第三十五話 守りたいもの
「晴斗、あそこに何がいた?」
顔を上げるとヴァルガがこちらを見つめていた。
「……暗くて、よく見えなかったんだけど、魔族の子供が……」
ヴァルガは、やはりと言うように頷き、納屋の方を見つめる。
「……気配がひどく薄い。いや、これは……同胞なのかもわからない」
そう言って、納屋に向かおうとする。
俺は慌てて服の裾を掴んで止めた。
「……晴斗?子供の様子を見なければ」
「……いや、あのさ。ご主人の……オルドさんの話、聞いたほうがいいかなって」
ミラさんの様子は異常だった。
きっと本人からは何も聞けない。
「人間の話を聞いて何になる?子供に害をなしているんだぞ?」
ヴァルガの表情に怒りが灯る。
「……縛る、と。そう聞こえた」
そうだ。確かに俺も聞いた。
虐待だったら、と思うと胸が痛む。
でもミラさんの様子は、何故かそんなふうには見えなかった。
様子はおかしかったけど、叫び声は心配している声音だった。
「……やっぱり、ちゃんと話を聞いたほうがいい」
「……晴斗」
ヴァルガが珍しく、俺を嗜めるように呼んだ。
俺は思わず、掴んでいた服の裾に力を込めた。
「……なあ、頼むよヴァルガ。聞かなきゃいけない気がするんだ」
それに──
納屋に再び目をやる。
俺があそこに近づきたくなかった。
ゆらゆらと不自然に揺れる影。
生きてるものの動きとは、思えなかった。
思い出して、奥歯がかちりと鳴った。
それを見て、ヴァルガが俺の頬をそっと両手で包む。
「……わかった。今はお前の言うことを聞こう」
「だから、そんなに震えるな……」
俺は何も答えられず、ヴァルガに肩を抱かれて宿に入った。
***
服を着替え、腕の手当てをするために一度部屋に戻った。
俺はそのままオルドさんのところに行ってもよかったけど、ヴァルガが許さなかった。
着替えた後、ヴァルガは俺の腕に薬を塗って、包帯の代わりに清潔な布を巻いてくれる。
俺より痛そうな顔をして、壊れ物に触れるような手つきで。
大したことないのにな、と思っていると、控えめなノックの音が聞こえた。
ヴァルガは一瞬で険しい顔になり、立ち上がって扉を開ける。
そこに立っていたのは、オルドさんだった。
「何の用だ」
「ひっ……あ、あの……」
ヴァルガの圧がすごい。
オルドさんは凄まれて、額に汗を浮かべている。
「ヴァルガ、威圧するなって。オルドさん、どうしました?」
「あれ? 私の名前……」
オルドさんが不思議そうにする。
「あ、さっき、奥さん……ミラさんが呼んでいたから」
「あ、ああ……晴斗さん……先ほどは妻が申し訳ありませんでした」
俺に倣って名前で呼んでくれた。
やっぱりこの人は、悪い人には見えない。
「先ほどは私も混乱していて……何の説明もせず、失礼しました」
「……お話、聞かせてもらえるんですか?」
オルドさんは、まだ少し迷っているようだった。
それでも、やがて小さく頷く。
「あんなに取り乱した妻を見られてしまっては……もう、貴方がたの善意に縋るしかありません」
なんだろう。その言い方……
まるで、俺たちが何かをするかもしれないと怯えているみたいだ。
少し引っかかったけれど、俺はオルドさんを部屋に入れ、テーブルへ招いた。
二脚ある椅子に俺とオルドさんが座り、ヴァルガは俺のすぐ後ろに立った。
「単刀直入に聞きたいのは……あの納屋の子供です。あの子は……」
俺の言葉に、オルドさんは俯きながら答えた。
「……あの子は、もちろん私たちの子ではありません。一月前に、瀕死の状態で川に流れ着きました」
「魔族の子供なんて、ここにいてもろくなことはない。私は放っておけと言ったんです」
「ですが、妻が抱き上げてしまった」
オルドさんは、こめかみを押さえた。
「……私たちは昔、子供を事故で失いました。あの川で……」
俺は胸が詰まった。
子供が死んだ川のすぐそばで、ずっと暮らしていかなきゃならないなんて。
「ちょうど、同じ年頃だったんです」
「妻が献身的に手当てをして、見た目の傷はほとんど治りました」
