第二十一話 待つ者のいる場所
主のいない部屋は、それでも綺麗に整えられていた。
早朝の淡い光が、机の上に静かに落ちている。
しんとした空気の中に、乾いた靴音だけが響く。
晴斗がいつも座っていた椅子が、机の前に残されている。
温もりを探すように、ヴァルガはその背にそっと触れた。
冷たい感触に、ただそのまましばらく手を離せなかった。
目を落とした先に、机の上の絵本があった。
字の読めない晴斗に、ヴァルガが贈ったものだった。
絵本の下から、紙の切れ端が覗いている。
本を持ち上げると、そこには何枚もの紙切れが、無造作に押し込められていた。
その一枚が、ふわりと床に落ちる。
拾い上げると、そこにはぐねぐねと奇怪な模様。
それを見て、ヴァルガは少し微笑んだ。
「まだ、練習していたのか……」
前に、女になっていた時に教えていた、この世界の文字。
“ヴァルガ”
あの時より、少しだけ上手くなっていた。
笑みの浮かんだ口元が、歪む。
紙を握る指先に、思わず力がこもる。
今すぐ迎えに行きたい衝動を、かろうじて押し殺した。
まだ、晴斗の手がかりは何もない。
報告も届かない。
最近、黒濁の襲撃が続いている。
結界が壊されれば、すぐに攻め入られる。
離れるわけにはいかない。
それでも、少しくらいならと城の周辺を探し回る日々。
なのに、痕跡すら見つからない。
「晴斗……」
震える声に、答える者はない。
その言葉だけが、静かな部屋の中に消えていった。
***
箒を手に宿屋の扉を開ける。
世話になってる場所の、せめてもの労働。
外の掃き掃除。
眩しい朝の光の中で、聖剣を振るっている奏がいた。
空を切る刃が、鋭い音を立てる。
そこに本当に敵がいたら、真っ二つになってるだろう。
倒れてから数日で、こんな鍛錬ができるまで回復した。
たまに目に宿っていた、暗い影のようなものも、ここ数日は見えない。
それでも、俺は奏に元の世界の料理を作り続けた。
簡単なものばかりだったけど、あいつは目に涙を浮かべて食べていた。
この世界でどんなことがあったのか、簡単には聞ける気がしなくて。
元の世界を思い出して、少しでも心がほぐれたらいい──そう思うことにした。
俺は箒を使って掃除をはじめた。
宿屋の前の石畳を丁寧に掃く。
箒の音に気づいたのか、奏が振り向いた。
「晴斗、おはよう」
俺は箒を動かしながら、少し肩をすくめた。
「数日前にぶっ倒れたのに、剣の鍛錬なんてやめろよ」
奏は額の汗を腕で拭う。
ヴァルガと戦った時は汗ひとつかいてなかった。
やっぱり本調子じゃないんだな。
「少し休むと感覚鈍るから……非常時に備えないと」
少し笑って、また剣を振り始める。
奏の耳にも、その噂は届いていたらしい。
ならずもの武装集団。
今やその噂は、街のあちこちで聞こえていた。
数日経っても、そいつらは街から離れていない。
むしろ、じわりと距離を詰めているという。
行方不明の人数は、さらに増えているらしかった。
ついには街の外に出ないよう触れが出た。
この街には頑丈な外壁がある。
門の警備も厚い。
街の中にいれば、きっと大丈夫。
そう思っても、俺の心の靄は晴れなかった。
「……この街、大丈夫かな」
ぽつりと呟く声に、奏は振り向かず答える。
「わからない。でも」
「早く晴斗を連れて、リヴェルトに帰らなきゃ」
また、言ってる。
何度も拒否したけど、奏は折れない。
ため息混じりに口を開きかける。
その時──
「晴斗さん!」
通りの向こうから、ラズの声が響いた。
見ると、ラズが大きく手を振り駆け寄ってくる。
「実演販売の準備してきました!」
「こんな時間から?言ってくれれば俺も手伝ったのに」
「いえいえ、晴斗さんはカレー作りに専念してください!雑事は私がやるので!」
俺がラズにカレーを振る舞ってから、彼女はすっかりその虜になってしまった。
自分のスパイスを売るなら、この料理の魅力は外せない──そう言って、その場で作って試食させる実演販売を思いついたらしい。
「俺なんかの適当なカレーを、世の中の人に食べさせるのは気が引けるけどな」
正直、元の世界でもスパイスから作るカレーなんて作ったことがなかった。ネットでちらっと見た記憶を頼りにスパイスを選び、配合もめちゃくちゃだ。
「そんな!もう晴斗さんのカレー無しで私のスパイスは語れません!」
今まで香辛料というのは、肉の臭み消しなどが主な使い道で、あくまでも脇役だったらしい。
