第三十四話 湯気の向こう
宿は、村の少し奥まったところにあった。
裏手には、川が流れているのが見える。
「晴斗、温泉と書いてある」
ヴァルガが外壁の看板を指差していた。
「本当?」
その看板は古く、色褪せている。
文字も、かなり掠れていた。
これは、まだやってるのか?
「聞いてみないと、わからないね」
奏に言われて、俺は頷いた。
宿の扉を開けると、中は外から見たよりもずっと傷んでいた。
でも、ところどころ修繕はされている。
掃除も行き届いていて、花瓶には花が生けてあった。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきたのは、中年の男だった。
穏やかそうな顔をしているけれど、目元には疲れが滲んでいる。
「四人だが、泊まれるか?」
レオンがそう尋ねると、男は苦笑いしながら答えた。
「はい。空いてますよ。……空いていない日の方が、珍しいくらいで」
「あの、外の看板に温泉って書いてあったんですけど……」
期待を隠しきれずに聞くと、男は申し訳なさそうに眉を下げた。
「昔は、それが売りだったんですがね。今は湯がぬるくなってしまって、お客様に出せるほどではありません」
「やっぱり、そうなんですね」
思ったより残念そうな声が出てしまった。
「晴斗ってそんなに温泉好きだったの?」
奏の問いに俺は首を横に振った。
「一度も行く機会がなかったんだよ。家族もいないし、旅行することもなかったし」
「あ……そういや、修学旅行でも熱出して休んでたよね?」
「そうそう、結構楽しみにしてたんだけどな」
そう言って、自虐的に笑った。
あれは間が悪かった。
地方への修学旅行。
メインは温泉じゃなかったけど、俺は密かにそれを楽しみにしていた。
行けなかった俺に、奏は土産をいろいろ買ってきてくれた。
でも、温泉と結びついて残っているのは、施設の同じ学校の子がくれた温泉まんじゅうだけだった。
俺の温泉の思い出は、あのまんじゅう、たった一つだ。
ヴァルガが隣から、労るような顔で俺を覗き込んだ。
「晴斗、帰ったら城に露天風呂を作ろう」
「い、いや、いいよ。そこまでしなくても」
温泉が出なかったら、こいつは城の庭を穴だらけにしそうだ。
宿の主人が、俺に気を遣って口を開いた。
「家族で使っている小さな露天風呂ならあります。川べりに、お湯が湧き出てるところを見つけましてね」
「川に石を積み上げただけの、粗末な風呂ですけどね。それでもよければ……」
素直に嬉しい。
「本当ですか?ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて……」
「やったね、晴斗。さっそく荷物置いたら行こう」
笑顔で言う奏の前に、ヴァルガが立ち塞がる。
「晴斗は俺とだけ入る」
「は? なんであんたが決めるの?」
「晴斗は俺の番だ。お前は晴斗に邪な考えを持っている。俺の伴侶と二人きりにできるわけがない」
「邪ってなんだよ。それに決めるのは晴斗でしょ。ねえ、晴斗。行けなかった修学旅行の代わりにしようよ」
俺は額を押さえて、ため息をついた。
「お前ら、いい加減にしろよ」
宿の主人が、ぽかんとした顔でこちらを見ている。
ほんとにやめてほしい。
「……みんなで入ればいいだけだろ」
投げやりにそう言うと、主人が戸惑いながら口を開いた。
「あの、本当に小さい風呂なので……男性だと、詰めても二人でぎりぎりかと……」
その言葉に、再びヴァルガと奏が睨み合う。
めんどくさいな……
そう思っていると、突然レオンが俺の肩を抱き寄せた。
「じゃあ、俺と入るか?」
耳元に息を吹きかけられ、俺は「うわ!」と飛び上がる。
「レオン!」
奏とヴァルガの声が重なった。
「俺と入るのが一番安全で楽しいと思うぜ?」
にっこり微笑まれたが、全然そうは思わない。
この人は何か危険だ。
……色々な意味で。
俺は耳を擦りながら、レオンの手を肩からどかした。
主人から鍵を受け取って、荷物を手に勝手に部屋へ向かう。
「晴斗!」
ヴァルガと奏の声が綺麗に重なる。
こいつら、もしかして気が合うのでは?
