第二十三話 侵入
俺はそのまま、警備隊に報告しようと詰め所に向かった。
外壁の穴の周りにも警備隊はたくさんいたが、忙しなく動き回り、とても聞いてもらえる雰囲気ではなかった。
そこは、街の門のすぐ内側にあった。
扉を開けると、中は思っていたよりずっと慌ただしい。
外壁に開いた穴のことで、隊員たちが出入りしている。
机の上には書類が積まれ、誰かが地図を広げて何かを指さしていた。
その中の一人が、俺に気づく。
鋭いツノが生えている大柄な魔族だった。
「どうした?」
威圧感に怖気付きそうになる。
少し迷ってから口を開いた。
「さっき外壁のそばで、変なものを見たんです」
隊員の動きが止まる。
他の隊員も集まってくる。
「変なもの?」
「黒い塊みたいな……口が裂けていて」
説明しながら、自分の声が少し震えているのが分かった。
隊員たちは顔を見合わせる。
「それで?」
息を吸う。
「サイズは全然小さかったけど、黒濁に似てて……」
沈黙が落ちた。
「……何だそれは?」
「えっ」
思わず顔を上げる。
「黒濁です。魔王の森に出る──」
「森?」
話を聞いていた隊員たちの視線が一斉に集まる。
反応がおかしい。
黒濁って、皆知ってるものじゃないのか?
城では子供から大人まで、皆知っていた。
避難の練習までしていたはずなのに。
角の生えている魔族が、ゆっくりと口を開く。
「黒濁というものは知らない」
「魔王の森のことも、一介の警備兵が知るようなことじゃない」
空気が変わった。
「仮に森にそんなものが出るとしてだ」
低い声が続く。
「なぜ人間のお前が、そのことを知っている?」
言葉に詰まる。
そういえば──
魔王城に、人間は一人もいなかった。
背中に冷たいものが走る。
黒濁もどきの死体も、もう溶けてしまっている。
証明なんて、何もない。
「あ、あの……」
突き刺さる視線に、思わず一歩下がる。
「怪しいな」
無遠慮に腕を掴まれる。
思わず小さく声が漏れた。
「やめとけ」
年配の魔族が口を開く。
机の奥で書類を見ていたその魔族が、面倒そうに顔を上げる。
「どうせ悪戯だろう。それに今は、ただでさえ色々重なって忙しいんだ」
「外壁の穴も、武装集団の件もある。余計な手間を増やすな」
年配の魔族は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。
「おまけに魔王様の番が行方不明。……まったく、年寄りをゆっくり寝かせてくれもしない」
その言葉に、一瞬息が止まる。
もしかして──
ヴァルガが、探してくれてる?
魔王の番……って、俺だよな?
「あの、番って……」
「人間のお前には関係ない。今は余計な話を聞いている暇はない」
掴まれたまま、入り口へ引きずられていく。
「ちょっ……!」
そのとき、背後で隊員たちの声が耳に届いた。
「魔王様の番の話は……」
「後だ、後。街のことで手一杯で詳細も追えてない」
「それより穴の件だ。徹底的に調べろ」
入り口の扉が開かれ、乱暴に放り出された。
バタン、と閉まる音。
いつのまにか──空が白み始めていた。
ここは魔族の街だ。
魔王の番だと名乗れば、城に連絡が行ったのかもしれない。
「……え……?」
あまりのことに、呆然と立ち尽くす。
なんで考え付かなかったんだろう。
魔王の番って言われてはいたけど、自覚なんてなかった。
ヴァルガと俺は、ただの恋人同士だと思ってた。
街に連絡がいくような──
そんな大げさなものだなんて、思いもしなかった。
「開けてください!」
扉を何度も叩く。
反応がない。
手の皮が擦りむけて、じん、と痛む。
それでも、叩くのをやめなかった。
「ヴァルガに、伝えてくれ……!」
俺は、ここにいるって。
「あいつ、きっと……心配してるんだよっ……!」
ダン!
