第五十四話 叶った夢
振り返った瞬間、大司祭の両腕が俺の身体へ回った。
「なっ……」
強く胸元へ抱き寄せられる。
長い金色の髪が頬に触れ、甘い花の香りが鼻を掠めた。
「やっと、二人きりになれた」
弾んだ声が、すぐ耳元で聞こえる。
大司祭の身体は、喜びを抑えきれないように震えていた。
「離せ!」
胸を押し返しても、大司祭はびくともしない。
腕の中から逃れようと、全力で身体を捩る。
「暴れないで。危ないよ」
「触るな!」
抵抗する俺をものともせず、大司祭はベッドの前まで引きずっていく。
膝の裏がベッドの縁にぶつかった。
体勢を崩したところを押され、背中が柔らかなシーツへ沈む。
起き上がろうとした俺の両手首を、大司祭が押さえつけた。
「やめろ! 何する気だよ!」
「何って……」
大司祭は不思議そうに首を傾ける。
「晴斗くん、なんでもするって言ったよね?」
ぞっとした。
ヴァルガを助けてほしくて、確かにそう言った。
でも、こんなことをするなんて──
「ふざけんな! そんな意味で言ったんじゃない!」
必死に腕を引いても、押さえつける手は少しも動かなかった。
「俺にはヴァルガがいるんだ! あいつ以外と、こんなこと──」
大司祭が目を瞬かせた。
それから、堪えきれないように吹き出す。
「もしかして、そういうことだと思ったの?」
肩を震わせて笑い始めた大司祭を睨みつける。
「何がおかしいんだよ!」
「ごめんね。まさか、そんな勘違いをするとは思わなくて」
大司祭は、押さえつけていた俺の手首を解放した。
けれど、俺の上から退こうとはしない。
腰を跨いだまま上体を起こし、楽しそうにこちらを見下ろしている。
「安心して。ヴァルガくんの真似をするつもりはないよ」
「……違う、のか?」
張り詰めていた息が、ほんの少しだけ抜けた。
大司祭は笑みを残したまま、俺の頬に触れた。
「でも、君の身体が欲しいのは合ってる」
「……は?」
「少しだけ、私に分けてほしいんだ」
言っている意味が分からなかった。
色の変わった俺の髪を撫でる。
「可哀想に。これ、循環の宝珠を使ったせいでしょう?」
「な、に……」
「私は循環の宝珠なんて、使わせたりしないよ。土地を甦らせるために、君を消耗させるなんてもったいないでしょう?」
「土地が痩せようと、誰かが飢えようと、私には関係ない。君より大事なものなんてないよ」
大司祭の指が髪から離れ、今度は手の甲から指先までをゆっくりと撫でていく。
「一度にたくさんもらったら、君が死んじゃうでしょう?」
大司祭は、安心させるように微笑んだ。
「だから少しずつ。なるべく長く、死なないように大事に使うよ」
「何、言ってる……?」
よくわからなくて、必死に頭を働かせる。
棺の中に横たわっていた、干からびた遺体。
切り取られ、小さくなった身体。
シンが持っていた黒い剣と、二つの空の棺が頭に浮かぶ。
ようやく、大司祭が何を言っているのか分かった。
「俺の身体を……武器の材料にするつもりなのか?」
「同じものができるかは、まだ分からないよ」
大司祭は楽しそうに目を細める。
「勇者に選ばれなかった君の身体を混ぜたら、戦禍の宝珠が何を作るのか。それを試してみたいんだ」
「それが……あの時、言いかけたことなのか?」
「そうだよ」
俺の指先を持ち上げ、大切なものへ触れるように撫でる。
「これが、この世界で唯一の……君自身の価値だよ」
そして、なんでもないことのように笑った。
「まずは、指を一本もらおうと思って」
「え……?」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
指を一本、もらう。
その意味が頭に染み込んだ途端、全身から血の気が引いた。
「や、やめろ……!」
その手を勢いよく振り払う。
手の甲が大司祭の頬を掠めた。
その瞬間、指先に細い何かが引っかかる。
「あ……」
眼帯を留めていた細い銀紐が外れ、眼帯が白いシーツの上へ落ちた。
その下に隠されていた目を見て、息が止まる。
眼球の中心に、透明に近い小さな球体が埋め込まれていた。
その内部で、黒い光がゆらりと揺れている。
鼓動のように。
目の中に、異物がある。
そう認識した途端、自分の目の奥まで疼くような感覚がして、吐き気が込み上げた。
それでも、目を逸らすことができない。
どこかで見たことがある。
色は違う。
けれど、透明な球体の中で光が脈打つ様子は、ヴァルガが持っていた循環の宝珠によく似ていた。
「これ……宝珠、なのか……?」
大司祭は剥き出しになった目元へ触れ、楽しそうに笑った。
「見つかっちゃったね」
「じゃあ、これが……」
「そう。戦禍の宝珠だよ」
レオンが探していた宝珠。
ずっと、この眼帯の下に隠していたのか。
「なんで……目の中に、そんなもの……」
「なくしたら困るでしょう? ここならいつでも使えるし、一番安全だからね」
何でもないことのように答える。
落ちた眼帯を拾おうともしない。
頭がおかしい。
今までだって、何度もそう思った。
でも、こいつは俺が考えていたより、ずっと壊れている。
