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第三十二話 愛してるの、その先

野営地には、二つのテントを張っていた。


一つは奏とレオン。

もう一つは、俺とヴァルガが使っている。


奏は最後まで文句を言っていたけれど、ヴァルガは頑として譲らなかった。

俺と同じテントで寝る、と。


そのテントの入り口の布を、そっと持ち上げる。


中を覗きながら一歩入ると、ヴァルガは俺に背を向けて、地面に座っていた。


気配でわかっているはずなのに、こちらを向かない。


俺は小さく息をついて、丸まった背中を抱きしめた。


過去は消えない。


ヴァルガと、まだ出会っていなかった頃のことに、何を言われてもどうしようもない。


でも、無遠慮に口に出していいことじゃなかった。


「ヴァルガ、ごめんな」


そう呟くと、ヴァルガは俺の手を握った。


「……謝ることじゃない。晴斗が悪いんじゃないって、わかってる」


低い声が、少しだけ掠れていた。


「ただ、晴斗が愛した者がいたことを……想像すると、苦しくて……」


「……うん」


抱きしめる腕に力を込めた。


「ヴァルガ……」


名前を呼ぶと、握られた手に少しだけ力がこもった。


俺はその手をほどかないまま、顔を寄せる。


そして、キスをした。


「……っ」


ヴァルガは驚いたように息を詰めた。

でも、拒まなかった。


固まったように、されるがままになっているのが少しおかしくて、唇を離す。


「晴斗……?」


「……お前って、いつも俺からすると驚いてる」


「……晴斗がしてくれることが、いまだに夢みたいなんだ……」


「最初は拒絶されていたからな……」


そう言って、ヴァルガは苦く笑う。


確かに、最初は考えられなかった。

男を好きになるなんて。


それなのに、今は。


「……いつから、こんなに好きになったんだろう……」


「晴斗……」


「ミレグにいた時もさ、ずっとお前のこと考えてた」


「最初は、ヴァルガが心配してるって思って。帰らなきゃって」


「……でも、そのうち、俺が会いたかっただけだって、気づいた」


俺はヴァルガと向き合うように、少しだけ体をずらした。


「なあ、今の俺は、お前しか見えない。……それじゃ、だめか?」


そう言うと、ヴァルガは苦しそうに顔を歪めて、俺を抱き返した。


「……だめなわけない……」


掠れた声だった。


「……なのに……」


ヴァルガは突然、片手で自分の額を強く打った。


「えっ、ちょっ……」


鈍い音に、ぎょっとする。

もう一度振り上げられた腕に、俺は慌てて縋り付いた。


「ヴァルガ!」


「……どうしても、頭の中で浮かんでしまう」


ヴァルガは、赤い目を伏せたまま言った。


「お前が、俺の知らない誰かをどんなふうに愛したのか。そればかりが、勝手に……」


「俺は……大馬鹿者だ……」


頼りない声だった。


いつものように強くて、俺を守ってくれる魔王とは思えないほど。

ひどく傷ついた顔をしている。


その姿に、胸の奥が痛くなった。


俺はヴァルガの頬に手を添えて、自分の方を向かせた。


震えそうになる声を、必死に抑える。


「ヴァルガ、愛してる」


赤い瞳が、大きく揺れた。


驚いている顔を前に、照れ隠しで少しだけ笑う。


「前は、気恥ずかしくて言えなかった」


「でも、言わないときっと後悔するって思ったんだ」


ミレグで、思い知った。


死んだら、何も伝えられない。


どれだけ大事に思っていても。

どれだけ一緒にいたかったとしても。


言葉にしなければ、届かないまま一瞬で終わってしまうこともある。


「愛してる」


ちゃんと目を見て、もう一度言った。


「……今まで、誰にも言ったことない。お前だけだ」


「晴斗……!」


ヴァルガが、覆い被さるように深く口付けてきた。


息もできないくらいの激しさに、めまいがする。

背中に回された手に、俺を求めるように力が籠った。


キスの合間に見える表情が、俺を欲しいと訴えていた。

強く抱きしめられて、胸の奥が熱くなる。


唇の隙間から声が漏れそうになって、はっとした。