拳を激しく叩きつける。
手に血が滲んだ。
それでも返事はなかった。
扉の前に、ずるずるとしゃがみ込む。
番だってわかっても、すぐには街から出られなかったと思う。
でも、すぐに連絡がいってたなら。
ヴァルガはきっと、安心したはずなのに。
「バカすぎだろ……俺……」
その時──
「晴斗……?」
聞き覚えのある声に、はっとする。
振り返るとそこに、
「あ……」
長身の男が立っていた。
困惑した表情で。
「レ、レオン……?」
思わず立ち上がる。
「……なんで、お前がここに?奏様は?」
駆け寄って服にしがみつく。
「よかった……!会えたっ……!」
目頭が熱くなった。
見知った人に会えたっていうのもある。
でも、それより──
「ヴァルガに伝えてくれ!俺はここにいるって!」
されるがままになっていたレオンは、ようやく俺の手を引き剥がす。
「……待て。状況が飲み込めない。お前はリヴェルトに連れて行かれたんじゃ……」
「奏が徒歩はきついって言って。多分迷ってもいたんだと思う」
「この街で城に戻る方法を探してたんだ」
レオンは一瞬息を呑んで、それから小さく笑った。
「……完全に読み間違えだ。奏様の方向音痴を甘くみていた。ここはリヴェルトとは、ほぼ反対だぞ」
全然知らなかった。
かなりリヴェルトの方に来てしまったんだと思ってた。
「あれ? じゃあなんでレオンはここに?」
俺を探しに来たんじゃないのか?
レオンは、少しだけ黙ったまま俺を見る。
「……まあ、私用でな。ここに寄ってからすぐリヴェルトに向かう予定だった」
「そうなんだ……。その、私用は終わったのか?」
「……いや、まだだ」
「じゃあ、その用早く終わらせて城に帰ろう」
「さっき、黒濁みたいなやつを見かけて……」
レオンの眉がぴくりと動く。
「あいつがきっと、壁に穴を開けて──」
その時、人々の叫び声が通りから聞こえた。
そして、騒がしい足音が一斉にこちらへ近づいてくる。
「な、なんだ?」
レオンは即座に駆け出す。
俺も慌ててその後を追った。
「外壁が!」
「化け物がでた!」
その声に足を止めかけた。
化け物って、黒濁?
また、出たのか。
逃げ出したい衝動に駆られる。
でもレオンは止まらない。
なんとか恐れを振り払い、ついていった。
通りを抜けると、穴が開いた外壁が見えた。
遠目からでもわかる。
穴が増えている。
穴の周りは黒く濡れていて、日が昇り始めた今は、それがはっきりと見えた。
黒い粘液が石を覆い、泡立つように侵食している。
その穴の縁がじわじわと崩れ、粘ついた黒い液が下へと落ちていた。
それを目で追うと、地面にいくつもの染みができているのが見える。
新しくこの場に駆けつけた足音が、次々と響く。
その中の、誰かの声が震えた。
「……なんだ、あれ」
視線のその先──
穴の中から、何かが這い出てきた。
黒い塊。
裂けた口。
歪んだ形。
「やっぱり、黒濁……」
思わず呟く。
だが、さっきとは違う。
一匹じゃない。
二匹、三匹──いや、もっといる。
新しく壁に穴が開いていき、
その穴という穴から、次々と這い出してくる。
そしてそのまま、地面に落ちて動かなくなるものもいた。
身体の半分だけ外に出たまま、崩れていくものもある。
壁に張り付いたまま溶けていくものもあった。
そのうちの一つが、俺たちの前までよろよろと進んでくる。
耳をつんざくような悲鳴をあげた。
それは恐ろしさというより──
胸の奥を引き裂かれるような声だった。
声を絞り出すようにして、そのまま動かなくなった。
「……違う」
隣でレオンが低く言った。
レオンは膝をつき、躊躇うことなく溶けかけた小さな死体をひっくり返した。
「これは、森に放たれる黒濁じゃない」
放たれる。
その言い方に引っかかる。
黒い粘液の中に、つぎはぎされたような体の一部が見えた。
黒濁の手らしきもの。
指の先に、短い黒い爪があった。
それは──とても、小さい手だった。
なぜか、全身が泡立つ。
理由がわからない不快感が、体を震わせた。
「……一体、これって」
壁の向こうから大きな音が鳴る。
何か重いもので壁を押すような鈍い音。
レオンが壁を見上げる。
その視線を追った瞬間、
外壁の一角が、音を立てて崩れる。
その向こう側で──地響きが鳴った。
砂煙と共に、馬が飛び出してきた。
「──人間だ!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、馬上の男が剣を振った。
近くにいた魔族の首が、宙に跳ねた。
血が石畳に叩きつけられる。
一瞬、誰も動かなかった。
それが合図みたいだった。
穴の向こうから、次々と馬に乗った男たちがなだれ込んでくる。
「逃げろ!」
「中に入れさせるな!」
叫び声が重なる。
剣が振り下ろされ、悲鳴が上がる。
黒濁の死骸を踏み越えて、人間たちが街の中へ侵入した。




