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第四十七話 最後の希望

それから数日、俺は毎朝、大司祭の治療を受けた。


窓のない治療室。

甘い香りと、胸元へ流れ込んでくる温かな神力。


治療のあとは決まって眠くなり、目を覚ますと、いつもヴァルガがそばにいた。


レオンは再び神官服に袖を通し、俺たちの世話役として神殿内を動き回っていた。

食事や必要なものは欠かさず用意してくれるけれど、それ以外の時間はほとんど姿を見せない。


神殿の中を探っているらしい。

何か分かったのかと尋ねても、「まだ話せることはない」と答えるだけだった。


毎日の治療で、体調は確かによくなっている。

けれど、奏に見える生命力の色は、薄いままだった。


ヴァルガも奏も、それを確かめるたびに落胆していた。


それでも、俺はまだ諦めていなかった。



***



いつものように、治療室でシャツを脱いで横になる。


大司祭の手が、薄い布をずらして俺の身体に触れた。


これだけは、何度繰り返しても慣れない。

早く終わらないかなと、毎回そればかり考えてしまう。


身体の内側を探るように動いていた手が、ぴたりと止まった。


「……そろそろいいかな」


大司祭が、俺の顔を覗き込む。


「晴斗くんの身体に、私の神力が馴染んできたよ。明日は、本格的な治療をしてみよう」


「本当ですか?」


「うん。よく頑張ったね」


大司祭はにこりと笑い、それから閉ざされた扉へ目を向けた。


「ヴァルガくんも……ね」


ヴァルガは毎朝、俺を大司祭へ引き渡すたびに、今にも斬りかかりそうな顔をしていた。


それでも、ずっと耐えてくれている。


俺のために。


「ところで、晴斗くん。前から聞きたかったことがあるんだけど」


「……なんですか?」


「ウィルダで見たという、黒い化け物。どんな様子だった?」


思わず、身体が強張った。


「どんなって……」


「怖かったよね。兵士たちから報告は受けているんだけど、とても普通の魔物には見えなかったらしくて」


大司祭は伏し目がちに、口元へ手を添えた。


怯えているようにも見える。


これは演技なのか?


それとも、大司祭は本当に黒濁のことを知らない?


