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第四十六話 それぞれの迷い

治療室の扉が閉じ、晴斗の姿が見えなくなった。


古びた木で造られた扉は分厚く、耳を澄ませても中の声は聞こえない。


ヴァルガは、その扉の前に立ち尽くしていた。

すぐ横には、背筋を伸ばしたシンが静かに控えている。


あれから、どのくらい経ったのだろうか。


無理にでも残るべきだったのではないかという思いが、胸の奥から消えない。


晴斗は、何かあれば必ず呼ぶと約束してくれた。


だから、ここで待つ。


そう決めたはずなのに、気づけば何度も扉へ手が伸びていた。


「治療の妨げになりませんよう」


シンが静かに告げる。


「治るものも治りませんので」


「……分かっている」


「大司祭様は、晴斗様を救いたいとおっしゃっていました」


「あの方の慈悲を、どうか信じてお待ちください」


慈悲?


どこにそんなものがある?


優しげな声と笑顔で、晴斗を懐柔しようとしているようにしか見えなかった。


嫉妬なのかとも思った。

それも確かにある。


しかし、あの者がふと晴斗へ向ける表情。


笑っているはずなのに、まるで観察しているような無機質な瞳。


黒濁を作る国の頂点に立つ者が、善人であるはずがない。


あの者は、晴斗にとって危険だ。


不安を塗りつぶすように、ヴァルガは笑いながらシンを見下した。


「……随分と大司祭に入れ込んでいるのだな。やつがしていることも、察しているのではないのか?」


シンの視線が、ヴァルガへ向く。


「……なんのことでしょう」


冷たい目だった。


けれど、その奥に一瞬だけ揺れたものを、ヴァルガは見逃さなかった。


「……なんにせよ」


「晴斗を傷つける者は許さない。それだけだ」


シンは真っ直ぐ見返してきた。


「私も、大司祭様に危害を加える者には容赦しません」


「たとえ、あの男が間違っていてもか」


シンは答えなかった。

一瞬だけ視線を伏せ、それから閉ざされた扉へ目を向けた。


「私の務めは、大司祭様をお守りすることです」


「……あの方が、どのような道を歩もうと」


その時、部屋の中の気配が動いた。


ヴァルガは、はっとして扉の方を向く。


扉の隙間から、大司祭が頭を出した。


「ヴァルガくん、終わったよ」


言い終わる前に大司祭を押しのけ、足早に部屋へ入る。


先ほどはなかった甘ったるい匂いが、身体にまとわりついた。


中央の台に、目を閉じた晴斗がいた。


薄い布から、裸の肩が覗いている。


一瞬、息が止まる。


何をされた。


胸の奥が冷え、その直後、焼けるような怒りが込み上げた。


大司祭に掴みかかりたい衝動を押し殺し、晴斗のもとへ駆け寄る。


「晴斗……」


ぴくりとも動かない。


身体に触れて、軽く揺さぶる。


それでも、晴斗は目覚めなかった。


「晴斗……!?」


「大丈夫。治療の影響で眠っているだけだよ。少し経てば起きると思う」


背後から聞こえる声に振り返る。


大司祭は、手にした晴斗のシャツをヴァルガへ差し出していた。


「ほら。ちゃんと君に返したでしょう?」


その言い方は気に入らなかった。


だが、晴斗をこれ以上この場所に置いておく方が耐え難い。


薄い布の上からシャツで晴斗の身体を包み、そのまま腕の中へ抱き上げる。


眠る晴斗の頭が、力なくヴァルガの胸へ預けられた。


その顔をじっと見つめる。


見た目には、何もされていない。


しかし、眠っていては助けを呼ぶこともできない……。


「……次からは、眠らせる前に俺に告げろ」


大司祭は笑顔で答える。


「じゃあ、もう言っておく。治療に必要だから、明日も同じことをするよ」


ヴァルガは大司祭を睨みつけた。


その後ろにいたシンが、一歩前へ出る。


「シン。大丈夫」


大司祭はシンを制し、ヴァルガの腕の中にいる晴斗を見た。


「晴斗くんを大切にしてあげてね。この子の生命力は、ただ失われたわけじゃない」


「これは、何か大きな力を使った代償として削られている。呪いか、それとも神の力か……」


心臓が大きく鳴った。


どこまで気づいている?


