第二十六話 天秤
奏の呼吸が整ってきたのを感じた。
でも、奏は何も答えない。
その代わりに、抱きしめる手に一瞬だけ力が籠る。
そして静かに体を離した。
「……ここはまだ危ない。街の外に出よう」
立ち上がって、こちらに手を差し伸べる。
その手を、俺は掴むことができなかった。
奏から目を離せない。
綺麗な形の頬が汗と血に塗れ、髪の毛が張り付いている。
優しく笑っているはずなのに、それがわからなかった。
本当に、こいつはあの奏なのか。
元の世界の奏は、虫も怖がって殺せないような奴だった。
それなのに。
視界の隅に、ずっと男の死体が映っている。
奏は地面の血溜まりを踏みつけても、気にする様子はない。
もしかしたら、こいつは偽物かもしれない。
異世界なんだから、そんな魔法があってもおかしくはない。
そう思い込もうとするのに、できなかった。
何も答えない俺を見て、奏の唇がわずかに震えた。
そのまま片手で顔を覆う。
「……そんな目で、見るなよ」
掠れた声。
手のひらの隙間から、揺れる瞳が覗く。
「……どうすればよかった? 晴斗を助けるためだよ」
「だからって……」
だからって、こんなに──
あたりには死体が散らばっている。
ひどく、血生臭い。
見るだけで吐き気が込み上げてくる惨状。
それをものともせず踏みつける、幼馴染。
奏は、死に慣れすぎていた。
***
王の間には、重い沈黙が落ちていた。
その扉が荒々しく開かれる。
足早に入ってきたのはリリスだった。
「魔王様!」
広間は誰もいない。
リリスの硬い靴の音だけが響き渡る。
「……また晴斗様のところか」
舌打ちしそうになりながら踵を返す。
その直後──
「……なんだ」
背後から声が聞こえた。
振り向くと、すぐそばにヴァルガが立っている。
「……!」
気配はなかった。
なのに、こんなにそばまで近づいているなんて。
じっとこちらを見つめる赤い瞳に、ぞくりとする。
ヴァルガは、ひどく荒んでいた。
身なりは何も変わらないのに、纏う空気が以前とはあまりにも違う。
番の不在が、ここまで影響するのか。
何も言わないリリスに、ヴァルガは少しだけ期待を込めた表情になる。
「……まさか晴斗が、見つかったのか?」
その声にはっとする。
「いえ……それとは別ですわ」
「……そう、か」
目に見えて落胆する王に、罪悪感が募る。
リリスは気を取り直して、小さく咳払いをした。
「ミレグの外壁が崩されました」
ヴァルガは眉間に皺を寄せる。
「……なに?」
以前、人間に襲撃された事件から、同胞を守るために作った壁。
それには自分の力を込めていた。
簡単には壊せないはずだ。
「報告では、黒い化け物が崩したと。もしかしたら……」
黒濁。
しかし、あれは宝珠にしか向かわないはず。
「わけがわからないな……」
以前なら、民の危機に機敏に反応したはずだ。
なのに今は、わかっているのに心が上の空だった。
黒濁のことも、民のことも考えなければならないのに、思考がまとまらない。
ヴァルガは息を吐いた。
「黒濁なら厄介だ。すぐ救助を送れ」
「今、スラ様が動いていますわ。私もそちらに向かうつもりです」
「ああ……頼む」
ヴァルガは窓に向かう。
その足取りはひどく重かった。
ガラスに寄りかかるように空を見上げ、何を思うのか。
リリスはすぐに察した。
ヴァルガとは、弟のように一緒に育ってきた。
なのに、あんな表情は見たことがない。
焦がれている。
心配で堪らないという顔。
掛ける言葉が、見つからない。
「……では、出立の準備をしてきます。また、何かあればすぐに報告に来ますわ」
「……わかった」
ヴァルガはこちらを見ずに答えた。