綺麗な顔に不安そうな表情を浮かべる大司祭を、じっと見つめる。


……いや、そんなはずはない。


神殿の一番上に立つ人が、黒濁とまったく無関係だとは思えなかった。


「……魔族の子供の中から出てきました。奏が倒してくれたから、俺は大丈夫でした」


大司祭の淡い紫色の瞳が、わずかに見開かれた。


「そっか。子供から……」


口元に手を添えたまま、静かに呟く。


本当に驚いているのか、それとも別の意味があるのか。


俺には分からなかった。


「その化け物が出てくる前に、何か変わったことはなかった?」


「変わったこと……?」


「どんな些細なことでもいいんだ。兵士たちの報告だけでは、よく分からなくてね」


なんだか、背筋が寒くなった。


大司祭が黒濁に関係してるとして、詳しく聞いてくる理由ってなんだろう。


大司祭は、すぐに困ったように笑った。


「ごめんね。また同じものが現れた時のために、少しでも情報を知っておきたくて」


もっともらしい理由だった。


それでも、素直に全部話していいとは思えない。


「……よく覚えてません。怖くて、それどころじゃなかったから」


嘘ではない。


あの時のことを思い出すだけで、今でも身体が強張る。


「そっか。それなら、無理に思い出さなくていいよ」


大司祭はあっさり引き下がった。


俺を安心させるように微笑み、もう一度、胸元へ手を置く。


けれど、その瞳だけは、しばらく俺を観察するように見つめていた。



***



翌朝、大司祭に呼ばれ、俺たちは神殿の奥へ向かった。


ヴァルガは俺の隣にぴたりと張り付いて離れない。

そっと手を握られる。


人前で手は繋がない方がいいけど……。


ちらりと見上げると、赤い瞳がじっと俺に注がれていた。

いつもの余裕は、どこにもない。


まあ、今は約束はいいか。


俺も手を繋がれて、正直安心してる。


これで、もし治らなかったら、奏を説得してヴァルガと一緒に魔王城に戻る。


でも、なんだか──


胸の奥のざわつきは、いつまでも消えなかった。


案内されたのは、いつもの治療室ではない。


天井の高い、真っ白な石造りの広間。


扉から真っ直ぐ見える最奥には、天井へ届きそうなほど大きな女神像が立っていた。


両腕を差し伸べ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。


その姿を目にした瞬間、記憶が蘇った。


ここは、俺と奏がこの世界へ召喚された場所だ。


何も分からないままこの世界へ放り出され、最初に見上げたのが、この女神像だった。


その足元から広間全体へ伸びるように、床には金色の線で巨大な紋様が描かれている。


俺と奏が現れたのも、あの紋様の中央だった。


今はそこに、白い布で覆われた寝台がひとつ置かれている。


脇には、水差しと盃を載せた小さな台が置かれている。


紋様を囲むように、白い神官服を着た者たちが立っていた。


それでも、広間にはまだ十分すぎるほどの空間が残されている。


その端には、奏とレオンもいた。

奏は固い表情で俺を見ている。


その神官の数に少し緊張しながら、俺は大司祭を見た。


「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。みんな、私の神力を補ってくれるだけだから」


「……はい」


握られた手に、力がこもった。


「晴斗……」


隣を見ると、ヴァルガは眉間に深く皺を寄せ、俺の手を離そうとしない。


「ヴァルガ。行ってくるよ」


声をかけると、ヴァルガはしばらく黙って俺を見つめたあと、渋々手を離した。


俺は中央の寝台へ座ってシャツのボタンに手をかける。


大司祭が俺のそばへ身を屈め、耳元へ顔を寄せた。


「シャツを脱がなくていいよ」


「え?」


「今日は特別。周りにみんないるからね。ヴァルガくんも怒るでしょ?」


俺にだけ聞こえる声でそう囁き、大司祭は楽しそうに笑った。


……それでいいなら、今までだってそうしてほしかった。


言い返さず、言われた通りに胸元のボタンだけをいくつか外して横になった。


ヴァルガは、奏とレオンの隣に立った。

少し離れた場所では、シンが大司祭を見守っている。


「それじゃあ、始めようか」


大司祭は寝台脇の台から水差しを取り、盃へ水を注いだ。

水差しを台へ戻すと、その水に両手の指先を浸す。


冷たく濡れた手が、いつものように俺の胸元へ重ねられた。


周囲に立つ神官たちが、一斉に祈りの言葉を唱え始めた。


低く重なった声が、広い空間に響く。


床に描かれた紋様へ、淡い光が灯った。

金色の線をなぞるように広がり、やがて寝台を囲んでいく。


胸元から、温かな神力が流れ込んできた。


これまでの治療とは比べものにならない。

身体の隅々まで、温かなものが行き渡っていく。


眩しい光が視界を埋め尽くした。


これで、治る。


そう思って、目を閉じる。


どのくらい経ったのだろう。


祈りの声が、少しずつ遠ざかっていく。

身体を包んでいた光も弱まり、やがて完全に消えた。


静まり返った広間で、ゆっくりと目を開ける。


大司祭は胸元から手を離し、俺を見下ろしていた。


身体を確かめるように、指先を動かしてみる。


痛いところはない。

苦しくもなかった。


けれど、何かが変わったような感じもしない。


「……治ったんですか?」


大司祭は答えなかった。


広間の端にいる奏へ目を向ける。


奏は俺の身体をじっと見つめていた。

その顔から、少しずつ血の気が引いていく。


大司祭が、残念そうに眉を下げた。


「ごめんね……。やっぱり、だめみたい」


「だめって……」


大司祭は俺の胸元へ、もう一度そっと手を置いた。


「生命力は、人によって大きさの違う器に入っているようなものなんだ。晴斗くんは、中身を失っただけじゃない。器そのものが削られ、小さくなっている」


大司祭は、水差しと盃を台から取り上げた。


盃へ水を注いでいく。


やがて水は縁から溢れ、床へ滴り落ちた。


「私の神力で、この器を満たすことはできる。だから、一時的に身体は楽になる。でも、どれだけ注いでも、器に入る量は増えない」


大司祭は、水を注ぐ手を止めた。


「削られた器を、元の大きさに戻すことはできないんだ」


「それができるなら、神の所業だよ」


奏が、ふらりと一歩前へ出た。


「やっぱり、晴斗は……」


大司祭は奏の方を向き、悲しそうに目を伏せた。

水差しと盃を台へ戻す。


「だから、奏くんに見える生命力の色も戻らない」


「少なくとも、この世界の神術では、晴斗くんを完全に治すことはできない」


広間が静まり返る。


「大司祭様」


声を上げたのはレオンだった。

そちらを向くと、レオンはわずかに眉を寄せていた。


「……治療を続ければ、すぐに命を落とすことはないのですか?」


大司祭は、少し考えるように首を傾げる。


「それは分からない。元々持っていた生命力も、それをどれだけ失ったのかも、私には正確に測れないからね」


「そうですか」


レオンは短く答え、それ以上は何も言わなかった。


心配してくれているのだろうか。


そう思ったけれど、その顔からは何も読み取れなかった。


俺は、レオンの隣にいたヴァルガの方を見た。


ヴァルガは一言も発さず、俯いている。

表情が見えなくて心配になった。


あんなに心配してくれたのに、治らなくて。


傷つけて、ごめん。


そう思ったら、目尻から涙が一つこぼれた。


奏が息を呑む気配がした。


大司祭が俺の手に触れる。


「でも、大丈夫。ここにいれば、残された器を神力で満たし続けることはできる。その場しのぎだけれど、暮らしてはいけるよ」


大司祭は、眼帯に覆われていない淡紫色の瞳を痛ましげに細めた。


「ねえ、初めの頃、晴斗くんを大事にできなかった罪滅ぼしをさせてよ。ここで一緒に暮らそう?」


俺は、大司祭の手をそっと外した。


「……俺は、帰ります。ここにはいられない」


「はる、と……」


奏の声が、悲痛そうに聞こえた。


奏もごめん。


俺のこと、必死に考えてくれてるのに。


大司祭が、笑みを浮かべたまま尋ねる。


「……どこに、帰るの?」


その時、銀色に輝く刀身が視界の隅に映った。


奏が、隣にいるヴァルガへ聖剣を向けている。


神官の何人かが悲鳴をあげ、後ずさった。


ほとんど同時に、シンが大司祭を庇うように前へ出た。

腰の剣へ手をかけ、奏を鋭く見据える。


俺は飛び上がるように身を起こした。


「奏!」


台から降りようとした、その時。


レオンがすかさず、奏とヴァルガの間へ割って入った。


「奏様。おやめください」


けれど、ヴァルガが片腕を伸ばし、レオンを制する。


「ヴァルガ」


「手を出すな」


低い声だった。


「ヴァルガ……剣を取れ」


奏の声は、震えていた。


「……今度こそ、決着をつけよう」

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