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第五十二話 最高傑作

狭い通路に、四人分の足音だけが響いていた。


前を歩く大司祭の長い金髪が、壁の灯りを受けて揺れている。


レオンは、その背中から目を逸らさない。


掴まれた腕が痛い。

でも、何故か離せとは言い出せなかった。


ヴァルガのところへ戻りたい。


どうして俺は、こんなところまで来てしまったんだろう。


通路を進むにつれ、甘い匂いが強くなっていく。


どこかで嗅いだことのある匂いだった。


そうだ。


治療室で、いつも大司祭が白い粉を撒いていた。


あの時と同じ匂い。


やがて通路の先に古ぼけた扉が見えた。

大司祭がゆっくり押し開けると、重い音が響いた。


匂いが強くなった。


「リュネアの花の匂いか……」


レオンが眉をひそめた。


「知ってるのか?」


「鎮静や痛み止めに使う。腐敗を遅らせる効果もある」


だから治療の時、いつも撒いていたのか。


でも、どうしてここで同じ匂いがするんだろう。


大司祭が振り返らないまま笑った。


「よく知ってるね」


レオンはその背中を見据えたまま、何も答えなかった。


大司祭に続いて、開いた扉の先へ足を踏み入れる。


そこは、安置所とはまるで違っていた。


神殿内とは思えないほど簡素で、黒っぽい石壁に囲まれた大きな洞穴のような場所だった。

奥にはたくさんの大きな樽が並べられている。


黒濁は、魔族を材料にして作られている。

だから、ここにも死体があるんじゃないかと思っていた。

でも、ここにはそれが見当たらない。


少しだけほっとした。


部屋の中央にある大きな台が目に入った。


人が横たわれるほどの長さがある。


その上に置かれているのは、形の違う刃物や金属の器具。


先端が細く尖ったもの。


鋸のように細かな刃がついたもの。


何に使うのか分からない道具が、整然と並べられていた。


「ここが、私の研究室」


大司祭は自慢するように両手を広げた。


「さっきの武器も、黒濁も、ここで作ったんだよ」


「……黒濁にも宝珠を使うのか」


レオンの問いに、大司祭はあっさりと頷いた。


「もちろん。魔族の身体へ宝珠の力を流し込んで、争うためだけのものに作り変えるんだ」


「……宝珠はどこにある」


大司祭は楽しそうに目を細めた。


「それは秘密」


「ここまで見せてあげたんだから、一つくらい隠しておいてもいいでしょう?」


俺の腕を掴むレオンの手が、わずかに震えた。

やがてその手を離し、大司祭へ一歩近づく。


「……材料は。魔族の遺体はどこだ」


低い声が、部屋へ落ちた。


大司祭は楽しそうにレオンを見つめる。


「ああ、最近のはミレグのだね。それなら、あそこだよ」


大司祭の指先は、部屋の奥に並ぶ大樽へ向けられていた。


心臓がどくんと跳ねた。


「……これ、全部……」


大司祭は壁際の戸棚へ向かい、中から小瓶を取り出した。


蓋を開け、白い粉を手のひらへ少しだけ注ぐ。


「ミレグは遠いからね。運ぶ途中で遺体を樽へ詰め替え、リュネアの粉を何度か振りかけるよう指示したんだ」


「それでも大半はだめになってしまうんだけど」


大司祭は小瓶の蓋を閉め、懐にしまった。


手のひらに残った粉を、指先で弄ぶように床へさらさらと落としていく。


「金しか考えてない奴らは便利で助かるよ。たくさん報酬を渡せばちゃんと仕事する。深いことは考えない」


ミレグでの魔族の惨殺。

まだ鮮明に思い出せるほど最近の出来事だ。

恐ろしくて思い出そうともしなかったけど。


あれを仕組んだ奴が、目の前で笑ってる。


「なんで、こんなことできるんだよ……」


思わず呟いた言葉に、大司祭は笑った。


「黒濁は私が考えたんじゃないよ。先代の大司祭が初めて作ったんだ」


「魔王の森に人は入れない。なら、魔族の身体を使ってなんとか突破できないか……」


大司祭は首を傾けて皮肉げに言う。


「ほんとよく、考えたよね。制御できない黒濁が、循環の宝珠に引き寄せられるなんて、偶然だったろうに」


「でもね、初めて黒濁を見た時、私はそれが……」


大司祭の薄紫の片目が、うっとりと蕩けた。


「美しいと感じたんだ」


あの悍ましい化け物が、美しい?