「お、おい。ヴァルガ……ここ、テント……」


ヴァルガは、切なそうな瞳でこちらを見つめた。


「嫌、か……?」


その言い方は、ずるいだろ。


「……嫌じゃ、ない……」


小さく答えると、ヴァルガの肩が震えた。


次の瞬間、再び口を塞がれる。


キスの激しさとは裏腹に、優しく慎重に寝床へ倒された。


もう、諦めるしかなかった。


俺だって、止めたくないんだから。


***


首筋に熱い息がかかる。


それだけで、息が乱れた。


シャツのボタンを外され、胸元にヴァルガの吐息が触れる。

ヴァルガの喉元で、大きく音が鳴った。


髪の間から覗く赤い目に、ぞくりとする。


余裕のない顔。

荒い息遣い。

俺だけを見つめる、激しい眼差し。


その熱に呑まれそうになって、何も言えなくなる。


「待っ……ヴァルガ……声、出る……」


ここはテントだ。

すぐ近くには奏とレオンがいる。


そう分かっているのに、俺の声に煽られたように、ヴァルガの腕に力がこもった。


逃がさないとでも言うように抱きしめられる。

でも、痛くはない。


苦しいくらい求められているのに、怖いとは思わなかった。


「晴斗……」


低く囁かれて、体が震えた。


「すまない……」


ヴァルガは、はあ、と熱い息を漏らした。


「気をつけたいのに、余裕がない……。お前を、優しく扱わなければならないのに……」


「……お前が、欲しくてたまらない……」


切なそうに言われて、胸の奥がきゅっと苦しくなる。


いつも、過保護すぎるくらい俺のことを大事にして。

でも、こんなに俺のことを欲しいと思っていたんだ。


そう思うと、どうしようもなく体が熱くなっていった。


「優しくしなくていい、から……」


自分の声が、驚くほど掠れていた。


俺はヴァルガの服を掴んで、自分の方へ引き寄せる。


「俺……大丈夫だから……」


ヴァルガの赤い瞳が、大きく揺れた。


「晴斗……」


「俺もお前が、欲しい……」


言った瞬間、恥ずかしくて、死にたくなった。

それでも目は逸らさない。


逸らしたくなかった。


でもそれ以上は言えなくて、俺はヴァルガに深く口づけた。


何度も角度を変えて、息もできないくらいに唇を重ねる。


そのうち、何が恥ずかしいのかも、何を怖がっていたのかも、少しずつわからなくなっていった。


「傷つけないように、しないとな……」


耳元で囁かれた声に、胸が震える。


そうだ。


ヴァルガは俺を、傷つけない。


怖かった気持ちが、少しずつほどけていく。


ヴァルガの息が、俺の耳元で乱れている。

抱きしめられた腕の強さで、どれだけ我慢しているのかわかった。


「……もう、平気」


そう言うと、ヴァルガが息を呑んだ。


それから、確かめるように、もう一度俺の名前を呼ぶ。


「晴斗……」


「愛してる……」


荒い息の合間に囁かれた言葉が、耳元で溶ける。


言われるままに、滲んだ視界の中で赤い瞳を見た。


視線が絡んで離れない。


それだけで、もうだめだった。


「晴斗、愛してる……」


もう一度囁かれた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


俺はヴァルガの首に縋りついたまま、何も考えられなくなる。


ただ、その腕の中で、何度も名前を呼んだ。


***


目が覚めると、やけにすっきりしていた。


最近はずっと嫌な夢を見ていたのに、今日は見なかった。

起きると内容は覚えていない。

それでも、すごく嫌な夢だったことだけは、いつも体に残っていた。


でも、今日はそれがない。


隣では、ヴァルガが安らかな顔をして眠っている。

起こさないようにそっと起き上がろうとして、


「い゛っ!」


腰が悲鳴を上げた。


あまりの痛さに悶絶していると、ヴァルガがぱちりと目を覚ます。


「晴斗!?」


ヴァルガは俺が腰を押さえているのを見て、はっとした。


「……いてぇ……そうだ、馬で腰やってたんだ……」


……なのに、あんなことするから。


思い出して、顔が一気に熱くなる。


くそ、腰だけじゃなくて、体のあちこちが変だ!


