第三十七話 誓い
第三十七話 誓い
納屋の中は、昼間でも薄暗かった。
子供は、敷かれた布の上で眠っている。
目を閉じたまま、胸だけがかすかに上下していた。
レオンは膝をつき、その顔を覗き込む。
確かに、気配が薄い。
魔族の子供なら、どれだけ弱っていても残るはずのものが、ほとんど感じられない。
服を乱しすぎないようにしながら、手足や胴を確かめる。
傷らしいものはない。
少なくとも、殴られたり、刃物を向けられたりした跡は見当たらなかった。
ヴァルガから聞いた話では、人間の女はこの子供を死んだ我が子の代わりに抱いているらしい。
「……死んだ者の代わりなど、いるはずもない」
呟いた声に反応するように、子供の指先がわずかに動いた。
けれど、それきりだった。
レオンはしばらく黙って見下ろしていたが、やがて小さく息を吐く。
「医者を呼んだ方がいいな」
魔族の医者に診せる。
そして、必要ならこの場所から保護させるためでもある。
人間などの元に、このまま置いておくわけにはいかない。
***
俺はあれから、ゆっくりベッドで休んだ。
少し休もうとしたはずなのに、気がついたら次の日だった。
目覚めてすぐそばにいたヴァルガが、レオンが子供を見に行った時のことを教えてくれた。
結局、レオンにも詳しいことは分からなかったらしい。
ただ、怪我はなく、俺が見た時のように勝手に動き出すこともなかったみたいだ。
それでも、知り合いの魔族の医者に連絡してくれたと聞いて、俺は少しだけ肩から力が抜けた。
とりあえずは、ミラさんから子供を取り上げることにならなくてよかった。
そう思った。
今は部屋にヴァルガはいない。
目覚めた俺に水と軽い食事を持ってくると言って、部屋を出て行った。
俺はベッドから身を起こそうとして、体のだるさに再び寝転がった。
たくさん休んだのに、体調はあまり変わらない。
もしかしてこれって、風邪や疲れじゃないのかな……
そう思って、怖くなる。
だって、心当たりがあるから。
俺は自分の前髪を指で摘んだ。少し長くなった白い髪の毛が、視界の端に映る。
それを見て、胸が重く沈んだ。
***
水と食事を持って戻ってきたヴァルガは、それからしばらく俺に付きっきりで世話を焼いた。
これで、本当に風邪でも引いて熱が出たらどうなるんだろう。
そんなことを考えていると、ついには俺のために滋養に良い薬草を買いに行くと言い出した。
俺は部屋にいると余計なことばかり考えてしまうからと頼み込み、結局一緒に外へ出ることになった。
ただし、具合が悪そうならすぐ抱き上げる、と念を押されて。
外でお姫様抱っこはごめんだ。
俺は慎重に歩いた。
部屋を出て廊下を進むと、ちょうどオルド夫妻が部屋から出てくるところに鉢合わせした。
「あ、晴斗さん。ちょうどお加減を聞きに行こうと思ってたんです」
そう言ったオルドさんに肩を抱かれながら、ミラさんは俺に気づいて狼狽えた。
「晴斗、下がれ」
ヴァルガが俺の前に守るように一歩出る。
しかし、ミラさんはこの前のように泣いたり叫んだりしなかった。
それを見て、俺はヴァルガの隣にゆっくりと立った。
ヴァルガの咎めるような視線に、俺は「大丈夫」とだけ呟いた。
「ミラ、ちゃんと言えるかい?」
オルドさんが優しい声音でそう言うと、ミラさんは小さく頷いた。
「あの……怪我は、大丈夫ですか……?」
ミラさんは、包帯を巻かれた俺の腕をおどおどと見つめている。
その視線に、昨夜のような取り乱した様子はない。
少しだけ驚いた。
「……全然、平気です。気にしないでください」
そう答えると、ミラさんはほっとしたように頭を下げた。
「すみませんでした……あの子のことになると、我を忘れてしまって……」
その表情には、つらさが滲んでいた。
自分でも、子供を想う気持ちを止められないんだろう。
失ってしまったものを取り戻したい。
その思いが、周りを見えなくさせる。
きっと、俺と一緒だ。
「……安心してください。あの子のこと、誰にも言いませんから」
ミラさんが、びくりと震えた。
戸惑いながらも、縋るように俺を見る。
俺は周囲を確認してから、声をひそめて言った。
「それに、連れが魔族の医者に連絡してくれたそうです。だから、何かわかるかもしれませ……」
言い終わる前に、ミラさんの細い手がこちらに伸びた。
そっと、俺の手を握る。
「ありがとう……」
ミラさんは泣いていた。
それでも、涙の奥には安心したような笑顔が浮かんでいる。
その指先はひどく冷えているのに、とても温かく感じて、俺は目頭が熱くなるのをただ堪えるしかなかった。
***
宿を出て、ヴァルガと村の通りを歩いていく。
二人で店を覗いて、他愛ない話をする。
ヴァルガはろくな薬草がないと愚痴をこぼしていた。
