第四十二話 片目の神官
街道の先には、大きな門が見えた。
門の前には、荷車を引いた商人や旅装の人々が列を作っている。
白銀の甲冑を着た兵士たちが、一人ひとりを呼び止め、荷物を改めていた。
その腰には、ウィルダで見たものと同じ黒い剣が下がっている。
思わず足が止まりかけると、ヴァルガが低い声で俺の名を呼んだ。
「晴斗、大丈夫だ」
はっとして顔を上げる。
ヴァルガは深くフードを被っていた。
見た目で魔族だ、魔王だと気づかれはしないだろうけれど、兵士の前に立つと思うだけで体が強張る。
レオンが、こちらを見ずに言った。
「ここで怯えた顔をするな。目立つぞ」
「……分かってる」
列が進むたびに、王都の壁が近づいてくる。
高い城壁の向こうには、神殿の塔が白く伸びていた。
俺も、初めて召喚された時、あの都の中にいた。
ヴァルガに攫われ、ヴァルガを好きになって、ずっと魔王城で暮らすって決めた。
それなのに、またリヴェルトに戻ってくるなんて。
それも、ヴァルガと一緒に。
「次」
門番の声がして、いよいよ俺たちの番になった。
「身分証を」
兵士がそう言うと、レオンはわざとらしくため息をつく。
そして、懐から銀のペンダントを取り出した。
中央には、神殿の塔を象った紋章が刻まれている。
「神殿章……?」
「病人を神殿へ連れていく」
レオンは、いつもの軽さを消した声で言った。
「急ぎだ。通してくれ」
兵士は俺を見た。
俺は慌てて顔を伏せる。
体調が悪いのは本当だから、演技をする必要はなかった。
兵士の視線が、ヴァルガへ向かった。
一瞬だけ、息が止まりそうになった。
「その者は?」
「付き添いだ」
レオンは迷いなく答えた。
ヴァルガは何も言わず、ただ静かに立っている。
フードを被って、見た目は異国の旅人だ。
きっと大丈夫。
それでも、俺の鼓動はうるさく鳴り止まない。
兵士はしばらくヴァルガを見ていたが、やがて興味を失ったように視線を外した。
「……通れ。ただし、神殿へ向かうなら寄り道はするな」
「分かっている」
門の中へ足を踏み入れる。
緊張が解けて、深く息をついた。
よかった……。
高い壁の内側には、白い石畳の道がまっすぐ伸びていた。
祈りの言葉を刻んだ旗。
神殿へ向かう巡礼者。
白い布で覆われた木箱を、荷台いっぱいに積んだ商人。
綺麗に整えられた都の中で、兵士の姿だけがやけに多く見えた。
「……すごく、久々だな」
小さく呟くと、ヴァルガが低く言った。
「離れるな」
その声に頷きながら、俺は神殿の塔を見上げた。
***
神殿へ向かう大通りを進むと、やがて開けた広場に出た。
レオンは少し前を歩き、神殿へ続く道と周囲の兵士の配置を確かめている。
俺とヴァルガは、その少し後ろを並んで歩いていた。
白い石畳が敷き詰められた、広い場所だった。
中央には、白い石の祭壇がある。
あの日、ここに聖剣があった。
眩しいほどの光。
広場を揺らす歓声。
奏の名前を呼ぶ人々の声。
この場所で奏が勇者に選ばれて──
そして、人混みの向こうで、俺を見つめていたヴァルガに出会った。
隣を歩くヴァルガを見上げると、フードの陰から赤い瞳がこちらを見ていた。
「どうした?」
「いや、ここで初めてお前と会ったなって」
あの時は、どうして俺を見ているのか分からなかった。
勇者は奏だったのに。
ヴァルガの瞳が、わずかに揺れる。
「お前が視界に入った瞬間、分かったんだ」
低い声だった。
「この男が、俺の運命だと」
胸の奥が、熱くなる。
ヴァルガは周囲に一度だけ目を向けてから、俺にだけ届くくらい声を落とした。
「……俺は運がいい。晴斗が番だったんだから」
そんなふうに真っ直ぐ言われると、どうしていいのか分からなくなる。
照れくさくなって、俺は少しだけ意地悪を言いたくなった。
つられるように声を落として言う。
「俺がもし、番じゃなかったら、お前は俺のことなんて見向きもしなかっただろうな」
「そんなことはない」
即答だった。
「番としての衝動はなかっただろう。だが、それでも俺は、お前のことを好ましく思ったはずだ」
