第四十一話 王都へ続く傷跡
兵士たちが去ったあとも、広場にはしばらく誰も動かない時間があった。
やがて、村人たちがひそひそと身を寄せ合いながら、それぞれの家へ戻っていく。
その中で、何人かがオルドさんたちへ駆け寄った。
拘束されていた縄を解き、気を失ったままのミラさんを支える。
オルドさんは何度も頭を下げていた。
泣いているのか、笑っているのか分からない顔だった。
よかった。
この村にも、まだ人を思いやる気持ちが残っている。
そう思った時だった。
乾いた音が、広場に響いた。
ロウが、頬を押さえてよろめいている。
目の前には、背の曲がった老婆が立っていた。
「この馬鹿者が……!」
震える声だった。
怒りだけじゃない。
悲しみで、声そのものが壊れそうに震えていた。
「オルドは、あの時もお前を責めなかった。ミラだってそうだ。お前が川から戻ってきた時、あの人たちは一言も、お前を責めなかったんだよ」
ロウの顔から、血の気が引いていく。
「あの子を助けられなかったのは、お前ひとりの罪じゃない。そう言ってくれた人たちに、お前は……」
老婆の手が、もう一度上がりかける。
けれど、途中で力を失ったように下がった。
「恩知らずめ……」
ロウは何も言わなかった。
ただ唇を噛んで、拳を震わせている。
その顔は怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。
「……あの人たちが、いつまでもあの日にしがみついてるから」
小さな声が漏れる。
「俺まで、ずっと罪人みたいに見られるんだ」
ロウは顔を歪めて、老婆を見た。
「ばあちゃんもそうだよ」
老婆が目を見開く。
ロウはそれ以上何も言わず、人混みの中へ逃げるように背を向けた。
「……オルドさんの子供の、友達だったんだな」
ぽつりと呟くと、ヴァルガが小さく頷いた。
ロウを責める言葉は出てこなかった。
でも、許せるとも思えなかった。
***
「今日はもうここで休むぞ。早朝、王都に向かう」
レオンが、棘のある声で言った。
振り向くと、その視線は俺に向けられていて、それに気づいたヴァルガが眉間に皺を寄せた。
「レオン。晴斗に言いたいことがあるなら、俺に言え」
レオンは鼻で笑った。
「別に何も。誰かさんの無鉄砲で、何もかもめちゃくちゃだ。だが、今さら何を言っても無駄だしな」
そこで一度言葉を切ると、レオンはわざとらしく肩をすくめた。
「お前はミレグでもそうだった。死にたくない、殺したくないと立ち止まるお前の代わりに、奏様がどれだけ血を浴びたと思ってる」
俺は何も言えずに俯いた。
ミレグの光景が、嫌でも蘇る。
あの時も俺は何もできず、奏が俺の手を引いて、血まみれの道を開いてくれた。
そして今も、俺が身の程も知らずに飛び出したから、奏が助けてくれた。
奏が連れて行かれたのは、俺のせいだ。
その時、ヴァルガがレオンの胸元を掴んだ。
「黙れ」
慌てて、二人の間に割って入る。
「ヴァルガ……! やめろよ!」
けれどレオンは抵抗もせず、俺を見ながら笑った。
「お前には何を言っても肯定してくれる魔王様がいる。羨ましいことだな」
それから、ヴァルガへ視線を向ける。
「ヴァルガ、お前もあまり晴斗を甘やかすな。番とはいえ、目に余るぞ」
ヴァルガはレオンを睨みつけたまま、低い声で言った。
「……お前なら、分かるはずだ」
レオンの瞳が、わずかに見開かれる。
「それに、番だから守っているわけではない。言い過ぎだ。晴斗が他者を思いやる気持ちを、嘲笑うな」
「……いいんだ、ヴァルガ」
ヴァルガの腕を押さえて、止める。
それからレオンの方へ向き直り、頭を下げた。
「……ごめん」
そう言うと、深く息を吐く音が聞こえた。
「……確かに、俺も言い過ぎだな」
レオンの声は、さっきより少しだけ低くなっていた。
「奏様は勇者だ。少なくとも、今すぐどうこうされる立場じゃない」
そう言って、レオンは苦々しく笑った。
「心配するだけ無駄だ。今は休め」
それ以上何も言わず、レオンは宿の方へ歩いていく。
ヴァルガが俺の肩を抱いたけれど、俺はその腕からそっと離れた。
「晴斗……」
「あいつは……奏は、お前が飛び出す前から剣を抜こうとしていた。お前が行かなくても、あの子とオルドたちを助けに行っていたはずだ」
実際、そうだったのかもしれない。
でも、やっぱり。
「慰めてくれなくていいよ。俺が悪いんだから」
俺は顔を上げられないまま、宿へ向かって歩き出した。
***
朝、日の出と共に出発した。
馬を引いて、村の入り口へ向かう。