確かに、並んでいる商品は少ない。
薬草は乾ききっているものが多く、果物も小ぶりで、店主の声にもあまり覇気がなかった。
観光客で賑わう温泉村、という雰囲気はどこにもない。
それでも俺は少し楽しかった。
ヴァルガと買い物なんて、初めてだ。
それだけのことなのに、なんだか少しくすぐったい気持ちになる。
それに、ミラさんが感謝してくれた。
泣きながら、それでも笑顔を見せてくれた。
そのことも、心を少し軽くしてくれている。
でも、さっきのことを思い出すと、少し胸がざわついた。
ちらりとヴァルガの様子を窺う。
変に、思われなかったかな。
ヴァルガは何もなかったように歩いている。
けれど、ミラさんの話題だけは避けているようにも見えた。
「あのさ、さっきの……ミラさんと喋ってる時の俺って、変じゃなかった……?」
歩くヴァルガの足が止まった。
目が合うと、赤い瞳がぱっと視線を外す。
「……ヴァルガ?」
逸らした目が、ぐっと閉じられた。
「……歳は離れてるが、晴斗はあの者のことが好き……になったのか……?」
「えっ?」
「お前は人間で、番の繋がりを感じない。他に恋をしたって、責められることでは……」
「ち、違う!」
ヴァルガのものすごい勘違いに、大慌てで否定する。
確かにミラさんは、ひどく痩せてしまっているけれど綺麗な人だ。
オルドさんの妻だと知らなければ、もっと若く見えたかもしれない。
けど、俺が求めていたのは、恋愛感情とかじゃなくて……
「……違う?」
こちらを見るヴァルガの目は、まるで子犬のようだった。
ほんとに、俺のことになると威厳もなにもない。
そんなヴァルガを見て、俺も気持ちを打ち明ける決心をした。
こんな勘違いを濁していたら、こいつも信じきれずに苦しむかもしれない。
「さっきミラさんに感謝されて、笑いかけてもらえて……嬉しかったんだ」
「……俺さ、親がいないから。ミラさんのこと母親みたいに思っちゃって」
そこで一旦止めて、息を吸う。
「……守ってもらえるあの子がうらやましくて、嫉妬した。俺にも……笑いかけてほしいって」
「情けないだろ? もう、子供でもないのにさ」
明るく言って、胸が痛んだ。
親のことなんてなんとも思ってない。
そんな風に、振る舞っていたかったのに。
「晴斗」
呼びかけられたけど、顔を見る勇気がなくて、じっと俯いた。
ヴァルガの指先が、そっと俺の顎に触れる。
促されるまま、俺はゆっくり顔を上げた。
「子供でなくなったからといって、幼い頃に欲しかったものまで消えるわけではない」
ヴァルガの声は、静かだった。
「守られたかった。笑いかけてほしかった。そう願うことを、恥じる必要はない」
その言葉が、胸の奥にゆっくり染み込んでいく。
ヴァルガは、少しも笑わなかった。
呆れもせず、哀れみもせず、ただ当たり前のように受け止めてくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、気づいた時には、俺はヴァルガを抱きしめていた。
「晴斗……外ではだめなんじゃないのか?」
戸惑うような言葉にはっとして、周りを見ると、ちらちらとこちらを見てる人たちもいた。
慌ててヴァルガから、身を離して笑った。
「ご、ごめん……俺、親のことって人にあんまり言ったことなくて」
「お前が聞いて、理解してくれて……嬉しくなっちゃって」
照れ隠しに頭を掻く。
すぐそばで、ヴァルガの銀髪が揺れた。
「……言いづらいことを、ちゃんと話してくれて嬉しい」
見上げると、ヴァルガが微笑んでいた。
優しくて、綺麗で、どうしようもなく愛しそうに俺を見る顔だった。
その顔を見た瞬間、胸がまた苦しくなった。
鼓動が早い。
このままだと、また抱きついてしまいそうだ。
俺は慌てて顔を振り、何か別の話題を探す。
「なあ、お前の両親はどんな人だった?」
言った途端、しまったと思った。
魔王城にヴァルガの両親はいなかった。
亡くなっているのかもしれない。
迂闊に聞いたことを後悔した。
あからさまにしょげた俺を見て、ヴァルガはふっと笑った。
「……気にするな。両親のことを聞かれるのは、嫌ではない」
「二人が亡くなったのも、もう遠い昔のことだ」
ヴァルガはそう言って、少し考えるように視線を落とした。
「俺の両親は、番同士ではなかった」
驚いた。
確かに、生涯で番に会える魔族は少ないと聞いた。それでも、結婚して子供を産むなら漠然と番同士なのだと思いこんでいた。
「だが、互いを軽んじていたわけではない。王と伴侶として、尊重し合っていた」
そこで一度、ヴァルガは言葉を切った。
「……父は俺が幼い時、本当の番を見つけた」
「え……?」
「人間の番だった。だが、その者にはすでに伴侶がいた。だから父は、番を尊重して身を引いた」