それが、スパイスが主役のカレーを知って、ラズは「革命だわ!」と騒いでいた。
まあ、適当に作った割には美味くできたと思う。
嬉しそうに商売の話をしているラズを見ていると、俺まで嬉しくなってくる。
彼女には世話になってる。
ほんの少しでも恩返しができるなら、なんでも手伝おうと思った。
「っていうか、準備完了したってわざわざ言いに戻ってきたのか?」
昼前に広場に集合するって話だったのに。
ラズは気配り上手なんだな。
「あ、それもなんですけど、レシピを書いた紙……まだ宿に置いてあって」
「ああ……あれか」
俺は思い出して、思わず顔をしかめた。
ラズが、スパイスと共にカレーのレシピを無料で渡したいと俺に頼んできた。
字が書けないと言うと、ラズは代筆を申し出た。
ただ、"カレー"のタイトルだけは俺が書くことになった。彼女の意向で。
「晴斗さんの料理ですから!」
そう言って、ラズは引かなかった。
俺は渋々、見本を見よう見まねで書いて、出来上がったのは──
ミミズだ。
あの字が頭に浮かび、俺はため息をついた。
「あれ、恥ずかしいんだよな。へたくそで」
その言葉にラズは顔を横に振る。
「そんなことないです!一生懸命さが伝わってきますし、あの顔の絵も可愛いです」
誤魔化すように、カレーの字の横に顔文字を書いた。
にっこり顔にベロがでてるやつ。
「ラズが気に入ってくれてるなら、まあ……いいか」
「はい!可愛くて刷りすぎました!」
ラズは頭をかきながら笑った。
「重くない?手伝うよ」
「大丈夫です!晴斗さんは昼前に広場に来てくだされば!」
「後で迎えの馬車を……」
「いいって。散歩がてら歩いて行くよ」
そこまで遠い距離じゃない。
それに、ちょろっと料理するだけだし、迎えにきてもらうのは気が引けた。
俺の言葉に、ラズは少し困った顔をして、でも気を取り直しすように笑った。
「わかりました。それでは後ほど!よろしくお願いしますね!」
足早に宿に入っていくラズを見送り、俺は再び掃除を再開した。
その直後──
「晴斗が行くなら俺も行く」
ラズが来てからも、黙々と剣を振り続けていた奏が口を開いた。
「なんで?」
こいつは、ラズとほとんど口を聞かない。
彼女とは、あまり関わりたくないみたいだ。
恩返しとか、そんなのは考えてなさそうなのに。
「何があるか、わからないから」
その言葉に、武装集団の噂が頭をよぎる。
背筋が冷えた。
「いや、でも……街の中だぞ?」
奏は聖剣の刃を見つめ、それから静かに鞘に収めた。
「晴斗はさ、良い意味でも、悪い意味でも、元の世界の住人って感じだな」
「は? そりゃ……そうだろ? 奏だってそうだし……」
奏は少し寂しそうに笑った。
「……いや、なんでもない。忘れて」
そして顔を上げる。
「とにかく、俺も一緒に行くから」
そう言うと奏は、支度をするために宿屋の中へ入っていった。
***
結果を言ってしまえば、カレーを使った実演販売は大成功だった。
スパイスは飛ぶように売れ、用意したカレーも大人気で、店の前には行列ができていた。
俺は護衛と称して少し離れた場所にいた奏を呼び寄せ、客を捌くのを手伝わせる。
ラズの雇っている人たちだけじゃ手が回らない。
彼女には世話になってるんだから、これくらい当然だ。
俺は追加のカレーの具材を混ぜながら、渋々というような顔で仕事を始める奏を見つめた。
ぶすくれてるのに、手際はいい。
やっぱり、こいつがいると少しだけ場が楽になる。
スパイスと無料のレシピを求めるお客さんは、そのあともしばらく途切れなかった。
「晴斗さん、こっちはもう大丈夫なんで、先帰ってもらっていいですよ」
ラズが忙しそうに手を動かしながら話しかけてきた。
「いや、でもまだ大変だろ?」
確かに、昼前からカレー作りに客の応対、ずっと働き詰めでくたくただった。
それは彼女だって一緒だ。
いや、ラズの方が今日は早朝から働いている。
店先をちらりと見る。
さっきよりは落ち着いているが、行列はまだ消えていない。
「大丈夫です!楽しいので!」
「私が選んだ商品が、こんなに売れるのを見るのは初めてで……嬉しいんです」
笑っているのに、瞳が潤んでいた。
その姿に、俺は思わず口元が緩む。
「最後まで、一緒にやろう」
「晴斗さん……」
俺は奏の肩を軽く叩く。
「お前は途中参加だったんだから、まだ体力あるだろ?」
「ラズには世話になってるんだ。お前も恩を返せよ」