オルドさんたちに挨拶できないのは気が引けたけど、きっとこれでいい。
村の入り口が見えてきた時、道の端に人影が立っているのが見えた。
「ロウ……」
昨日よりもずっと顔色が悪い。
眠っていないのか、目の下には濃い影が落ちている。
レオンは少し離れた場所で、黙ってこちらを見ていた。
口を挟むつもりはないらしい。
「何の用だ」
ヴァルガが、俺の前に出る。
けれど俺は、小さく首を振って止めた。
「……何か、用?」
俺が尋ねると、ロウは少し笑った。
その笑顔は、旅の話をしていた時のものに少しだけ似ていた。
「さよならを言いたくて。待ってたんだ」
ロウは少しだけ視線を落とした。
「俺さ、お前が羨ましかった」
思ってもいない言葉だった。
「……この村がずっと嫌だった。狭くて、暗くて、何をしても昔のことばっかりで……息が詰まりそうだった」
ロウの指が、服の裾を握る。
「報告すれば、褒美がもらえると思った。都に行けるかもしれないって思って」
「あの人たちが罰を受ければ、あの日も終わる気がした」
声が、少し震えた。
「でも、何も終わらなかった」
ロウは笑った。
泣きそうな顔で、無理に口元だけ歪めている。
「俺、もうこの村から出られないんだと思う。ばあちゃんにも、村の奴らにも、あんな顔で見られて……」
次の言葉を口にするまで、一瞬だけ間が空いた。
ロウは拳を強く握る。
「……俺、売ったんだもんな。オルドさんたちのこと」
昔の事故で何があったのか、俺は知らない。
けれど、昨日の密告は違う。
オルドさんたちを危険に晒すと分かっていて、ロウが自分で選んだことだ。
親しい人を売るような真似、許せることじゃない。
でも──
「……村を出たいなら、出ればいいだろ」
俺が言うと、ロウは目を見開いた。
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃないかもしれない。でも、決めるのはお前だろ」
自分で言いながら、胸の奥が少し痛んだ。
「もう子供じゃないんだから。誰かのせいにして、ここに縛られてるふりをするなよ」
ロウの顔が歪む。
「昔を引きずってるのは、お前も一緒だろ」
何を偉そうに言っているんだろう。
俺だって、同じなのに。
「晴斗さん!」
その時、背後からオルドさんの声が聞こえた。
振り向くと、オルドさんが息を切らしながらこちらへ向かってきていた。
「オルドさん……」
オルドさんは息を整えてから、困ったように言った。
「お礼も言わせずに黙って行かれたら、困りますよ……」
「す、すみません。あの……」
何を言えばいいのか分からずに言葉を詰まらせると、オルドさんは疲れた顔で、それでも少しだけ笑った。
「いいんです。こうして間に合いましたから」
オルドさんは俺の手を取った。
「ありがとうございました。あなたたちが助けてくださったから、私たちは今、生きています」
「……奏さんにも、お礼が言いたかった」
ヴァルガが、静かに口を開く。
「あいつには、王都で会ったら伝えておく」
「……お願いします」
オルドさんは息を吐いて、俺の手を離した。
「ミラは、まだ眠っています」
ミラさんの名前に、胸が締め付けられる。
子供を二回失ってしまった。
彼女は今、どんな思いで眠っているのだろう。
「でもきっと、目覚めたら皆さんに感謝すると思います」
「……あんな形でまた子供を失って、傷が癒えるまでには、時間がかかるでしょう」
「それでも、支えていこうと思います」
オルドさんのその声は、静かに胸に響いた。
この人がそばにいるなら、ミラさんはいつかまた笑える。
そう思いたかった。
やがて、オルドさんの視線が俺の後ろへ向かった。
「……ロウも、来ていたんだね」
その声に、ロウの肩が小さく震えた。
「おばあさんから聞いたよ。昨日のことも、昔のことも」
責める声ではなかった。
けれど、その穏やかさがかえって痛かったのか、ロウは顔を歪めたまま何も答えなかった。
「前にも言ったじゃないか。あの事故は、お前のせいじゃない」
「……」
「子供だったお前に、何ができたって言うんだ。私もミラも、お前を責めたことなんて一度もない」
「違う……」
ロウは小さく首を振った。
「でも、俺は……」
言葉は、それ以上続かなかった。
オルドさんは、やりきれないように目を伏せた。
「私は、自分たちだけがあの子を失ったつもりでいた」
ロウの顔が、かすかに強ばる。
「お前もずっと、苦しんでいたんだね」
その言葉に、ロウは目を見開いた。
「え……?」