大司祭はヴァルガの顔を見て、楽しそうに目を細めた。


「その顔。君は何か知ってるんだね」


「……何のことだ」


「護衛で、恋人で──どうやら、それだけでもなさそうだ」


大司祭は自らの眼帯に触れながら、いつものように笑った。


「ますます興味が湧いたよ。ヴァルガくん」


ヴァルガは何も返さず、晴斗を抱いたまま治療室を出た。


白い廊下を進んでいると、腕の中でわずかに身じろぐ気配がする。


「晴斗?」


閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。


「……ヴァルガ?」


「ああ。ここにいる」


ぼんやりとした目が、ヴァルガを見上げる。


「治療……終わったのか?」


「終わった。今は部屋へ戻るところだ」


「そっか……」


晴斗は安心したように息を吐き、ヴァルガの胸元へ頬を寄せた。


「身体はどうだ。苦しいところはないか?」


「よく分かんない……でも、少し楽になった気がする」


「そうか」


やはり、治療そのものには効果があるらしい。


「ヴァルガ……ごめんな。こんな格好で……」


薄い布の上から掛けられたシャツの前を合わせようと、晴斗は小さく身じろいだ。


胸が締めつけられた。


朝、自分が言ったことを気にしているのか。


ヴァルガは笑顔を作った。


「……謝るな。治療のためだ」


「うん……でも、ごめん……」


晴斗の指が、ヴァルガの服を弱々しく掴む。


それも束の間、再び瞼が閉じられた。


「晴斗?」


呼びかけても、穏やかな寝息が返ってくるだけだった。


晴斗を起こさないように、静かに息を吐く。


大司祭は危険だ。


晴斗が何らかの大きな力を使ったことも、自分がただの人間ではないことも疑い始めている。


このままここにいれば、いずれ宝珠へ辿り着くかもしれない。


それでも、腕の中にいる晴斗の顔色は、昨日よりわずかによくなっていた。


自分には、晴斗を治せない。


どれほど警戒すべき相手であろうと、今はあの男に頼るしかなかった。


そう思った瞬間、別の考えが頭をよぎる。


すぐに打ち消した。


晴斗を救いたい。その思いに嘘はない。


それでも、胸の奥に生まれた罪悪感は消えなかった。


腕の中の重みを確かめるように晴斗を抱き直し、ヴァルガは白い廊下を進んでいった。



***



目を開けると、見慣れない天井があった。


しばらく眺めてから、ここが神殿であてがわれた自分の部屋だと思い出す。


身体には毛布が掛けられ、いつの間にか服も着せられていた。


ベッドの脇には、ヴァルガが座っている。


「晴斗、目が覚めたか」


「……うん」


身を起こしながら目を擦った。


窓へ目を向けると、カーテンの隙間から夕暮れの光が差し込んでいる。


「俺、どのくらい寝てた……?」


「大した時間ではない」


「いや、もう夕方じゃん……」


朝からだから、どう考えてもかなり眠っていたはずだ。


「でも、ずっといてくれたんだろ? ありがとう」


ヴァルガは何も言わずに首を振り、ベッド脇の卓にある水差しへ手を伸ばした。


グラスに水を注ぎ、俺の口元へそっと当てる。


促されるまま飲み込むと、冷たい水が乾いた身体に染み渡った。


その時、強く扉を叩く音が響いた。


返事をするより早く、扉が開く。


「晴斗!」


奏が足早にこちらへやって来た。


「奏も来てくれたんだ」


ヴァルガが小さく舌打ちする。


「妙にタイミングがいい。今、目を覚ましたところだ」


奏はその言葉を無視し、ベッドのそばで膝をついた。


「ごめん。もっと早くに来たかったんだけど、大司祭の命令で朝から神殿の仕事させられてた」


「仕事?」


「神殿と勇者のイメージアップのために、配給を手伝ったり、国民の前で祈ったり。いろいろパフォーマンスさせられてた」


「ウィルダで勝手に動いたお仕置きだってさ」


奏はため息をついたけど、俺を見ると、すぐに心配そうな顔へ戻った。


「なかなか目を覚まさないって聞いて、驚いた。大丈夫なのか?」


「うん。まだ少し眠いけど、身体は平気だよ」


むしろ、旅の途中からずっと残っていた倦怠感が昨日の治療の時より薄れている。


身体を動かして確かめてみても、ふらつく感じはなかった。


「大司祭様の治療、効いてるみたいだ」


「よかった……」


奏の表情が緩む。


けれど、俺の身体の周囲へ目を凝らすうちに、再び顔が曇った。


「……でも、生命力の色は戻ってない」


少しだけ期待していた。


身体がこんなに楽になったのだから、減った生命力も回復しているんじゃないかと。


胸の奥が沈んだ。


隣にいるヴァルガの表情も、一瞬で固くなる。

グラスを持つ手が震えていた。


「ヴァルガ……」


俺がそちらを見ると、ヴァルガはふと視線を逸らした。


「……大司祭は、神力を身体に馴染ませていくと言っていた。すぐに治らないと決まったわけではない」


「そう、だな……」


珍しく、奏がヴァルガの言葉に素直に頷いた。


二人とも俺を安心させようとしているのが分かる。


それが嬉しいのに、同じくらい心苦しかった。


「それより晴斗、空腹ではないか? 朝食を食べたきりだ」


ヴァルガは立ち上がると、テーブルに置かれた籠から果物を取り出した。


「夕食はまた別に持って来させよう」


ナイフを使い、器用に皮を剥いていく。


奏が俺のそばで、小さな声でぽつりと呟いた。


「……でも、もし治らなかったら……」


奏の指は、ベッドのシーツを強く握り締める。


その視線は俺ではなく、ヴァルガへ向けられていた。


その目に、以前のような剥き出しの敵意はない。

代わりに浮かんでいたのは、苦しそうな迷いだった。


すぐに、奏が何を迷っているのか分かった。


魔王を殺せば、元の世界に帰れる。

奏はそう言っていた。


そして、俺を必ず帰すと。


「奏……ヴァルガが悪いやつじゃないって、もう分かってるだろ」


奏は俺を見て、そして俯いた。


「……本当に、治らなくても……それでも晴斗は、ここに残るの?」


果物を剥いていたヴァルガの手が止まる。


奏は震える声で言う。


「また、危ない目に遭うかもしれない……」


「それに、病院で精密検査を受けたら、治療法が見つかるかもしれないし……!」


確かに、その可能性はある。

それでも俺は笑う。


「うん」


ヴァルガが息を呑む気配がした。


「俺は、ヴァルガと一緒にいるって決めたから」


「……晴斗……」


奏が、掠れた声で俺の名を呼ぶ。

その表情には、諦めにも似た苦しさが浮かんでいた。


何を言っても、俺の答えは変わらない。

きっと、そう悟ったんだ。


治らなかったら──


あと、どのくらい生きられるかわからない。

それでも、二人で生きていきたい。


たとえ元の世界で体が治ったとしても、ヴァルガにもう二度と会えないなら、意味がない。


奏はシーツを握ったまま、俯いた。

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