「ですが、目は覚まさない」
オルドさんは苦しそうに息を吐く。
「たまに、先ほどのように、何かを探すようにうろつくんです。目を閉じたまま」
「……私は、正直気味が悪くて……どこかに捨ててこようと思ってしまいました」
すぐそばで、ヴァルガの気配が冷たくなる。
俺は振り向かずに、手探りでヴァルガに触れた。
オルドさんは気づかず言葉を続ける。
「しかしミラが……あの調子で……」
「まるで我が子のように取り乱すんです……私は結局、何もできずそのまま……」
項垂れるオルドさんの後頭部を見つめた。
奥さんも、あの子供も、どうすることもできずに悩み続けている。
初めて見た時の疲れたような表情は、貧困のせいだけじゃなかったんだ。
「……ミラさんを医者に見せることはできないんですか?」
彼女の心の傷は深い。
それに、ひどく痩せていた。
異世界に精神科みたいなものがあるのかはわからない。
でも、一度診てもらえないのだろうか。
「医者が来たら、あの子が見つかると……診察を受けようとしません。あの子から離れたがらないので、外にも出歩かない……もう、どうしたらいいか」
「……言いなりで、子供を縛って閉じ込めているのか」
振り返ると、ヴァルガがオルドさんを睨みつけていた。
「ヴァルガ……」
「よくないことだと、わかっています……意識がないにしろ、あの子が可哀想で……」
オルドさんの声が震える。
「……でも、仕方がないんです。村のみんなに知られるわけにはいかない……」
「ここがリヴェルト領だから、ですか? 他の人に相談してみても……」
オルドさんの肩が、びくりと震えた。
「……この村で、変な噂が立つと危険なんです。魔族を匿っているなんて……口が裂けても言えません」
オルドさんの怯え方を見て、不安になった。
危険って、どういうことなんだ?
村の人に知られたからって、すぐに何かが起きるものなんだろうか。
「やはり、俺が見に行く」
ヴァルガが扉へ向かうのを、慌てて止めた。
「待てよ、ヴァルガ!」
「晴斗は待っていろ。なんにせよ、子供の様子がおかしいのは気になる」
ヴァルガは、王の顔をしていた。
俺のためなら、宝珠すら渡してしまう。
魔王の使命なんてどうでもいい。
この前、ヴァルガはそう言っていた。
それなのに今、目の前にいる魔族の子供を放っておけずにいる。
きっと、これが本来のヴァルガなんだ。
慈悲深くて、寛大で。
守れるものなら守ろうとする、魔族の王。
そこに、たまたま俺が入り込んでしまっただけだ。
「……じゃあ、俺も行く」
「晴斗、無理をするな。震えていただろう?」
「大丈夫」
嘘だった。
正直、まだ怖い。
あの影の動きに、なぜか強い不安を感じる。
でも、ヴァルガが王として動こうとしているのを、俺の怖さだけで止めたくなかった。
それに、一人で行かせたくない。
俺がいたって何の役にも立たないのはわかってる。
それでも、知らない間にヴァルガが傷ついているのを見るのは、もうごめんだ。
ヴァルガは俺をじっと見つめてから、ふっと息をついた。
「……わかった。無理ならすぐ言え」
俺はこくりと頷く。
オルドさんは俺たちを見て、不安そうにしている。
俺は意を決して口を開いた。
「大丈夫です。彼は、魔族……なんです。子供のことも、何かわかるかもしれません」
俺の言葉に、オルドさんは驚いてまじまじとヴァルガを見つめた。
「……確かに、人間離れした男前だと思いましたが……いやはや」
ヴァルガはつん、とそっぽを向いている。
やはりヴァルガの容姿は、人間と大差ないから魔族だって気付かれないんだな。
少し身構えている俺を見て、オルドさんは慌てて否定するように手を振った。
「私は元々、この国の生まれではありませんから。リヴェルトの人たちほど、魔族に強い偏見はないつもりです」
人の良さそうな笑顔を見て、俺は肩の力が抜けた。
よかった。ヴァルガが偏見の目で見られたらどうしようかと思った。
「……では、私も行きます。様子を見に行こうとも思っていたので」
俺たちはオルドさんを先頭に、納屋へ向かった。