リリスは今度こそ扉に向かう。
その時──
ヴァルガが見つめる空の向こうから、紫色の光が飛んでくるのが見えた。
「あれは……なんだ?」
赤い瞳を細める。
リリスも空を見つめた。
「鳥……?」
ものすごい速さだった。
よく見ると、足に紙が巻き付いている。
窓を開けると、吸い寄せられるように窓枠に止まった。
巻き起こった風が髪を揺らす。
リリスが呟く。
「この大きな鳥、どこかで……」
その鳥はヴァルガを見つめていた。
少しだけ喉を鳴らして、鉤爪で窓枠を叩く。
催促されたようで、ヴァルガは鳥の足の手紙を解いた。
開いたそれを見つめ、息が止まった。
「……これは……」
紙を持つ手が震えている。
リリスは紙を覗き込む。
そこには、拙い字。
「“ヴァルガ”……」
「どこに……」
「どこにいる……!」
場所の書かれていない文章に、ヴァルガは紙をひっくり返す。
そこには、また同じ筆跡で“カレー”。
文字の隣には、見覚えのある顔の絵。
「はる、と……」
涙が溢れる。
晴斗が生きていた証を、見つけたような気がした。
リリスが何かに気づく。
「ここに、『ミレグ市場にて』と……昨日の日付ですわ!」
それを聞いたヴァルガは、開いた窓を飛び越えようと手をかけた。
鳥が大きな羽音を立て、飛び去った。
「魔王様!」
リリスは慌てて取りすがる。
「離せ! 晴斗を迎えに行く……!」
「結界は!? 宝珠は!? この城の民はどうなるのです?」
その言葉に、ヴァルガの動きが止まる。
「……そうだ」
ぽつりと呟く。
「あれのせいで、俺は……」
そう言い残し、足早に扉へ向かう。
長い銀の髪から覗いたその横顔に、リリスの体が震えた。
「何……何するつもり?」
「ヴァルガ!!」
即位してから呼ぶことのなかった名前を、リリスは口にした。
それでも、魔王は止まらない。
リリスは後を追うしかなかった。
***
向かってくる男たちの首が飛んでいく。
手を引かれながら、それを見ていることしかできなかった。
人数が多すぎる。
隠れて移動するには時間がかかりすぎる。
きっと、これしかない。
でも──
奏と俺の周りに、たくさんの首が落ちる。
それを見て、何度も足が止まりそうになった。
その度に奏は強く腕を引いて、無理やり前へ進ませた。
奏の息も荒い。
手加減なんてできないんだろう。
わかってる。
……わかってるんだ。
「もうすぐだから、晴斗」
振り向きもしないまま、奏が声をかけてくる。
目をぎゅっと瞑った。
何も見たくなかった。
そのせいで足がもつれて、俺は派手に転んだ。
繋いでいた手が引かれて、膝が地面と擦れて血が滲む。
「晴斗!」
奏が抱き起こす。
「……もう、やだ……」
呟いた言葉に、奏は怪訝な顔をした。
「死ぬのも、殺すのも……もう……」
奏はじっと俺を見つめた。
「……そんなこと言ってる間に、簡単に死ぬんだよ」
そう言って、剣を振りかぶる。
思わず目を瞑ると、金属を弾く音がした。
恐る恐る目を開くと、すぐそばに矢が落ちている。
「……ほら」
奏は矢を拾い、何か呟く。
矢尻が光を纏い、それを遠くに投げつける。
どこかから短い叫び声が聞こえて、やがて静かになった。
次の瞬間、矢が俺の頬を掠め、すぐそばに刺さった。
「ひっ……」
思わず身を縮める。
「くそっ キリがない」
奏は俺を立ち上がらせ、そのまま手を引いて走り出した。
擦りむいた足が痛み、思うように動かない。
矢が、俺たちを追いかけるように地面へ突き刺さる。
奏は舌打ちをしながら、転がっていた木の板を持ち上げた。
「身を低くして、これに隠れて」
「奏は……!」
次の瞬間、
「──っ」
奏が剣を振り抜く。
