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第四十八話 届かない手

奏の姿が、視界から消えた。


次の瞬間、白い広間に激しい金属音が響く。


火花の向こうで、ヴァルガの剣が聖剣を受け止めていた。


いつ奏が踏み込み、ヴァルガが剣を抜いたのか。

俺の目には、まったく見えなかった。


神官たちは悲鳴を上げ逃げていく。


そばにいた大司祭が、呆れたように笑う。


「なんだい? あれ。ケンカ?」


寝台から飛び降りて、ヴァルガたちに向かって叫んだ。


「やめろ!」


二人のもとへ駆け出そうとした、その時。


背後から腕を掴まれた。


大司祭の華奢な腕ではない。


見上げると、すぐ後ろにシンが立っていた。


「危ないよ、晴斗くん」


大司祭は、戦う二人から目を離そうともしない。

その口元には、まだ笑みが浮かんでいた。


それを見て、背筋がぞくりとした。


「なんで、笑って……」


刃のぶつかる音に、はっとする。

ヴァルガたちの方へ視線を戻した。


「は、離せ! 止めないと……!」


振りほどこうとしても、シンの腕はびくともしない。


「レオン!」


二人の近くにいたレオンへ、力の限り叫んだ。


けれど、レオンは静かに見ているだけだった。


目の前で、再び二人の刃がぶつかる。


奏が剣を引き、間髪入れずに斬り込んだ。


ヴァルガは刃を弾き、流し、逸らしていく。


以前と同じだ。


奏の剣がどれだけ速くても、ヴァルガには届かない。


そう思った。


けれど──


刃を受け止めるたびに、ヴァルガの足が少しずつ後ろへ下がっていた。


奏の剣が、左右から立て続けに襲いかかる。


一撃目を弾いた時には、もう次の刃がヴァルガの脇腹へ迫っていた。


ヴァルガは身体を反らして躱し、その勢いのまま剣を振るう。


けれど、奏の身体へ届く前に切っ先を逸らした。


その隙を狙い、聖剣が下から跳ね上がる。


金属音が響くたび、ヴァルガの靴が白い床を擦った。


防いでいる。


すべて防いでいるのに、少しずつ追い詰められていた。


「本気を出せ!」


奏の叫びとともに、聖剣が白く輝いた。


重い衝突音が響く。


ヴァルガは受け止めるだけで、押し返そうとしない。


「また、手加減するつもりか」


「……お前のことは嫌いだが、傷つければ晴斗が悲しむ」


打ち合いの中、奏の肩が一瞬震えた。


「そんなことは、わかってる……!」


奏が踏み込み、立て続けに剣を振るう。


「……でも、俺はお前を倒す!」


白い軌跡が、ヴァルガの喉元へ伸びた。


「そして、俺と晴斗は元の世界へ帰るんだ……!」


寸前で刃が弾かれる。


奏は体勢を崩すことなく、もう一度踏み込んだ。


「晴斗の隣に、お前の場所はない!」


ヴァルガの赤い瞳が揺れた。


それでも、剣は前へ出ない。


俺の腕を掴んでいるシンの力が、さらに強くなる。


「奏様を相手に、まだ手加減を……あの男は、一体……」


そばでは、大司祭が銀刺繍の眼帯を押さえていた。


疼きを堪えるように指先へ力を込めながら、その口元には笑みを浮かべている。


「やっぱり……」


小さな呟きは、激しく刃がぶつかる音に掻き消された。


奏がさらに距離を詰める。


二人の刃が噛み合い、鍔迫り合いになった。


ヴァルガは奏の剣を受け止めたまま、低く囁く。


「俺を殺しても、元の世界には帰れない」


奏の目が、大きく見開かれた。


「……嘘だ。死にたくなくて言い逃れか」


奏が剣を振り払うように飛び退いた。


ヴァルガは、それ以上何も言わなかった。


奏はしばらく、その顔を見つめている。


「……お前が嘘をついてるのか……」


聖剣を握る手に、力がこもった。


「殺してみたらわかる!」


白い光が、一段と強くなる。


奏が地を蹴る。


一瞬で間合いが消えた。


ヴァルガが聖剣を受け止める。

けれど、先ほどよりも反応が遅い。


