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第四十話 涙の残響

夫婦は足取りも軽く、人混みの中へ戻っていった。


周囲の人たちは、暗い顔でその背中を見つめている。


その表情の奥に、羨ましさや妬みのようなものが混じっている気がして、俺は思わず顔を背けた。


この場所で、人が死んだばかりなのに。


それでも、あの皮袋の重さを羨む人がいる。

そう思ってしまうほど、この村は疲れ切っているんだ。


広場の空気が、わずかに変わった。


それまで声を張り上げていた兵士が、一歩下がる。

代わりに、青いマントを羽織った男が前へ出た。


他の兵士たちより、少しだけ装いが違う。

甲冑の肩には細い飾り紐がかかり、腰に下げた剣も、どこか見慣れない形をしていた。


黒い髪。

切れ長の目。


その姿を見た瞬間、隣で奏が息を呑んだ。


「……シン……」


ほとんど声にならない呟きだった。


けれど、奏がシンと呼んだ男はこちらに気づいた様子もなく、広場に集められた村人たちをゆっくりと見回した。


「報告は、リヴェルトを守るための正しき務めだ」


静かな声だった。

怒鳴っているわけではないのに、不思議とよく通る。


「魔族、異端、神殿に背く者。見逃せば、その罪は村全体に及ぶ。疑わしきことがあれば、必ず報告せよ」


返事をする者はいなかったが、それでも誰ひとり逆らおうとはしなかった。


シンはそれを当然のように受け止め、わずかに顎を引いた。


「今夜の巡察は、以上だ」


これで終わる、のか。


そう思った瞬間、身体から力が抜けそうになった。


オルドさんたちがどうなるかは……まだ分からない。

でも少なくとも、この場では──


「待ってください」


その声は、すぐ後ろで聞こえた。


時が、止まったように感じる。


振り返った先にいたのは、ロウだった。


どこにも見えなかったのに、こんな近くにいたなんて。


「あの、宿屋の夫婦が来てません」


全身の血が、冷えていくようだった。


「何?」


シンの怪訝そうな声が、広場の中央から聞こえる。

それでも、俺はロウから目を離せなかった。


「それに最近、何かを匿っているような声を聞きました」


ロウは、困ったように眉を下げる。


「何かは、分からないんですけど……」


口に手を当て、考え込むように言葉を濁す。


その一瞬、目が合ったような気がした。


足元が、ぐらりと揺れる。


「探せ」


短い命令の後、数名の兵士が宿へ向かっていく。


止めなきゃ。


そう思うのに、声が出ない。


奏が一歩、前に出かけた。

けれどすぐに、レオンがその腕を掴む。


奏は何かを言いかけて、唇を噛んだ。


ヴァルガの手が、俺の肩に置かれる。

その指に力がこもっているのが分かった。


誰も、動けなかった。



やがて、宿の方から悲鳴と怒声が聞こえ、誰かが息を呑む気配がした。


数名の兵士に引きずられるようにして、オルドさんたちが広場へ連れてこられた。


子供は相変わらず眠っていた。

一人の兵士に、荷物のように無造作に抱えられている。


オルドさんの顔には、殴られた跡があった。

腕を拘束されていても、しきりにミラさんの名を呼んでいる。


ミラさんは、泣き叫んでいた。


言葉になっているのかも分からない声が、頭の中で何度も反響する。


兵士たちが、三人を連れて俺たちのすぐそばを通った。


手を伸ばせば、届く距離だった。


「……ざまあみろ」


すぐ後ろで、ロウが小さく呟いた。


けれどその声は、勝ち誇っているというより、ひどく苦しそうに聞こえた。


「あいつの代わりなんて、作るからだ」


何の……ことだ?