そんなことを思いながら、肩越しに二人を見た。
「俺は一人で入る」
二人とも、この世の終わりみたいな顔をした。
それに構わず部屋に入る。
ドアを閉めて、大きく息をついた。
奏とレオンは論外。
でも、ヴァルガと二人きりで風呂だなんて、危ない。
よからぬことになってしまったら、厚意で風呂を貸してくれる主人に申し訳が立たない。
いや──
本当に危ないのは、ヴァルガじゃなくて俺の方だ。
ヴァルガは俺のために約束を守っている。
いつも、破ってもいいと思ってしまっているのは、きっと俺だけだ。
「一番邪なのは、俺だな……」
口の中で小さく呟いて、苦笑いした。
***
主人に案内されて、宿の裏口から外に出た。
外はもう、夕日もほとんど落ちかけて薄暗くなっている。
宿の裏手には石畳が敷かれていて、その先に大きな風呂があった。
しかし、張られた水から湯気は立っておらず、湯の熱気も感じない。
「これが、昔は熱い湯だったんですよ。今はもう、見る影もありませんが……」
主人はそう言ってから、さらに川べりへ案内してくれた。
指し示された場所には、石が積み上げられ、小さな水溜まりのようなものができていた。
川を石で隔てただけに見えるのに、そこだけは白い湯気が立っている。
不思議な光景だった。
「わ、すごい」
「本当に些細なもので、お恥ずかしいんですが……」
主人はひたすら恐縮している。
「いえ、ありがとうございます。楽しみです」
笑顔を見せると、主人はほっと息をついた。
「……ただ、あの納屋には近づかないでください」
「え?」
主人の視線の先を追う。
川と宿の間に挟まれるように、小さな小屋が建っていた。
「あそこには、石を割る道具や古い刃物が入っているので危険でして」
「自分で石を掘ったりしてるんですか? 大変だな」
「個人でやるには、どうしても時間が足りなくて。その温泉も広げて、お客様用にできたら、客足も戻ってくるかもしれないんですけどね」
主人は困ったように笑うと、「ごゆっくり」と言って宿に戻っていった。
一人になると、急に辺りが静かになった。
川の流れる音と、湯気の立つ小さな湯の音だけが聞こえる。
俺は主人が用意してくれた籠を石の上に置いて、服を脱いだ。
外で裸になるのは、少し心許ない。
腰に布を巻いて、小さなランタンを近くの石に乗せる。
それから、小さな温泉にそっと足を入れてみた。
「はは、あったかい」
ゆっくりと湯の中に浸かる。
浅めなので、少し寝そべるような形になった。
「一人で入って正解だったな」
足を伸ばして、のびのびと入れるのが嬉しかった。
湯は熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい。
「うわー……気持ちいい」
外で風呂に入っているという非現実的な状況に、少しだけ気分が高揚していた。
はしゃいで独り言が出ていることに気づいて、思わず笑ってしまう。
まさか、異世界で初温泉できるなんてな。
顔を両手で拭う。
旅の疲れが、ゆっくりと溶けていくようだった。
暗くなった空を見上げると、たくさんの星が輝いている。
やばい。
癖になりそう。
これは、ヴァルガに温泉を掘ってもらった方がいいかもしれない。
そんなことを考えていると、背後で何か音がした。
カリ、カリ……
木を引っ掻くような、小さな音だった。
「……?」
俺は顔を上げる。
川の流れる音に紛れて、聞き間違いかとも思った。
でも、しばらく耳を澄ませていると、また同じ音がした。
カリ、カリ。
背後の方。
主人に近づくなと言われた、あの納屋の方からだった。
「……動物か?」
口に出してみたものの、自分の声が思ったより小さい。
外だ。
しかも、裸に近い状態でひとり。
急に心細くなって、湯の中で膝を抱えた。
ヴァルガを呼ぶべきかと思ったけど、大騒ぎになる気がする。
それに、ただの動物だったら恥ずかしい。
主人は、道具が入っているから危ないと言っていた。
なら、何かが倒れたり、風で揺れたりしているだけかもしれない。
そう思おうとした時。
ぎい、と。
古い木が軋む音がした。
俺は息を止める。
暗くて、よく見えない。
けれど、納屋の扉のあたりに、黒い隙間ができているのだけはわかった。
さっきまで、閉まっていたはずなのに。
カリ。
今度は、音が少し近い。
背中にぞわりと冷たいものが走った。
なんだか、動物じゃない気がする。
もっと、大きいものだ。
もしかして、強盗とか……?