心配そうに顔を覗き込んでくるヴァルガから、恥ずかしくて目を逸らした。


ヴァルガの手が、そっと俺の腰に触れる。

そのまま、労わるように揉みほぐし始めた。


「すまない、晴斗……考えが及ばなかった……」


「体を労るのを忘れていた……お前と繋がれるのが嬉しくて……」


しょんぼりとするヴァルガに、犬耳みたいなものが見えてしまって、俺は痛みも忘れて笑った。


「あははっ」


昨日はあんなに色っぽくて、頼れる感じだったのに。


もう、戻ってしまった。


「晴斗?」


わけがわからないというように眉根を寄せるヴァルガの頬に、俺はキスをした。


声を出して笑ったのなんて、いつぶりだろう。


俺の恋人は、すごく可愛い。


そう思ったら、胸の奥がくすぐったくなった。


ヴァルガに寄りかかって、肩に頭をことんと乗せる。

そのまま顔を上げて微笑むと、赤い瞳が驚いたように瞬いた。


「また、薬塗ってくれよ。そしたら、治るから」


俺を見下ろしていたヴァルガは、なぜか耳まで真っ赤になった。


「……魔性……」


「えっ?」


「晴斗……お前は危ない。レオンの言ったことは、あながち間違っていなかった」


そう言って、力の限り抱きしめてくる。


「ぐっ!」


「だめだ……! 前の恋人たちにもこんなことをしていたのかと思うと、どうにかなってしまいそうだ!」


「もーいいだろ、それは!」


グリグリと頭をこすりつけてくるヴァルガを、俺は笑いながら宥めた。


***


顔を洗おうとテントの外に出た。

ヴァルガは俺の腰に薬を塗った後、塗り薬をたくさん作っておくと言って、いち早く薬草を摘みに行った。


日差しがやけに眩しくて、目を細めたその時、向かいに立っていた奏と目が合った。


「あ……おはよ……」


俺が言い終わる前に、奏は俺から顔を背けた。


「……おはよう」


かろうじて返ってきた声は、か細く震えていた。


俺は額に手を当てる。


やっぱり、聞こえてたよな……


昨日の夜は、途中から声を抑えることも忘れてた。


どんな声を出していたかなんて、思い出したくもない。


「あの……ごめん。昨日は騒がしくて……」


なんだよ、騒がしいって。


言ってる側から恥ずかしくなって、叫び出したくなった。


「……何も聞いてない。レオンが、火の番をしようって。そうした方がいいって言われて」


「そ、そっか……」


ものすごく、ほっとしてしまった。


聞かれていたら、永遠に心の傷になっていたと思う。

お互いに。


レオンにも気を遣わせてしまった。

あとでお礼を言っておこう。


奏はこちらにゆっくりと向き直る。

それでも、視線は合わないままだった。


「あの……晴斗……本当にあいつと……」


「……好きなんだ……ごめん」


俺がそう言うと、奏は傷ついた顔をした。


でも、ここで言葉を濁したくなかった。

奏に期待させたくない。


「……番って聞いて、わかったようでわかってなかった。晴斗が、誰かとそんなふうになるなんて想像できなくて……」


「いや、彼女いたんだもんな……三人も……」


奏は独り言のように呟いた。

頭の整理がつかないというように、ゆっくりと首を振っている。


悩ませているのが申し訳なくて、思わず口を挟んだ。


「……あのさ、だからって、外でいちゃついたのは反省してる……もうしないから……」


「晴斗」


「うん……?」


「好きでいるのは、許してくれる?」


「えっ……」


「二人が両思いなのはもう、わかった。でも、それがわかっても、諦めるって……思えなくて」


奏は一度、唇を噛んだ。


「それに、俺は帰るために……晴斗を帰すために……魔王を殺す。それは変わらないから……」


俺を見つめる奏の顔は、揺らがなかった。

その眼差しに、今は負けたくなくて見つめ返す。


「……そんなことさせない。でも」


俺は息を吸った。


「お前が帰る方法だけは、探す」


その言葉に、奏ははっと顔を上げた。


「お前は、苦しみから解放されていいはずだから。ここから、帰るべきだ」


奏の顔が、悲しそうに歪んだ。


「……元の世界に帰ったって、人を殺した感触が消えるわけじゃない」


「それに、晴斗がいなかったら、意味ないよ……」


「なんで、俺にそこまで……」


奏は俺と違って、なんでも持っていた。


仲の良い優しい両親。

友人たち。

将来の不安も孤独もなく、暮らしてきたはずなのに。


俺なんかに、なんでそんなに執着するんだろう。


「……晴斗が、優しいから」


奏は、泣きそうな顔で笑った。


「好きなやつを殺すって言っても、晴斗は俺を突き放せない」


「俺がしてきたことを考えて、何も言えなくなってるの、わかってる」


「そういうところが、すごく優しくて……好き」


「奏……」


想いに応えられないから、何を言えばいいのかわからなかった。


奏はそれ以上続けず、背を向けた。

少し離れた場所に置いてあった荷物を拾い上げる。


「顔、洗ってきたら。あいつが戻ってくる前に」


「……うん」


俺が頷くと、奏はちらりとこちらを見た。


「あと」


「……?」


「腰、痛そうだから、今日は無理しないで」


「なっ……!」


一気に顔が熱くなった。


「聞いてないんじゃなかったのかよ!」


「聞いてない。でも、見ればわかるよ。歩き方とか」


奏はほんの少しだけ笑った。


穴があったら入りたい……


「あいつ……ヴァルガが嫌になったら、いつでも俺のところに来ていいから」


「ずっと、待ってる」


そう言って、奏はもう一度背を向けて、ゆっくり歩いていった。


幼馴染だった奏から、あんなことを言われるなんて、今でもうまく馴染めない。


大切な友達だから、できることなら傷つけたくない。

望むものを、何か一つでも返してやりたい。


でも、ヴァルガのことに関してだけは、譲れない。


たとえヴァルガを失って、元の世界に帰ることになったとしても。

俺はきっと、ずっとヴァルガを想って生きていく。


もう、俺は自分の想いに気づいてしまったから。


「晴斗」


呼ばれて振り向くと、薬草をたくさん手に抱えたヴァルガがこちらに歩いてきていた。


「まだ横になっていなくていいのか? 腰の具合は?」


そう言って、そばに来るなり抱き寄せてくる。


薬草の青い匂いがした。

体温が、静かに伝わってくる。


「……なあ、もう少しこのままでいてくれ」


考えないで言ってしまって、一人で苦笑いした。


さっき奏に、外でいちゃつかないって言ったばかりなのに。


ヴァルガは、体を預けるようにした俺を見て、目を瞬いた。

それから、目を細めて笑う。


「お前の望む通りに」


抱きしめる腕に力が籠ったのを感じて、胸に温かいものが広がっていく。


ずっと、こうしていたい。


そう思いながら、広い背中に手を回した。




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