そう思った瞬間、細い腕が俺の腕を掴んだ。


「あ……」


その力は信じられないほど強くて、ひどく震えていた。


ミラさんと、間近で目が合う。


「子供を……たすけて……」


掠れた声だった。


見開いた瞳から、涙がいくつも流れ落ちている。


次の瞬間、ミラさんは兵士に引き剥がされ、広場の中央へ連れて行かれた。


「晴斗……」


呆然としている俺に、ヴァルガの声が落ちる。


けれど俺は、ヴァルガの方を向くことができなかった。


ミラさんの後ろ姿を、ただ見続けていた。


ふらりと、足が前へ出た。


けれど、その腕をヴァルガに掴まれる。


「だめだ、晴斗」


分かってる。


でも──


『お母さん』が、泣いてた。


広場の中央で、子供が無造作に投げ出される。


一人の兵士が髪を掴み、乱暴に顔を上げさせた。


濃い体毛。

獣のように立った耳。

開いた口元からは、小さな牙が覗いている。


それでも、子供は目を開けなかった。


「魔族の子供、か」


シンが感情のない声で言う。


「どうしますか」


兵士に問われて、ほんの少しの間があった。


「子供とて、例外はない」


その声で、兵士が腰の剣を抜いた。

黒い剣が、夜の光を吸う。


ミラさんの悲鳴が上がった。


隣で、剣が鞘を擦る音がした。

奏が動いたのだと、頭のどこかでは分かった。


でも、そんなことよりも──


考えるより先に、身体が動いていた。


俺を止めようとするヴァルガの手が、背中を掠める。


「晴斗!」


後ろから飛んできた声にも、足は止まらなかった。


広場の中央へ飛び出す。

兵士たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。


誰かが何かを叫んだ気がする。

けれど、耳に入らない。


俺は投げ出された子供の前に膝をつき、その小さな体を抱き込むように覆いかぶさった。


不気味だと思っていた子供。


あれほど怖かったはずなのに、今はもう気にならなかった。


お母さんが泣いていた。


これ以上、泣かないでほしかった。


それだけで、頭の中がいっぱいになった。


「なんだ貴様!」


兵士の声が降ってくる。


見上げるより早く、黒い剣が動いた。


その瞬間、俺の前に影が落ちる。


鈍い音が響いた。


剣を受け止めていたのは、ヴァルガの腕だった。


「ヴァルガ……!」


黒い刃がヴァルガの腕を裂く。


血飛沫が舞い、その赤に黒い靄がまとわりついた。


ヴァルガは兵士を見ていなかった。

その視線は、自分の腕に触れている黒い剣へ落ちている。


「……これは」


ヴァルガの赤い瞳が、わずかに細められた。


「その子を連れて離れろ」


「で、でも……! ヴァルガ……!」


今さらになって、頭が冷えた。


ヴァルガが、危ない。


俺は何をしていたんだ──?