横から飛び出してきた男の首が落ち、血が跳ねた。
さらに前方から、大きな斧を振り上げた大柄な男が走ってくる。
奏は一歩前に出た。
「そこを動かないで」
そう言い残して斧の男に向かう。
聖剣と斧がぶつかり、大きな鈍い音がした。
斧の刃が一瞬で刃こぼれする。
聖剣は鋭く美しいままだった。
それでも大柄の男は構わず振りかぶる。
奏はそれを簡単に弾き飛ばし、唖然としている男の膝を駆け上がって空高く跳んだ。
空中から一気に頭を突き刺す。
顎から突き出た刃が即座に引き抜かれ、ゆっくりと男が倒れ込んだ。
砂煙が舞う。
奏は苦しそうに、荒く肩を上下させている。
少しだけ板をどかし、奏の様子を伺う。
でも、その直後だった。
背後で足音がした。
振り向いた時にはもう遅かった。
剣が振り上げられている。
「晴斗!!」
駆ける足音がする。
でも、それはひどく遠く感じた。
体が動かない。
──その刃が、突然弾かれた。
金属がぶつかる音が響いて、剣が高く舞って地面に突き刺さる。
驚いている男の体が横に吹き飛んだ。
建物の壁にぶつかり、瓦礫と共に崩れ落ちる。
「前も、こんなことがあったな」
聞き覚えのある声が、すぐそばで聞こえた。
「レオン!」
レオンは剣を軽く振って、こちらを見る。
「家にいないから驚いた。奏様と合流できていたのか」
ふう、と笑う顔に緊張が緩む。
助かった、と何故かそう思ってしまった。
奏と一緒にいたはずなのに。
「レオン……!? なんでここに!?」
駆けつけてきた奏も、レオンの姿に驚いている。
そういえば、レオンが魔族のスパイだって奏は知ってるのか?
俺がレオンを盗み見ると、それに気づいて軽く片目を閉じた。
「奏様と別れてから、ミレグに滞在していたんですよ。何かあったらすぐ駆けつけられるように、リヴェルトには戻らなかったんです」
飄々とした笑顔だった。
どうやら芝居をしているらしい。
俺もそれに合わせることにした。
「さっき偶然会ったんだよ。匿ってもらってたんだけど、離れちゃって」
「そうか……晴斗を助けてくれてありがとう、レオン」
奏は心底ほっとしているようだった。
レオンを見ている時の奏は、なぜか安心しているような顔をしていた。
レオンは笑いながら俺を見る。
「晴斗、よかったな。奏様がいたから、命があったようなもんだ」
その瞳は、なんだか探るように感じた。
俺が何を思っているのか、確かめているみたいだった。
「……あ、ああ」
きっと、俺一人だけが綺麗事を考えてる。
こんな戦争みたいな場所で、誰も死なないように、なんて。
奏がいなかったら、死んでいたのは俺だったのに。
そう思った瞬間、奏の視線とぶつかる。
何故か責められているような気持ちになって、鼓動が早くなった。
思わずシャツの胸元をぎゅっと掴む。
でも、俺は──
目の前で人が死んだの、初めて見たんだ。
その時、足元の地面に矢が刺さる。
レオンは再び飛んできた矢を軽く刃で弾きながら、奏の背中を叩いた。
「ほら、さっさと行きましょう。まだ敵も多い」
「晴斗、歩けるか? おぶってもいいぞ」
足の怪我を示しながら、レオンが言う。
「いや、大丈夫。自分で行く」
これ以上、お荷物にはなりたくなかった。
足を庇いながら進もうとすると、奏に手を握られた。
「晴斗は俺が守る」
奏の瞳には暗い光が宿り、目の下には疲労の影が落ちていた。
俺は思わず顔を背けた。
ありがたかった。
体も本調子じゃないのに、俺を守ってくれる。
でも、俺を守ることは──
誰かを、殺すことだ。
奏の手を汚して、俺が殺しているのと変わらない。
俺は視線を合わせることもできないまま、それでも手を離さなかった。