そう言って、ヴァルガは俺を見つめながら、自分の指輪に口付けた。
今度こそ、顔を上げていられなかった。
俺も指輪に触れる。
少し迷ってから、その銀色の輪にそっと唇を落とした。
***
広場の奥にある神殿の門には、王都の外門と同じように列ができていた。
門の両脇には白銀の甲冑を着た兵士が立ち、神官が一人ずつ用件を聞いている。
「また、並ぶのか」
さっきの緊張感をまた味わうのかと思うと、途端に足が重くなった。
ヴァルガが、俺の顔を覗き込む。
「大丈夫だ、晴斗。外門の時と同じだ。落ち着いていればいい」
「入ったら、まずは奏様の所在を確認する」
レオンが、前を向いたまま言った。
「大司祭様に会うのは、その後だ。奏様の口添えがなければ、俺たちがいきなり奥まで通されることはない」
「……奏に、会えるかな」
そう尋ねると、レオンは神殿の門を見上げた。
「神殿にいるのは間違いない。問題は、向こうが素直に会わせるかだ」
「……会わせてもらえないかもしれないってこと?」
「連れて行かれた勇者様が、客人扱いなのか、監視付きなのか。それは入ってみなきゃ分からん」
昨日、兵士たちに連れて行かれた奏の背中が頭に浮かぶ。
神殿で待ってる。
そう言った声を思い出して、胸の奥が重くなった。
列は、なかなか進まなかった。
神官が用件を聞き、兵士が荷物を改める。
俺たちも少しずつは前へ進んでいた。
その時、神殿の脇へ向かう人の流れに気づいた。
空の器を抱えた人々が、大聖堂の白い壁の陰へ吸い込まれていく。
配給だ。
前にも見たことがある。
少ない粥を求めて、人々が押し合い、奪い合うように手を伸ばしていた。
痩せた子供を連れた女性。
古びた外套を羽織った老人。
何度も神殿の塔へ頭を下げる男。
神殿の正面は、こんなにも白く整えられているのに。
配給に集まる人たちは、その白さから追いやられたみたいだった。
「始まるぞ!」
誰かが叫んだ。
細い道の先にある小さな広場へ、大きな鍋が運び込まれる。
それを見た人たちが、一斉に動いた。
神殿へ入るための列と、配給へ向かう人の流れがぶつかる。
「押すな!」
兵士の怒鳴り声が響いた。
「配給を受ける者は脇へ回れ! 神殿の列を乱すな!」
言われても、人の流れは簡単には止まらない。
空の器を抱えた人たちが、少しでも早く広場へ向かおうとする。
肩がぶつかった。
「晴斗」
ヴァルガの手が、俺の手首を掴む。
「離れるな」
「分かっ──」
言い終える前に、横から押された誰かが俺にぶつかった。
体勢が崩れる。
踏ん張ろうとした足元を、別の人の荷物が掠めた。
「晴斗!」
ヴァルガの手に力がこもる。
けれど、人波が一気に膨らんで、俺とヴァルガの間にいくつもの肩や背中が割り込んだ。
掴まれていた手が、汗で滑る。
ほんの一瞬だった。
指先が離れた。
ヴァルガもレオンもすぐそこにいる。
それなのに、押し寄せる人の流れに逆らえず、俺の体だけが脇の広場へ押し流されていく。
「待っ……」
声を出そうとしたけれど、ざわめきに呑まれた。
誰かの肘が背中に当たる。
前に押し出される。
気づいた時には、俺は神殿の列から外れて、配給の広場の入口あたりまで来ていた。
「下がれと言っているだろう!」
すぐ近くで、兵士の声がした。
見ると、石畳の上に老人が膝をついていた。
落とした木の器から薄い粥がこぼれ、その一部が兵士の靴にかかっている。
「す、すみません……すみません……」
老人は震える手で器を拾おうとしていた。
「貴様……」
兵士は顔をしかめ、老人の肩を蹴りつけた。
痩せ細った体が仰向けに倒れ、石畳に叩きつけられる。
老人は呻いたが、立ち上がることもできない。
それでも、兵士の怒りは収まらなかった。
つかつかと歩み寄り、枯れ木のような体を踏みつける。
周りの人たちは見ていた。
けれど、誰も動かない。
あの老人を、助けたいと思った。
でも、昨日の広場が頭をよぎる。
俺が飛び出したせいで、奏が連れて行かれた。
力のない俺がここでまた動いたら、どうなる?