「俺は大丈夫だ。今はとにかく離れろ」


ヴァルガは、俺を安心させるように笑った。


言われるまま、俺は子供の体を抱き上げようとする。


けれど、動かない。


「え……?」


見ると、子供の小さな手が、ヴァルガの服を掴んでいた。


瞳は閉じたまま。


なのにその指は、爪を立てるようにして、しっかりと布を握りしめている。


ぞわりと、肌が粟立った。


子供の目が開く。


切れてしまうのではないかと思うほど、大きく。


そこには、眼球がなかった。


ただ、真っ黒な穴が空いているだけ。


その穴から、どろりと黒いものが溢れる。


「な、なんだ……!?」


どこかで兵士の声がした。


黒いものは涙のように頬を伝い、やがて濁流のように増えていく。


鼻から。

開いた口から。

耳の奥から。


粘着質な音を立てながら、子供の内側に詰まっていたものが、外へ溢れ出してくる。


「……っ」


息が止まった。


「晴斗! 離れろ!」


子供に掴まれたまま、ヴァルガが俺を突き飛ばす。


数歩よろめいて、それでも目が離せない。


ああ。


これだ。


俺が怖かったのは、この子じゃない。


この子の中にいる、これだった。


「黒、濁……」


掠れた声が漏れた。


ヴァルガが腕を振るう。


次の瞬間、真っ黒に染まった子供の手が弾かれ、体ごと後ろへ吹き飛んだ。


「なんだ……あれは」


誰かが呆然と呟く。


ヴァルガが、低く強張った声を落とした。


「子供の皮を被った黒濁など……見たことがない」


黒いものは、今や子供の体すべてを覆い尽くしている。


それが、ずるりと這った。


向かう先は、ヴァルガだった。


「ヴァルガ! 胸元だ! 守れ!」


レオンの声が飛んだ。


そうか、宝珠だ。


黒濁は宝珠に引き寄せられる。前にヴァルガがそう言っていた。


だから、あの子はヴァルガがそばにくると反応した。


正確には、ヴァルガが胸に下げている循環の宝珠に──


悍ましい絶叫のような鳴き声が響いた。


黒濁の声には、いつまでたっても慣れない。

胸が押しつぶされそうになる。


黒濁の材料には、魔族が使われている。


じゃあ、これはあの子供の叫びなのか。


そう思った瞬間、黒濁の動きが加速した。

ぬちゃりと音を立てて地面を跳ね、ヴァルガの頭上へ躍りかかる。


「ヴァルガ!」


次の瞬間、光が走った。


黒いものが、裂ける。


剣を振り抜いていたのは、奏だった。


黒濁はびくりと跳ね、形を保てなくなったように崩れていく。

子供だったものの体から、黒い泥のようなものが地面へ広がった。


「奏……」


俺が呟くと、奏は聖剣をじっと見つめた。

刃の先端から、黒い液体が糸を引きながらゆっくりと滴っている。


「……あれは、もう子供じゃなかった」


その声は、ひどく低かった。


「こうするしか、なかった」


「……奏様?」


広場の中央で、シンの声が落ちる。

初めて感情が混じった声だった。


奏が、ゆっくりと顔を上げる。


「シン」


その瞬間、兵士たちの間に動揺が走った。


「あれは、勇者様……?」


「なぜ、ここに……」


白銀の甲冑が揺れる。

剣を抜いていた兵士たちも、戸惑ったように互いを見た。


けれど、すぐに一人が声を張る。


「団長。この夫婦は魔族を匿っていました。断罪を続けます」


兵士の一人がそう言って、剣を構えた。


ミラさんはいつの間にか気を失っていた。

オルドさんは拘束されたまま、守るようにミラさんへ寄り添っている。


「やめろ」


奏の声が、広場に響いた。


「その二人は殺すな。この件は俺が預かる」


「大司祭には、俺から話す」


シンの無表情な顔に、わずかに怪訝な色が浮かぶ。


「理由を」


奏は黙ったまま、聖剣をひと振りした。


びしゃり。


刃に付いていた粘つく黒い液体が、シンの足元へ飛び散る。


「これ、何?」


奏は唇を歪めて笑う。


「俺は知らないけど」


少しだけ声を落とした。


「あんた、これ見ても驚いてなかったよね」


奏は視線だけを、ゆっくりと周囲へ巡らせる。


「ここで話してもいいのかな。こんなに人がいる前で」


シンは黙って奏を見返していた。


その視線が一度、黒い泥の跡へ落ちる。

それから拘束されたオルドさんたちへ。

最後に、もう一度奏へ戻った。


やがて、その瞳を静かに閉じる。


「……承知しました」


シンは短く答えた。


「この場での断罪は見送ります」


兵士たちがざわめきかける。

けれど、シンが片手を上げると、すぐに静まった。


「確かに、この件は現場で処理してよい範囲を超えています」


奏が視線を外しながら鼻で笑う。


「魔王討伐の任を受けた勇者様が、なぜここにいるのか。その報告も必要です」


シンは感情を消した声で続ける。


「任を放棄し、王都を離れて何をしていたのです?」


「あんたに関係ないよ」


奏は悪びれもせず答えた。


シンはしばらく奏を見つめていた。

やがて、小さく息をつく。


「……その返答も含め、大司祭様へご説明ください」


「勇者様。王都まで、ご同行願います」


奏は深く息をついて髪をかき上げた。


「奏様」


レオンが、奏の名を呼んだ。


レオンには珍しく、焦りを滲ませた声だった。

奏は肩をすくめた。


「こうなるかなとは思ってた。仕方ない」


そして、諦めたように小さく笑う。


その表情に不安を感じた。


魔王を倒さないまま、王都から近い村に勇者がいる。

そのことで、もしかして処罰されたりするのか?


「奏!」


気づいた時には、叫んでいた。


奏がはっとして振り返る。


「晴斗……」


その目が、一瞬だけ揺れた。


俺を見て、その隣に立つヴァルガを見た。

ほんの短い沈黙のあと、奏は小さく息を吐いて笑った。


「……俺がいなくても、平気か」


声は小さすぎて、俺以外に聞こえたのかも分からなかった。


「奏……?」


「神殿で、待ってる」


そう言って、奏は剣を収め、シンの方へ歩き出す。


「ふざけるなよ」


みんながその声に振り向いた。


ロウだった。


俯いたまま、拳を震わせている。


「なんで……なんでだよ。報告したのに。あの人たちは、隠してたのに」


誰も答えない。


ロウは顔を上げた。

その目は、泣きそうなほど歪んでいた。


「……だから、罰を受けるべきだろ……!」


「黙れ」


シンの声が、冷たく落ちた。


ロウの肩がびくりと跳ねる。


「報告は受理した。判断は神殿が下す。お前が決めることではない」


ロウは唇を噛みしめた。

けれど、それ以上は何も言えなかった。


シンは兵士たちを見回す。


「撤収する」


白銀の甲冑が動き出す。


奏は最後に一度だけ、黙ってこちらを見た。


そしてそのまま、兵士たちと共に広場を出ていった。

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