「私たちは、自分たちの悲しみで精一杯だった。お前のことまで、見えていなかった」
「もっと早く、ちゃんと話を聞いてやればよかった」
「……すまなかった、ロウ」
「なんで……」
声が掠れていた。
「俺、オルドさんたちに、酷いことしたのに……」
オルドさんは答えなかった。
その言葉を、否定することもしなかった。
ただ、泣き出しそうなロウを見つめていた。
俺たちは、それ以上そこにいることができなかった。
ヴァルガに促されて、静かに村の外へ向かって歩き出す。
朝の冷たい風が、頬を撫でた。
***
「ほら晴斗、水だ」
ヴァルガが差し出してきた水の入った皮袋に、少しだけ口をつける。
街道から少し離れた木陰に、俺は座らされていた。
馬に乗っている途中で、目眩が起きた。
ヴァルガが少し休もうと言ってくれて、正直ありがたかった。
座っていても、頭がまだぼんやりしている。
「大丈夫か……?」
心配そうに覗き込まれて、俺は笑った。
「ちょっと休めば平気だよ」
そう答えたものの、体の奥に残った重さは、なかなか消えてくれなかった。
レオンが、馬に積んでいた荷物から何かを取り出して、俺の方へやってくる。
「晴斗、何か少し口に入れろ」
渡された包みの中には、干した果物が入っていた。
「ありがとう……」
「王都までは、保ってもらわないとな」
いつもの軽い調子だった。
けれど、その一瞬だけ、レオンの目は俺を心配しているというより、俺の体がどこまで耐えられるのかを見定めているように見えた。
レオンはすぐに視線を外し、何事もなかったように皮袋の水に口をつけた。
昨日の夜から、レオンの顔をまっすぐ見づらい。
いや、レオンの態度は今までと変わらない。
俺が気にしてしまうだけだ。
奏がいない。
そのことを意識するたび、胸の奥が沈んでいく。
「奏は……大丈夫かな」
ぽつりと呟くと、レオンが口を開いた。
「言ったろう? 心配するだけ無駄だと。奏様は勇者だぞ?」
少しふざけた口調だった。
俺を元気づけようとしてくれているみたいで、その気遣いがかえって申し訳なかった。
レオンは街道の先へ目を向けた。
「だが、王都はどうにもきな臭い。奏様が言っていた兵士どもの黒い剣もそうだが……」
隣に座っていたヴァルガが、昨日黒い剣を受け止めた腕に視線を落とした。
「……あの剣は、普通ではなかった」
「それに、あの子供の皮を被った黒濁もだ。森に現れる黒濁で、あんなものは見たことがない」
子供の中から溢れてきた黒いどろどろを思い出して、俺は思わず体を小さく縮こませた。
神殿が黒濁を作っている。
そのことは、もう分かっている。
ミレグでも、黒濁の出来損ないのようなものが外壁に穴を開けた。
あの時も、レオンは森の黒濁とは違うと言っていた。
それなのに、また別のものが現れた。
子供の姿をした黒濁。
兵士たちが持っていた、真っ黒な剣。
どちらも、リヴェルトの中で作られたものなのだろうか。
「黒濁って、なんなんだろう……。国の人は、気づかないのかな……」
レオンが、ため息混じりに答えた。
「黒濁のことは、国民はおろか、神殿でもごく一部の者しか知らない」
「俺が神官として入り込んでいた時も、神殿が黒濁を作り出していることまでは掴めた。だが、どこで、どんな風に作っているのかまでは分からなかった」
「じゃあ、王都には……」
そこまで言って、言葉が止まった。
王都には、あれと同じものがもっとあるのかもしれない。
そう思っただけで、口の中が乾いた。
ヴァルガが、眉間に皺を寄せる。
「できることなら、同胞の亡骸を取り戻したい。ミレグでも、たくさん回収されたと聞いた」
「……難しいな」
レオンが苦々しげに言った。
「場所も分からない。王都の真ん中で神殿相手に暴れれば、今度こそ晴斗を治すどころじゃなくなる」
ヴァルガは何も言わなかった。
それが正しいと分かっているからこそ、何も言えないのだと思った。
魔族を殺して、黒濁を作って、ウィルダで住民を縛り付けていたリヴェルト。
そんな国の偉い人に、俺の治療を頼む。
そんなこと、本当にできるんだろうか。
大司祭なら治療できるかもしれない。
それは奏が言っていたことだ。
勇者の頼みなら、聞いてくれるのかもしれない。
でも、胸騒ぎは消えなかった。
本当に、俺は治してもらえるのか。
いや、それよりも。
無事に、ヴァルガとあの城へ帰れるんだろうか。
魔王城を離れて、随分と経ってしまった。
リヴェルトの王都は、もう目前だ。
そのせいなのか、魔族のみんなのことがひどく懐かしくなって、俺は膝を抱えたまま俯いた。