そう思った瞬間、足が地面に縫い付けられたみたいになった。
その時、人の波が新たに流れてきて、後ろから強く押された。
「……っ」
よろめいた俺は、老人と兵士の目の前に出てしまう。
兵士の視線が、こちらを向いた。
「何だ、お前」
怒りの矛先が、俺に変わった。
そう感じた瞬間、体が震える。
黒い剣の柄に、兵士の手がかかった。
金属の擦れる音がして、夜みたいに黒い刀身が鞘から引き抜かれる。
背後で、ヴァルガが俺の名を呼ぶ声がした。
その声に重なるように、別の声が落ちる。
「剣を下げなさい」
穏やかな声だった。
けれど、その一言で兵士の動きが止まる。
人垣の向こうから、白い法衣をまとった若い神官が歩いてきた。
長い金髪。
片目には、銀糸で細かな模様が刺繍された眼帯。
もう片方の瞳は、色の薄い紫だった。
息を呑むほど、綺麗な人だった。
その人が現れただけで、周囲の喧騒が少し遠のいたように感じる。
「配給の場で暴力を振るうべきではありません。下がりなさい」
神官は兵士に向かって、静かに言った。
兵士は顔をしかめたが、相手が神官だと分かると、黒い剣を鞘に収めた。
「……失礼しました」
「その方に、もう一度配給を。器も替えてあげてください」
兵士は不満そうに口を引き結んだが、逆らうことはしなかった。
「はっ」
兵士が下がり、近くにいた神官が老人を助け起こす。
助け起こされる老人を見て、肩の力が抜けた。
俺が動かなくても、あの人は助かった。
ほっとしたはずなのに、同時にひどく情けなくなる。
俺には、助ける力なんてないんだから。
「大丈夫? 顔、真っ青」
ふいに、さっきの神官が俺の顔を覗き込んできた。
「剣なんて向けられたら、そりゃ怖いよね」
「え……」
思わず、間の抜けた声が出た。
兵士に向けていた時とは違う、やけに砕けた口調だった。
見た目があまりにも神々しいくらい綺麗だったから、その軽さが妙にちぐはぐに感じる。
「でも晴斗くん、勇気あるね。助けに入るなんて」
「いや、俺は押されて……」
え?──
「なんで、俺の名前……」
「あは、覚えてないかあ」
神官はそう言って、俺の腕に手を伸ばした。
その指先が触れた。
「晴斗!」
叫ぶ声と同時に、ヴァルガの腕が俺を強く抱き寄せる。
神官の手が、空中で止まった。
神官は、しばらく自分の手を見つめていた。
それから、その片目がヴァルガへ向く。
ほんの一瞬だけ、笑みが消えた気がした。
すぐに、神官は何事もなかったように微笑む。
「……ああ。連れがいたんだ」
その声は、さっきと同じように軽かった。
「なら、私が出しゃばる必要はなさそうだね」
ヴァルガは何も答えない。
ただ、俺を抱き寄せたまま、神官を見ていた。
レオンが人混みを抜けて、こちらへやって来る。
「晴斗、無事か」
「う、うん……」
レオンの視線が、俺から神官へ移った。
その表情が、わずかに険しくなる。
「レオン……?」
呼びかけた時には、もういつもの表情に戻っていた。
「すみません。うちの者が世話になった」
レオンが普段どおりの調子でそう言うと、神官は楽しそうに笑った。
「神殿に向かうところ?」
「……ああ」
レオンの返事は短かった。
「じゃあ、またすぐ会えるね」
神官は俺の方を見る。
その綺麗な顔に、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「兵士に、晴斗くんの名前を言ってごらん。きっと通してくれるよ」
「え? それって……?」
神官はそれには答えず、軽く手を振った。
そして、配給の広場の奥へ歩いていく。
人々は自然と道を開けた。
兵士たちも、誰もその背中を止めない。
「……あいつは」
レオンは、神官の後ろ姿を見つめていた。
「知ってるのか?」
そう尋ねると、レオンは俺に向き直り、少しだけ笑った。
「いや。ただの神官にしては、妙に落ち着いていると思ってな」
なんだか、その言い方が少しだけ気になった。
まるで、慌てて取り繕ったみたいで。
ヴァルガは警戒を解かず、俺を抱き寄せたままだった。
どこかで、あの声を聞いたことがあるような気がした。
けれど、思い出せない。
神殿で聞く声なんて、どれも似ているからだろうか。
「晴斗」
ヴァルガの声で、我に返る。
ヴァルガの腕が、ようやく少し緩んだ。
「心配させるな……」
「……ご、ごめん」
謝りながら、俺はもう一度だけ、神官が消えていった方を見た。
綺麗で、優しそうな人だった。
その人が、俺の名前を呼んでいた。
誰──?