何を言ってるのかわからなかった。


「先代はお歳だったからね。それから間もなくして亡くなってしまったんだ。そこから私が引き継いだ」


レオンがきつく拳を握りしめていることに気づいた。


きっと、仲間が殺されたことが許せないんだ。


そんなことに気づかず大司祭は話を続ける。


「いろいろ実験したよ。最近作ったものなら、君たちも見たんだろう? 魔族の子供を宿主にした黒濁」


ウィルダでの魔族の子供のことだ。

あれも、こいつが……。


「あれはかなり自信作だった。あれなら、森で魔族にもばれずに城まで辿り着けるはずだったんだ。でも、輸送中に落としてしまったみたいでね」


大司祭は心底残念そうな顔をした。


「でも、今までで一番の自信作は別にあるんだ」


そう言って、部屋の奥へ歩いていく。


大きな樽の間を抜けた先は、灯りも届かないほど暗かった。


大司祭が指先を掲げる。


淡い金色の光が灯り、暗闇の中に巨大な檻が浮かび上がった。


床から天井へ向かって、黒い結晶が何本も伸びている。


結晶の隙間には、金色の光が脈打つように流れていた。


ヴァルガを閉じ込めているものと同じだ。


そのことに気づいた瞬間、胸が苦しくなる。

俺は薬指にはめた指輪をぎゅっと握った。


檻の中には、巨大な黒い塊があった。


天井へ届きそうなほど大きく膨れ上がり、表面が呼吸するようにゆっくりと波打っている。


黒い泥が檻の隙間から溢れようとするたび、金色の光が強く輝いた。


低い音が響き、黒濁が奥へ押し戻される。


思わず後ろに後ずさった。

こんなに大きいのは、見たことがない。


出てはこられないようだけど、それがうぞうぞと動くたびに身体が反応してしまう。


「すごいでしょう? 力が強くて、ヴァルガくんと同じく、私の力と宝珠がないと抑えられないんだよ」


大司祭は檻へ近づき、黒い結晶へそっと手を触れた。


「この子は、私が初めて作った黒濁なんだ」


うっとりとした声だった。


「先代が作ったものを見て、私も自分で作ってみたくなってね」


「……これも、魔族を使ったのか?」


大司祭は俺を振り返る。


「そうだよ。この子の核になっているのは、一人の魔族」


再び檻の中を見上げ、懐かしむように目を細めた。


「晴斗くんには前に少し話したね。私のことを運命の番だと言って、いつもまとわりついていた男だよ」


「……番を……?」


確かに、治療中に大司祭が話していた。

ヴァルガのような男がいたって。


ヴァルガみたいに、あんなに番を求める魔族を、こんな化け物に……?


それは、その人が望んだことなのか?


それとも──


黒濁が大きく鳴いた。

耳を塞ぎたくなるような叫び声。

でも、なんだかそれはひどく悲しそうで俺は胸を押さえた。


近くで、誰かが小さく息を呑んだ。


振り返ると、いつのまにかシンがすぐそばまで来ていて、檻の中を見つめている。


その顔は、ひどく苦しそうだった。


「最初は、こんなに大きくなかったんだけどね。ほかの魔族を少しずつ混ぜて、強くしていったんだ」


大司祭が、部屋に並んだ樽へ目を向ける。


「今回ミレグから届いた遺体も、もういくつか使ったよ。まだ全部は入れてないけど、それでも前とは比べものにならないくらい強くなった」


檻の中で、黒い塊が大きく波打った。


黒い結晶が、びりびりと震える。


「私の最高傑作だよ」


大司祭は嬉しそうに笑った。


レオンは何も言わない。


檻の中の黒濁を、瞬きもせず見つめていた。


「……これを作ったのは、いつだ」


やがて、掠れた声が落ちる。


「最初に作った時?」


「そうだ」


大司祭は考えるように首を傾けた。


「十年くらい前かな」


レオンの拳が、固く握られる。


「一度目の……ミレグを襲わせたのはお前か」


「一度目?」


確か、レオンから聞いたことがある。


ミレグでは以前にも、多くの魔族が殺されたと。


でも、どうして今それを聞くんだ?


「え? それって何年前?」


「……十年前だ」


少し考えたあと、大司祭はぽんと手を打った。


「私は関わってない。それは先代の命令だね」


張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。


レオンの肩からも、少しだけ力が抜ける。


大司祭はそんなレオンを見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「でも、そのあとすぐ先代が亡くなって、私が引き継いだ」


明るい声が、静かな部屋に響く。


レオンの表情が凍りついた。


「あの時は、たくさんの遺体を無駄にしないように無我夢中だったよ。この子を作った経験を活かして、運ばれてきた遺体から何体も黒濁を作った」


大司祭は、懐かしむように目を細め、それからレオンを見た。


「あの頃、森には黒濁がたくさん来たでしょう? レオンくんも見た?」


その途端、レオンから目に見えない何かが噴き出した。


全身を押さえつけられるような重圧に、息が詰まる。


なんだ、これ……


「レ、レオン……!」


背後で、金属の擦れる音がした。


気づいた時には、シンの黒い剣がレオンの首筋へ突きつけられていた。


「殺気を収めろ」


レオンはシンを振り返らなかった。

大司祭を睨みつけたまま、拳をさらに強く握りしめる。


爪が食い込み、血が滴った。


「俺の……番がいた」


「……え?」


「その中に、俺の番がいたんだ」

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