***
納屋に近づくにつれ、ひどく足が重くなった。
ヴァルガがそれに気づき、黙って俺の手を握ってくれる。
その温かさに縋るようにして、なんとか納屋の前まで辿り着いた。
その時──
中から、かすかな話し声が聞こえた。
女性の声だ。
「ぼうや、今日はずっとこうしていましょうね」
「大丈夫。お母さんが守ってあげますからね」
泣きたくなるような、優しい声だった。
「ミラ……眠ったはずだったのに……」
オルドさんがそう呟きながら、納屋の扉を開ける。
暗い部屋の一番奥が、オルドさんの掲げたランプの光で照らし出された。
壁にもたれるように座り込んでいる魔族の子供は、ミラさんに抱きしめられていた。
動く気配はない。
そのことに、ほっと息をつく。
けれど、その後にミラさんの顔を見て、俺の鼓動が大きく鳴った。
なんて、優しい顔をしてるんだろう。
あんな顔を向けられた子供は、きっと安心するんだろうな。
そんなことを考えてしまって、俺はすぐに目を逸らした。
羨ましい、なんて。
今はそんなことを思っている場合じゃない。
「ミラ……ここで眠るのは駄目だ。体に障ると言っただろう?」
オルドさんが、ゆっくりとミラさんに近づく。
俺たちも、その後ろに続いた。
その瞬間、ミラさんの表情が一変する。
「来ないで!!」
俺たちを睨みつけ、体をがたがたと震わせている。
「この子を私から引き離すつもりね!」
怯える瞳を見て、思わず一歩近づいた。
あの優しい顔を、もう一度だけ見たい。
「ち、違うんです……! 俺たちは……」
「やめて! こないで!」
ミラさんは子供を抱いたまま、否定するように首を振る。
それを見て、胸が抉れた。
拒絶されたことに、勝手に傷ついている。
馬鹿だ。
あの人は、俺の母親じゃない。
子供を抱きしめるミラさんの腕に、さらに力が籠る。
声は全然届かない。
ミラさんの目は涙に濡れ、叫ぶ口元は震えていた。
「この子が、やっと戻ってきてくれたの……!」
「今度こそ……私が絶対に守らないと……!」
思い詰めたような表情。
怯えている。
子供をもう一度、失うことに。
力なく抱かれている子供の体が、荷物のように揺れた。
その姿が痛々しくて、手をぎゅっと握りしめる。
「やめるんだ! ……この方々は、その子を心配して……」
「何も心配なんてない! この子には私が必要なのよ!」
金切り声を聞きながら、ヴァルガが低く息を吐いた。
「……埒が明かないな」
ヴァルガはつかつかとミラさんに歩み寄り、ぐっと腕を掴んだ。
「いやあ!」
ミラさんが半狂乱で叫ぶ。
暴れるミラさんの腕の中で、さらに子供が揺れた。
その時。
子供の首が、意思を持ったように止まった。
ぎくしゃくと、不自然な動きで顔を上げる。
え──?
「ヴァルガさん! すみません! これ以上は!」
オルドさんが、ヴァルガの腕に取り縋る。
俺ははっとして、オルドさんに加勢した。
「ヴァルガ、やめろ!」
「止めるな、晴斗」
「だめだ。やめてくれ」
俺は、ミラさんからヴァルガの腕を引き離した。
ヴァルガは結局、俺に対してほとんど抵抗しなかった。
俺は、ヴァルガの腕を掴みながら、横目で子供の方を見る。
持ち上げられていた首は、再び力なく倒れ、ミラさんに強く抱きしめられていた。
そのまま何も言わず、ヴァルガを納屋の外まで連れて行く。
夜の澄んだ空気を大きく吸い込んで、ようやく掴んでいた腕を離した。
「晴斗、子供が心配だ。こんなに近づいても気配がない。あれではまるで──」
「……わかってる。でも、今あの子と引き離せば、ミラさんが壊れてしまう」
ヴァルガは何か言いかけた。
けれど、結局口を閉ざす。
それでも、納屋の方から視線を外さない。
納屋の中では、啜り泣くミラさんを宥めるオルドさんの声が聞こえていた。
俺は再びヴァルガの腕を取って、宿へ向かう。
一刻も早く、ヴァルガをここから離したかった。
だって──
あの時、俺は気づいてしまった。
意識のない子供の顔が、ヴァルガの方を向こうとしていたことに。




