第五十三話 鬼ごっこ
「へえ」
大司祭は、興味深そうに目を瞬かせた。
「黒濁になっても、番だと分かるんだ?」
レオンは答えなかった。
突然、肩を強く押される。
「うわっ……!」
床へ投げ出され、咄嗟に手をついた。
何をするんだと顔を上げる。
レオンの手が、神官服の内側へ入っていた。
「動くな」
シンが、レオンの首筋へ押し当てた剣に力を込める。
それでも、レオンは止まらなかった。
引き抜いた小剣で、黒い刃を激しく弾く。
甲高い音とともに、レオンの首筋から血が散った。
すぐにシンが剣を振り下ろす。
レオンは身体を捻ってそれを躱し、小剣を横薙ぎに振るった。
黒い剣が受け止める。
二つの刃がぶつかるたび、激しい音が研究室に響いた。
シンの剣は重く、一撃ごとに空気まで震わせる。
レオンは小剣で受け流し、素早く懐へ潜り込もうとする。
けれど、そのたびにシンが進路を塞いだ。
どちらも一歩も譲らない。
俺は床を這うようにして、二人から距離を取った。
「すごいね。シンとここまで戦えるんだ」
大司祭は逃げようともせず、楽しそうに二人を眺めている。
「それで、レオンくん」
激しく打ち合う音の合間を縫って、穏やかな声が響いた。
「君の番は、どうなったの?」
レオンの小剣が、シンの黒い刃を強く押し返した。
大司祭は檻の中で蠢く黒濁へ目を向けた。
「捕まえた? この子みたいに?」
「でも、普通の檻じゃ無理だよね。いつも、あの子たちを森まで運ぶのは、苦労するんだよ」
笑みを浮かべたまま、首を傾ける。
「ああ、それとも……殺してしまった?」
レオンの顔が、激しい怒りに歪んだ。
「黙れ!」
小剣を大きく振り抜く。
シンが受け止めた瞬間、レオンはその脇をすり抜けた。
狙っているのは、シンじゃない。
真っ直ぐ、大司祭へ向かっている。
「大司祭様!」
シンが無理やり身体を反転させ、二人の間へ割って入った。
レオンの小剣が、シンの腕を掠める。
青い外套が裂け、血が滲んだ。
それでもシンは怯まず、レオンを押し戻す。
再び二人の剣がぶつかった。
レオンは、もうシンを見ていなかった。
大司祭へ近づこうとするたび、黒い剣が行く手を阻む。
レオンの小剣が大司祭へ向けられるたびに、シンは無理な体勢でも割って入った。
肩を裂かれ、頬にも細い傷が走る。
それでも、大司祭の前から退こうとはしない。
シンの背後からひょこりと大司祭が顔を覗かせる。
「やっぱり魔族って、難儀な生き物だね。番のせいで、こんなに周りが見えなくなるんだから」
戦いにそぐわない、のんびりとした声。
「大司祭様、お逃げください!」
シンが叫んでも、大司祭は軽く笑っている。
「シン、負けちゃうかもね。頑張って」
「早く!」
鋭い声が、研究室に響いた。
大司祭は仕方がないとでもいうように肩をすくめた。
「分かったよ」
その視線が、床に座り込んでいる俺へ向いた。
大司祭がこちらへ歩いてくる。
逃げようとしたけれど、足に力が入らなかった。
目の前に屈み、何事もなかったように手を差し出す。
「それじゃあ、行こうか。晴斗くん」
「嫌だ……」
後ずさろうとした瞬間、差し出された手が俺の手を掴んだ。
優しい掴み方なのに、振りほどくことができない。
「ここにいたら危ないよ」
「離せ!」
必死に腕を引いたけれど、大司祭は笑ったまま立ち上がる。
「晴斗から手を離せ!」
レオンがこちらへ踏み出した。
その前へ、シンの黒い剣が振り下ろされる。
レオンは小剣で受け止め、大きく後ろへ押し戻された。
「レオン!」
「行こう、晴斗くん」
大司祭に強く手を引かれる。
レオンの怒声と激しい金属音を背中に浴びながら、俺は部屋の外へ連れ出された。
棺の部屋も通り抜け、女神像の下から広間へ戻ると、真っ先に黒い結晶が目に入った。
「ヴァルガ……!」
思わず助けを呼んでしまう。
足を踏ん張って結晶にしがみつく。
それでも、つるりと滑って手が離れてしまう。
大司祭は、俺の手を掴む力を強めた。
「離せよ!」
「離さないよ。もう君は私のものだから」
「何言って……」
大司祭はふわりと笑った。
「もう、とぼけなくてもいいんだものね。嬉しいよ。奏くんから君が戻ってくると聞いて、いてもたってもいられなくて外まで会いに行ったんだ」
兵士から助けてくれたのは、偶然じゃなかったのか?