俺はなりふり構わず叫んだ。


「やめろ! 奏!」


奏は止まらなかった。


再び、激しい金属音が響く。


「離せ!」


俺はシンの腕の中で、めちゃくちゃに暴れた。


腕を振りほどけない。

足を踏ん張っても、びくともしなかった。


目の前にあったシンの腕へ、思いきり噛みつく。


「……っ!」


シンの身体が、わずかに揺れた。


けれど、腕は離れない。


「申し訳ありません、晴斗様」


背中へ腕を回され、強く引き寄せられる。

骨が軋むような痛みが走った。


「痛っ……!」


ヴァルガが、はっとしてこちらを振り向く。


「晴斗!」


「前を向け!」


奏の叫びとともに、白い刃が閃く。


聖剣がヴァルガの肩口を斬り裂いた。


血飛沫が、白い床へ散る。


「ヴァルガ!」


それでもヴァルガは、奏にも傷口にも見向きもせず俺の方へ走り出す。


「晴斗を離せ!」


シンが俺を庇うように、半歩後ろへ下がった。


奏が、血に濡れたヴァルガの背中を見つめる。


聖剣を握る手が震えていた。

それでも、奏は追いかける。


「……ちくしょう!」


白い刃が振り上げられた。


まただ。


またヴァルガが俺のせいで傷つく。


もう嫌だ。


「あああああああ!」


俺は言葉にならない声を上げていた。


なんて、無力なんだろう。


大事な人も守れない。


何もできない。


涙が次々と頬を伝う。

それでも、ヴァルガから視線を離さなかった。


だって、あいつは今も──


俺のことしか見ていない。


その時、ヴァルガの足元で黒いものが蠢いているのに気づいた。


「ヴァルガ、足元!」


レオンの叫びが響く。


ほとんど同時に、粘ついた塊が両脚へ絡みつき、一気に身体を這い上がった。


「な……っ」


ヴァルガの動きが止まった。


レオンが、すぐさま駆け出した。


けれど、床を這う黒い塊の一部が大きく跳ね上がり、その行く手を遮る。


レオンは咄嗟に身を翻した。


黒いものが白い神官服の袖を掠め、布を鋭く裂く。


「ヴァルガ!」


その間にも、粘ついた塊はヴァルガの胸元まで達していた。


俺へ伸ばされた手が、あと少しのところで届かない。


黒い粘液の中を、淡い金色の光が走る。


黒い粘液は、ヴァルガの身体に触れた場所から硬質な結晶へ変わっていく。


黒く透き通った結晶の内側で、金色の光が脈打っていた。


なんだかそれはすごく綺麗で、なのに見ているだけで吐き気がするほど禍々しい。


結晶はヴァルガの両脚を固め、腕へ、胸元へと広がっていく。


同時に足元の結晶が台座のように盛り上がり、ヴァルガの身体を高く持ち上げた。

両足が、白い床から完全に離れる。


そのまま黒い結晶は、胸元から首へと這い上がっていった。


「晴斗……!」


伸ばされた指先まで、黒く固まった。


結晶が顎を覆い、頬へ広がる。

ヴァルガの声が、途中で途切れた。


やがて顔のほとんどが、黒く透き通った結晶へ呑み込まれる。


残されているのは、片方の赤い瞳だけ。


その瞳は、まだ俺だけを見ていた。


「ヴァル、ガ……?」


呼びかけても、赤い目はぴくりとも動かない。

俺を見つめているのに、そこにはもう何も映っていなかった。


息を呑んでそれを見ていた奏が、再び剣を振りかぶる。

振り下ろされた聖剣が、黒い結晶の表面へぶつかった。


甲高い音が響き、白い刃が弾かれる。


「なんだ、これ……」


奏が、大司祭を振り返る。


大司祭は片手で銀刺繍の眼帯を押さえ、もう一方の手をヴァルガへ向けていた。


指先から、淡い金色の神力が糸のように垂れている。

床へ触れたその先は、黒い粘液に混ざっていた。


「だめだよ、奏くん」


大司祭は、うっとりするように笑った。


「それは、殺しちゃだめだ」


その背後で、巨大な女神像まで一緒に笑っているように見えた。

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