻そうとする神力を切り裂くように、刃が迫ってくる。


大司祭は寸前で身体を捻った。


白い衣が肩口から裂け、赤い血が滲む。


「まるで獣だ」


笑みを浮かべたまま、大司祭は目を細めた。


「君も、強い黒濁になるかもしれないね」


レオンの顔が、さらに激しい憎悪に歪む。


「貴様……!」


攻撃がますます激しくなる。


もう最初のように、レオンを押し返すことはできない。


大司祭は一撃を弾くたびに後ろへ下がり、やがて壁際まで追い詰められた。


壊れた扉の向こうには、物音を聞きつけた神官たちが集まっている。


「大司祭様……!?」


大司祭はレオンから視線を逸らさないまま、声だけを廊下へ向けた。


「ああ、ちょっと兵士を呼んできてくれない?」


再び小剣を弾く。


大司祭の身体が大きく揺らいだ。


それでも、どうにか踏みとどまった。

額には、うっすらと汗が滲んでいる。


「流石にまずいかも」


神官たちの間から悲鳴が上がった。


彼らが我先にと逃げ出す。その流れに逆らうように、青い影が部屋へ飛び込んでくる。


「大司祭様!」


黒い剣が、大司祭へ振り下ろされた小剣を受け止めた。


激しい金属音が響き渡る。


「シン!」


青い外套は裂け、全身が血に濡れている。


それでもシンは黒い剣を構え、大司祭を背後に庇っていた。


「大司祭様、今すぐここからお逃げください!」


「でも、晴斗くんを連れていかないと」


大司祭が、ベッドに横たわる俺へ目を向ける。


「このまま置いていくわけにはいかないよ」


「そんなことを言っている場合ではありません!」


シンの鋭い声が、部屋に響いた。


大司祭が驚いたように目を瞬かせる。


「晴斗様は、私が必ずお連れします。ですから、今はお一人でお逃げください!」


「でも……」


「早く!」


再び叱りつけられ、大司祭は困ったように眉を下げた。


それから、名残惜しそうに俺を見る。


「……絶対に連れてきてね」


大司祭は渋々、壁に手をつきながら壊れた扉へ向かった。


その背中へ、レオンが斬りかかる。


黒い剣が、すぐさま小剣を受け止めた。


「行かせると思うか!」


シンは黒い剣を押し込み、レオンを部屋の中へ押し戻す。


再び二つの刃がぶつかり合った。


レオンは大司祭を追うのを諦めたように、シンだけを狙って小剣を振るう。


シンは黒い剣で受け止めていく。


けれど、一撃を受けるたびに足元が揺らいだ。


裂けた外套から血が滴り、床へ赤い跡を増やしていく。


それでもシンは退かなかった。


その時、レオンの視線がシンの肩越しへ滑った。


視線の先で、大司祭の長い金色の髪が揺れている。


レオンはすぐにシンへ向き直り、小剣を大きく振り上げた。


シンが黒い剣を持ち上げ、攻撃に備える。


その直前、レオンが手首を返した。


小剣がその手から離れ、大司祭めがけて飛んでいく。


「大司祭様!」


シンが横へ踏み出す。


迷うことなく、刃の前へ身体を投げ出した。


小剣が、シンの胸元へ深く突き刺さる。


青い外套が揺れ、その背後から大司祭の姿が現れた。


「シン……?」


大司祭は目を見開いたまま、崩れ落ちるシンを見つめていた。


倒れたシンは激しく血を吐いた。

それでも、うっすらと目を開ける。

見上げた眼差しの先に、立ち尽くす大司祭がいた。


「逃げろ、エリオ……」


聞いたことのない名前だった。


けれど、それが大司祭の名だとすぐに分かった。


シンの首が、力なく落ちる。


「シン……?」


大司祭は動かなかった。


床に倒れたシンを見つめたまま、ただ立ち尽くしている。


「シン」


もう一度、その名を呼ぶ。


返事はない。


大司祭は、シンがまた立ち上がるのを待っているようだった。


けれど、シンは動かない。


さっきまで浮かんでいた笑みが、少しずつ消えていく。


やがて膝から力が抜けるように、シンの傍らへ膝をついた。


「シン……お前、本当に馬鹿だな……」


いつもの口調じゃない。


甘く楽しげな響きは、どこにもなかった。


「俺の周りにいた男は……みんな馬鹿ばかりだ」


やがて、大司祭の上に影が落ちた。


ゆっくりと顔を上げる。


薄紫の瞳が、レオンの冷たい眼差しとぶつかった。


レオンは無言で、シンの手から滑り落ちた黒い剣を拾い上げる。


柄を握る両手が、震えていた。


きっと、疲れだけのせいじゃない。


その目に宿った憎しみを見れば、すぐに分かった。


レオンが黒い剣を大きく振り上げた。


「死ね」


怒りのすべてを叩きつけるように、渾身の力で振り下ろす。


黒い刃が、大司祭の肩口へ深く食い込んだ。


そのまま白い衣を斜めに切り裂き、反対側の脇腹まで走る。


大司祭の身体が床へ叩きつけられた。


白い衣が、見る間に赤く染まっていく。


それでも、まだ息があった。


血に濡れた唇が、かすかに動く。


「……あいつが……怒るぞ……」


その声には、かすかな笑いが混じっていた。


レオンは大司祭の髪を掴み、顔を持ち上げた。


宝珠の埋まった目へ指をかけ、一息に抉り出す。


大司祭の身体が、一度だけ大きく跳ねた。


けれど、悲鳴は上がらない。


喉から、かすかな息が漏れただけだった。


髪から手を離すと、大司祭の身体がずるりと床へ崩れ落ちた。


今度こそ、ぴくりとも動かなくなった。


同情はできなかった。

この男のせいで、たくさんの魔族が死んで、勇者たちは死んでからもずっと酷い目に遭わされてた。


それでも、目の前でさっきまで話していた男が、もう動かないことに胸が痛くなる。


レオンは血に濡れた宝珠を握ったまま、大司祭を見つめ続けていた。


これで、大司祭への復讐は終わったんだろう。


けれど、その顔は少しも晴れ晴れとしていない。


なんて声をかけていいのか、分からなかった。


俺はぼうっとする頭を振り、なんとか自分でベッドから降りた。


「レオ……」


呼びかけようとしたその時、神殿の奥深くから地鳴りのような音が響いた。

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