「ほら、私の部屋に行こう!そこまで行ったら、きっとシンがレオンくんを片付けてくれてるだろう」
大司祭は俺の手を掴んだまま、片手で広間の錠を外した。
重い扉を押し開け、俺を引っ張るように廊下へ出る。
大司祭の足取りは軽やかだった。
長い金色の髪を揺らしながら、楽しそうに笑っている。
「なんだか、子供の頃にやった鬼ごっこみたいだね」
「何が鬼ごっこだよ……離せ!」
腕を引き、足を踏ん張る。
それでも大司祭は少しも止まらなかった。
ほっそりとした身体のどこに、こんな力があるのか分からない。
痛くないように優しく握られているのに、どうしても手を振りほどけなかった。
「助けてください!」
廊下の向こうから歩いてきた神官たちへ、必死に声を上げる。
「この人に、無理やり連れていかれてるんです!」
神官たちは足を止め、困惑したように顔を見合わせた。
大司祭が振り返り、安心させるように笑う。
「驚かせてごめんね。この子、少し興奮しているだけだから」
「あ……そうでしたか」
神官たちは安堵したように笑い、大司祭へ深く頭を下げた。
「違う! 助けてくれ!」
もう一度訴えても、曖昧な笑みを返されるだけだった。
大司祭に道を譲り、そのまま俺たちの横を通り過ぎていく。
「待って……!」
振り返った神官と目が合った。
それでも、足を止めてはくれなかった。
神官たちの姿が見えなくなると、大司祭は繋いだ俺の手へ目を落とした。
その口元に浮かぶ笑みが、さっきよりも少しだけ深くなる。
再び歩き出した足取りも、わずかに速くなっていた。
そのあとも、何人もの神官とすれ違った。
助けを求めるたび、誰もが戸惑った顔をする。
けれど、大司祭が笑って「大丈夫」と言えば、それ以上は何も聞かなかった。
そのたびに、大司祭の声は少しずつ弾んでいく。
何度も俺を振り返り、嬉しそうに目を細める。
握られた手から、わずかな震えが伝わってきた。
どうして、そんなに嬉しそうなんだ。
誰もが、この人が俺に酷いことをするはずがないと信じている。
そのことが、どうしようもなく恐ろしかった。
角を曲がる頃には、大司祭は待ちきれないように俺を引っ張っていた。
長い金色の髪が、歩調に合わせて大きく揺れる。
やがて、一つの扉の前で足を止めた。
俺の手を握る指に、ほんの少しだけ力がこもる。
「着いたよ」
振り返った大司祭の笑みは、廊下へ出た時よりもずっと深くなっていた。
「ここが、私の部屋」
大司祭は空いている手で、扉を開けた。
その部屋は広く、至るところに花が飾られていた。
奥には豪華なベッドが置かれ、真っ白なシーツには皺一つない。
大司祭は俺を部屋へ押し込むと、背後で扉を閉めた。
カチリ、と小さな音がする。
その音に、背筋が冷たくなった。
「……なんで、鍵をかけるんだよ……」