魔族の身体を化け物に変えることも。
勇者の遺体を切り刻むことも。
自分の目に宝珠を埋め込むことさえ、こいつにとっては、何でもないことなんだ。
そんな奴にとって、俺の指一本なんて、本当に大したものじゃない。
こいつは本気だ。
本気で、俺の指を切り落とすつもりなんだ。
逃げようと身体を捩った次の瞬間、再び両手を押さえつけられた。
「なんでもするって、言ったよ?」
「離せ!」
「まず、どの指にする? 生活に支障がないように、あまり使わない指がいいかな」
大司祭は暴れようとする俺の両手首を片手でまとめて押さえ、もう一方の手で指を順番に撫でていく。
やがて薬指の指輪に触れ、動きがぴたりと止まった。
「この指輪……ヴァルガくんもしてたよね」
間近で、薄紫の瞳が揺れるように笑った。
「や、め……!」
やだ。
これだけは駄目だ。
今の俺とあいつを繋げている、唯一のものなのに。
涙が溢れた。
「ああ、泣かないで」
大司祭は困ったような顔で、薬指から手を離した。
その手で俺の頭を撫で、頬を伝う涙に口づける。
「嘘だよ。そんなことしない」
指輪だけは奪われずに済む。
そのことに、束の間ほっとした。
「じゃあ、こっちね」
その隣の小指を、ぐいと持ち上げられた。
「っ……!」
「そんなに怖がらなくても大丈夫。痛いことはしないよ」
大司祭はいったん俺の小指を離した。
両手首は片手で押さえたまま、空いた手を懐へ入れ、小瓶を取り出す。
親指で蓋を弾くと、甘い匂いが鼻を掠めた。
「それ……リュネアの……」
「レオンくんも言ってたでしょう? 鎮静と痛み止めに使えるって」
大司祭は嬉しそうに笑った。
「これを吸えば、本当に痛くないから」
小瓶を俺の顔の前で振る。
何をする気なのか分かった時には、白い粉が目の前で舞っていた。
大司祭は小瓶をシーツの上へ放り出した。
咄嗟に顔を背けようとしたけれど、空いた手で顎を掴まれる。
「や、やめ……!」
もがいた拍子に息を吸い込み、甘い匂いが喉の奥まで一気に入り込んだ。
「げほっ……!」
咳き込んで吐き出そうとしても、もう遅かった。
舌先が痺れ、頭の奥がぼんやりと霞んでいく。
手足にも、思うように力が入らない。
「ほら。たくさん吸い込めたね。これでもう大丈夫」
大司祭は俺の顎から手を離し、押さえつけていた俺の両手首を解放した。
逃げようと腕を引く。
けれど、力が抜けて、さっきまでのように動かせなかった。
再び小指を掴まれ、白いシーツの上へ押しつけるように伸ばされる。
大司祭は空いた手で、胸元から短剣を取り出した。
「この粉は便利でね、傷口に塗れば止血もできる」
薄い刃を灯りに翳し、満足そうに眺めている。
指を曲げて逃れようとしても動きが鈍く、簡単に押し戻されてしまう。
どんどん順序よく話が進んでいく。
俺の意思を置き去りにして。
「やめてくれ……」
震えて、舌を噛みそうになりながら懇願する。
大司祭は短剣を持ったまま、ぽつりと呟いた。
「……生きている転移者を使えるなんて、本当に嬉しいんだ」
剥き出しになった目の中で、黒い光がゆらりと揺れる。
「ずっと、私が生きているうちに勇者が現れればいいと思っていた」
大司祭は夢を見るように目を細めた。
「生きている材料を使ったら、どんな武器ができるんだろう。今あるものより、もっと強力かもしれない」
「一人でも現れれば幸運なのに、今回は二人も来た。聖剣に選ばれた奏くんと、選ばれなかった君」
「しかも、二人とも生きている。同じ世界から来た二人の身体に、どんな違いがあるのか比べられるんだよ」
声がますます弾んでいく。
「私の代で、こんなに珍しい材料が二つも揃うなんて、思ってもいなかった」
「君と奏くんが来て、夢が叶った」
短剣の切っ先が、俺の小指へ近づいてくる。
「やだ……やめろ……」
腕を引いても、小指を掴む手を振りほどけなかった。
大司祭の声は止まらなかった。
「それに、君や奏くんに子供ができたら、その子にも転移者の力は受け継がれるのかな」
楽しそうに想像を巡らせている。
「その子も、材料として使えるんだろうか」
俺は呆然として、声も出なかった。
まだ生まれてもいない。
存在するかどうかさえ分からない子供を、こいつはもう材料として見ている。
「君のおかげで、ヴァルガくんも手に入った」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で心臓が大きく跳ねた。
「ヴァルガに……触るな……」
必死に声を絞り出しても、大司祭は穏やかに笑っている。
「彼を使えば、檻のあの子より強い黒濁が作れるかもしれない」
檻の中で悲しそうに鳴いていた、巨大な黒濁が頭に浮かぶ。
あれと同じものに、ヴァルガを変えるつもりなのか。
俺も、奏も、ヴァルガも。
まだ存在すらしていない子供まで。
こいつにとっては、すべてが実験に使うための材料でしかない。
恐怖が足元から這い上がる。
震えが止まらない。
大司祭はそんな俺を見つめ、少しだけ悲しそうな顔で微笑んだ。
「協力して、晴斗くん。一生、君たちを大事に使うから」