奏はうっと息を詰めた。
「わかった……」
「奏さん!ありがとうございます!」
「……いや」
嬉しそうに笑いかけるラズに、奏は居心地悪そうに手を動かした。
スパイスが売り切れて、ようやく店じまいとなった。
並んでいた最後の客まで届かず、ラズは買えなかった客に、商品が入荷したら必ず優先的に販売すると約束していた。
それを見ながら、俺は店の台に手をついていた。
俺はカレーを作って、皿によそう役だった。
別に大したことじゃない。
それでも、それが何百回と繰り返されたせいで、腕がじんわりと重い。
疲れた。
でも、悪くない疲労感だ。
これは、魔王城の厨房で知った感覚だ。
信頼し、信頼され、仕事をこなす。
やっぱり仲間とやる仕事って、いいな。
「晴斗さん!」
呼ばれて顔を上げると、ラズが駆け寄ってきて、俺の手と手を合わせてぴょんぴょん跳ねた。
「もう大成功です!全部晴斗さんのおかげです!」
「ラズが頑張ったからだよ。よかったな」
ラズは首をぶんぶんと振る。
「晴斗さんがいなかったら成功してないですよ!」
「大袈裟だって……」
俺は大したことしてない。
これは全部ラズの力だ。
思わず苦笑いしていると、ラズは何故か悔しそうな顔をしている。
そして、決意を固めたような顔で口を開いた。
「晴斗さん!私と商売を始めませんか!?」
「えっ」
突然のことに、目を瞬く。
「わかってほしくて。晴斗さんは、晴斗さん自身が思ってるより、すごい人なんですよ」
「あのカレー……スパイスが主役になる料理なんて、初めて見ました」
「……カレーは俺が考えたわけじゃないって」
「いえ、でも……知識とか考え方とか……何か、この世界の人とは違う気がして……」
その言葉にぎくりとした。
でも、ラズは俺の様子に気づかないまま、言葉を続ける。
「晴斗さんに、無限の可能性が見えるんです!商売の可能性が!」
ラズの必死さに、何故か恥ずかしくなってくる。
「それに、商売のことだけじゃなくて……」
「晴斗さんは、腰が低くて、頑張り屋で、誠実で……」
「能力とかそういうんじゃなくて、人の気持ちに寄り添えることのできる人だなって思ったんです」
「きっと、一緒に仕事していったら楽しくなるだろうなって……」
ラズの仲間たちも、俺を見てにこにこしている。
背中がこそばゆい。
そんなふうに、思ってくれてたなんて。
ラズたちと行商。きっとそれはやりがいがある仕事だろう。
この世界でツテもない俺にとっては、願ってもない話だった。
でも──
「ありがとう。でも俺、帰らなきゃならないとこがあるから」
「あ……やっぱり故郷に帰るんですか。すごく遠いんですよね?」
俯くラズを見て、申し訳ない気持ちになる。
「……故郷には、帰らないんだけどね」
「他で、待ってる奴がいるんだ」
夕焼けに赤く染まる空を見上げて、ヴァルガの顔を思い浮かべる。
友達ができたって、教えたい。
カレーを食べさせたり……この街で何をしたか、話したい。
ここに来たことを楽しかったと言ったら、あいつは怒るかな?
想像して、少し笑ってしまう。
そしたら、謝ろう。
でも俺が見て感じたこと、隠さずに話したいんだ。
早く、会いたいな……
胸が少しだけ苦しくなって息を吐き出す。
そんな俺をラズは見つめ、笑った。
「そうですか……じゃあ、その人の為にも、早く出発しないとですね!」
「何か、お手伝いできることがあれば遠慮なく言ってください!」
「うん、ありがとう」
やってもらってばかり、なんて思うのはやめよう。
そう思ったら、すんなりと感謝の気持ちだけが声になった。
魔王城に戻っても、きっと彼女と交流はできるはずだ。
ゆっくり恩を返せばいい。
そう思った。
***
店の片付けをしながら、レシピが一枚、地面に落ちているのを見つける。
スパイスとの数が合ってなくて、結構な量の紙が残ってしまったらしい。
拾い上げて、それを見つめた。
へたくそだけど……
それでも、書いてよかったな。
俺はそれをポケットにそっとしまった。
「晴斗、変わったな」
顔を上げると、奏がこちらをじっと見つめていた。
「元の世界じゃ、そんな顔したことなかったよ」
「……俺、今どんな顔してる?」
それには答えず、奏が独り言のような小さい声で呟く。
「俺とは……全然違う」
「え?」
「……なんでもない。少し、街を見回ってから帰る」
奏は振り返らず、そのまま路地に入って行った。