ヴァルガはそこで一度、言葉を切った。
遠いものを見るような目をしていた。
「俺は、父を尊敬している」
その声に、迷いはなかった。
「王としても、俺の父としても。それに、番を想う者としても、立派な人だった」
「……俺は父のように」
ヴァルガは俺の顔に触れようとして、寸前で手を下ろした。
「お前の意思を尊重することができるのか……」
赤い瞳が、苦しげに揺れていた。
俺が魔族だったら、ヴァルガはこんなに不安にならないんだろう。
魔族同士の番なら、きっと絶対に離れないから。
でも、俺は人間だ。
番の絆を、同じようには感じられない。
確かに、この気持ちが永遠なんて約束はできない。
それでも何か、証明してやりたくなった。
今、俺が誰を選んでいるのか。
どれだけお前を大事に思っているのか。
「俺、お前のこと好きだよ。ずっと、大事にしたいって思ってる」
「……わかっている」
それでも、ヴァルガの表情は晴れなかった。
困って視線を彷徨わせた時、通りの端に小さな露店が見えた。
荷馬車の脇に並べられた、古びた装飾品。
「あれ、少し見てもいい?」
そう言って露店に近づくと、その中で、飾り気のない銀色の輪が二つ、並んで鈍く光っていた。
「これ……」
思わず二つを持ち上げた。
大きさが違う二つの指輪。
これなら……
「おや、珍しくお客さんだ。お安くしますよ」
分厚いターバンのようなものを頭に巻いてる店主が話しかけてくる。
「じゃあ、これください」
「晴斗、何を買う?」
ヴァルガが肩越しに覗いてくる。
思わず持っていた指輪を手のひらに隠した。
店主がヴァルガを見て、ほんのわずかに息を呑んだ。
「……そちらの御仁。ずいぶん、強い気配をお持ちで」
ヴァルガの赤い瞳が、店主を静かに見返す。
「お前も、同胞か」
声は低かった。
周囲に聞こえないよう、わざと落とした声だ。
店主は分厚い布を巻いた頭を少し下げ、とほほと笑った。
「ええ。人間の町で商売を、と思ったんですがね。なかなかうまくいきません」
ヴァルガは、懐から装飾を一つ取り出して渡す。
「リヴェルトでは差別も多い。あまり無茶はするな」
ヴァルガから受け取った装飾品を見て、店主は目を丸くした。
「えっ!こんな高価なもの!貰えません!」
「晴斗が買う物の代金だ。受け取っておけ」
「ヴァルガ、えっと、これは……」
「晴斗、欲しいものがあるならもっと言え」
こいつに買ってもらったら、あんまり意味がないんだけど……
俺もレオンからお金を預かっていた。
確かに、それで買おうとしてたんだから自分の金ではない。
気にしても仕方ないか……
「これだけでいいよ。ありがとう。ヴァルガ」
素直にお礼を言って、俺たちは歩き出した。
少し歩いて、人気のない建物の隅に寄った。
色気はないけど、あまり目立つのもどうかと思った。
「晴斗?ここは?何をする?」
首を傾げているヴァルガに、そっと手を開いて隠していた指輪を見せる。
「ああ、買ったのは指輪だったのか。意外だな。城では俺が勧めようと、宝飾品の類はつけなかったのに」
「んー、これは特別っていうか」
そう言ってヴァルガの左手を取り、薬指に一つの指輪をはめた。
そして自分の左手の薬指にも。
「……こういうことだよ」
照れながら言った。
でもヴァルガは不思議そうに指輪と俺を交互に見つめている。
あ、あれ……?
「……もしかして、こういう指輪の意味とかって、知らない?」
「聞いたことがないが……まじないか?」
俺はがっくりと肩を落とした。
「あーそっか。この世界では結婚指輪とかないのか。じゃあサプライズ失敗だな」
「結婚指輪……?」
「俺の世界では結婚する時、二人で指輪をつけるんだよ。ずっと一緒に生きていこうって証かな」
ヴァルガは、驚いたような顔をして指輪をまじまじと見る。
「晴斗が……俺と……」
「思いつきで、ごめんな。形にしたら見えやすいかなって」
そう言って、俺はヴァルガの手を取った。
薬指にはまった指輪に、そっと唇を落とす。
「晴斗……」
ヴァルガの声が、かすかに震えた。
俺は顔を上げ、真剣にヴァルガを見る。
「今の俺には、これくらいしか言えないけど」
確かに、未来のことなんてわからない。
それでも、今ここで、お前を選んでいることだけは嘘じゃない。
「俺はこの指輪、生涯外さない」
赤い瞳が大きく揺れた。
ヴァルガはしばらく何も言わなかった。
ただ、俺の手を取って、真似するように俺の指輪へ唇を落とす。
「……俺もだ。生涯外すことはない」
低い声だった。
けれど、その奥に隠しきれない喜びが滲んでいて、胸が熱くなる。
外だから、抱き合うことはなかった。
それでも見つめ合っているだけで、胸の奥が触れ合っているような気がした。