湯に浸かっているはずなのに、指先が冷えていく。
俺は慌てて湯から上がった。
体を拭くのもそこそこに、用意されていた布で体を包む。
震える手でランタンを持った。
髪から水がぽたぽた落ちるのも構わず、宿に引き返そうとした瞬間──
じゃり、と石を踏む音が聞こえた。
「っ……!」
納屋の方から、何かが出てきた。
俺は金縛りにあったように動けなくなる。
ただ、無意識に、ランタンを持つ手を前に突き出した。
灯りの届くぎりぎりのところで、小さな影が揺れている。
人、か?
でも、動きがおかしい。
ゆらり、ゆらりと体を揺らしながら、その影は納屋の壁に手をついた。
そこまでは、ただの黒い輪郭にしか見えなかった。
「……誰?」
声をかけても、返事はない。
強盗にしては小さい。
でも、動物とも違う。
子供……?
そう思って、俺はおそるおそる納屋へ近づいた。
一歩。
また一歩。
ランタンの明かりが、ようやくその手元を照らす。
小さな手だった。
けれど、人間のものじゃない。
指の先は黒く、手の甲は濃い毛に覆われている。
「魔族の……子供……?」
思わず呟いた瞬間、ものすごい力で腕を掴まれた。
「何をしてるんですか!」
鋭い声が響く。
驚いて振り向くと、そこに女の人がいた。
「いや、あの……そこに誰かが……」
女の人は血の気の引いた顔で、俺と納屋の方を交互に見ている。
「見ないで!」
悲鳴みたいな声だった。
掴まれた腕に、爪が食い込む。
細い、痩せた指だった。
「……っ!」
こんな力がどこから出てくるんだろう。
「あそこには誰もいない! 早くここから出ていって!」
鬼気迫る声と表情に足がすくみそうになる。
ものすごい力で、腕を振り払うこともできない。
「晴斗!」
声がした瞬間、屋根の上から銀の髪をなびかせ、ヴァルガがふわりと降りてきた。
ヴァルガは女の人の手を俺の腕から引き剥がし、そのまま俺を庇うように強く抱きしめる。
「ヴァルガ、どうして……」
「お前に何かあったらと思って、近くを見回っていた。そうしたら声が聞こえて……」
ヴァルガはそこで、思い出したように女の人の方を向いた。
地面に尻餅をついた女の人を、怒りの表情で見下ろす。
「貴様……死にたいのか」
ぞっとするほど冷たい声に、女の人の肩が震えた。
「ひっ……」
「ヴァルガ! 大丈夫だから……!」
俺の声に、ヴァルガははっと振り返る。
そして俺の腕を取り、痛ましそうに見つめた。
「晴斗……! 血が……」
「……大したことないって。それより、女の人に乱暴なことするなよ……」
実際、傷はそれほど深くない。
でも、痛みよりも、女の人の剣幕の方が怖かった。
怒りとも恐怖ともつかない感情を真正面から浴びせられて、ミレグでのことが一瞬だけ頭をよぎる。
ヴァルガの腕の中で緊張が解けて、膝ががくがくと震えるのを必死で堪えた。
俺が怖がっているとわかったら、ヴァルガがあの人に何をするかわからない。
「ミラ!」
宿の扉が開き、主人がミラと呼んだ女性に駆け寄る。
「部屋にいないから心配したよ。もしやと思ってここに来てみたんだ」
「オルド……! あの子が、また動いてる! 早く戻して!」
泣きながら懇願されて、主人は顔色を変えた。
足早に納屋へ向かう。
ふらふらと動く小さな影の腕を取り、納屋の中へ引き戻していく。
影は抵抗するでもなく、力なく引かれていった。
しばらくすると、主人は一人で戻ってきた。
そして、ミラさんの肩を抱く。
「さあ、もう大丈夫だ。部屋に戻ろう」
「なんで、今日に限ってお客が……? どうしてここにいるの……?」
泣きながら呟く声は細く、目は虚ろだった。
「すまない、ミラ。お客さんに湯を楽しませてあげたかったんだ」
「どうして……いつも縛っているのが可哀想で、今日は解いてあげていたのに……」
主人は額を押さえるようにして、深く息を吐いた。
「ああ……ごめんよ。考えが至らなかった。とりあえず中に入ろう」
主人はミラさんを連れて宿に入っていく。
俺はヴァルガに支えられたまま、黙ってそれを見つめていた。
ミラさんは多分、宿の主人の奥さんなんだろう。
でも、彼女は何かただならぬ様子だった。
それに、あの子供は──
ちらりと、納屋の方を見る。
カリ、と。
細い指が、木の壁を引っ掻く音がしたような気がした。




